第十話 引っ掻く音
レムスから馬車で三、四日ほどの距離に位置する都市、ベルナ。
セルジオ・ランドールは、この街の大司祭を務める六十代の男だった。感情よりも論理と史料を重んじる学者肌の人物であり、表向きは教会の教義に従いながらも、その正当性については長年、強い疑念を抱き続けていた。
その日も、セルジオは自室の椅子に腰掛け、机いっぱいに広げた古い書物を見つめていた。王都から報せが届いて、すでに七日が経過している。それでも、頭の中を覆う靄は晴れず、思考は同じ場所を巡り続けていた。
窓の外から、夕刻を告げる鐘の音が静かに響いてくる。机の上で揺れる蝋燭の炎が、積み上げられた書物の背表紙を、淡い光で照らしていた。聖騎士が、魔物ではなく、人の手によって殺害された。にわかには信じがたい報せだった。
しかし、それ以上にセルジオの心を捉えて離さない情報があった。殺害の際、紫の光が確認された。報告書に記されたその一文を思い返すたび、胸の奥で微かなざわめきが広がっていく。紫。それは、真理派に伝わる古い神話の中に、確かに記されている色だった。
擦り切れた頁に残された、ある一節。幾世代もの研究者たちが、その意味を探ろうと幾度となく指でなぞってきた記述である。もし、今回の報せが真実ならば。長年、真理派が唱え続けてきた説に、確かな裏付けが得られるかもしれない。
神話は、単なる作り話ではない。過去に実際に起きた出来事を核として、後世へと語り継がれてきたものなのではないか。それが証明されれば、真理派の研究は大きく前進する。だが、セルジオの胸に広がったのは、期待や喜びばかりではなかった。
むしろ、それらより先に、冷たいものが胸の底へと沈んでいく。仮に神話が真実だったとして、なぜ今になって、紫の光を操る何者かが現れたのか。
千年以上もの間、誰の目にも触れることなく、歴史の彼方に埋もれていたはずの力。それが、なぜこの時代になって姿を現したのか。
この七日間、セルジオは真理派に代々受け継がれてきた研究書を、幾度となく読み返していた。記録を洗い直し、古い記述を照らし合わせ、わずかな手がかりさえ見落とさないように努めてきた。しかし、求める答えは、まだどこにも見つかっていなかった。
そのときだった。部屋の外から、何かが扉を引っ掻く音が聞こえてきた。かり、かり。静まり返った室内に、乾いた音が小さく響く。軽く、それでいて規則的な音だった。それを聞いたセルジオは、思わず口元を緩めた。張り詰めていた思考が、ふっと解けていく。
「クロか」
扉を開けてほしいとき、クロは決まってこうする。何度開けてやっても、あの猫は鳴き声ひとつ上げず、ただ静かに爪を立てて扉を引っ掻くのだ。もっとも、この黒猫も、思えば謎の多い存在だった。
セルジオがベルナに赴任したときには、すでに教会に住み着いていた。ある女神の飼い猫だったとも、猫の姿をした魔物だとも言われているが、その真偽を知る者はいない。ただ、一つだけ確かなことがあった。
クロは、ときおり人の言葉を理解しているとしか思えない行動を取る。偶然にしては、あまりにも不可解なことが多かった。セルジオは椅子から立ち上がると、ゆっくりと扉へ向かい、取っ手に手をかけた。
扉を開けた先にいたのは、予想どおりの黒猫と、見慣れない服を着た少年だった。少年の顔や手には乾いた泥がこびりつき、衣服にも長旅の汚れが目立つ。全身から疲労が滲み出ており、立っているだけでも精いっぱいといった様子だった。
セルジオと目が合うと、少年は気まずそうに視線を逸らした。
「ふむ。おかえり、クロ」
まずは足元の黒猫に声をかけ、それから少年へと視線を移す。穏やかな眼差しの奥で、長年の研究生活で培われた学者の観察眼が、目の前の少年を静かに捉えていた。
「それと、君は誰かな?」
「あー……クロの知り合いの、カイと言います。セルジオさん」
セルジオの眉が、わずかに動いた。初対面の少年が、なぜ自分の名を知っているのか。
「なぜ、私の名を知っている?」
「クロに聞きました。協力してくれるって」
セルジオは、足元のクロへと目を落とした。黒猫は何も答えず、ただ尻尾をゆっくりと揺らしている。まるで、何も問題はないと言わんばかりの態度だった。その何食わぬ様子が、かえってセルジオの疑念を深める。
「ふむ……。まあいい。とりあえず、中に入りなさい」
今すぐ問い詰めたいことは山ほどあった。しかし、目の前の少年の疲れ切った様子を見れば、まずは休ませるのが先だろう。カイは警戒心を隠しきれないまま、それでも促されるように室内へと足を踏み入れた。そして、部屋の中を見回した途端、目を丸くする。
壁際には本棚が並び、机の上や床にも書物が積み上げられていた。古い羊皮紙や綴じ紐の切れた冊子まで混在し、足の踏み場を確保するのも難しそうな有様だった。
「お邪魔します」
「聞きたいことは山ほどあるが……その前に、まず風呂に入りなさい」
「は?」
カイの口から、間の抜けた声が漏れた。あまりにも予想外の言葉だったのだろう。少年はぽかんと口を開けたまま、セルジオを見つめている。その反応に、セルジオは小さく笑みをこぼした。
「安心しなさい。ここには、君くらいの年頃の子供もいる。何も心配することはない」
そう言って、セルジオは扉の外へと声をかけた。
「誰か、いるか。見習いを一人、呼んでくれ」
ほどなくして、廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。姿を現したのは、まだあどけなさの残る少女だった。リゼという名の教会見習いで、袖をまくった衣服の隙間から、細くもしっかりとした腕が覗いている。
「お呼びでしょうか?」
「リゼ。カイくんを風呂に入れてあげてくれるかな」
「分かりました」
「いや、大丈夫です」
カイが慌てて口を挟んだ。しかし、リゼはまったく気にする様子もなく、にこにこと笑みを浮かべたまま少年へと歩み寄っていく。
「恥ずかしがらなくていいよ。こういうことには慣れてるから」
「いや、そういう問題じゃ……」
言い終える前に、リゼがカイの腕を取った。そのまま有無を言わせぬ勢いで、少年を部屋の外へと連れ出していく。
「ちょ、ちょっと待ってください! 自分でできますから!」
慌てた抗議の声が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。セルジオは、その後ろ姿を見送りながら、静かに息を吐いた。ほんの数分前まで、古い書物と自分の思考だけに満たされていた部屋。
それが今では、嵐が通り過ぎた後のように、妙にがらんとして感じられた。セルジオは視線を足元へと落とした。
「クロ。これは、どういうことかな?」
問いかけられた黒猫は、答える代わりに尻尾をゆらりと揺らした。金色の瞳には、蝋燭の炎が小さく映り込んでいる。その光は、まるで何もかも承知したうえで、わざと黙っているかのように、悪戯っぽく揺れていた。




