↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界なき者  作者: 虎テツ
第二章 アストリア聖王国 静寂の帳

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/31

第十一話 生まれて初めての

「あー……」


 湯に肩まで浸かった瞬間、間の抜けた声が自然と漏れた。立ち昇る白い湯気が、薄暗い浴室の天井へとゆっくり溶け込んでいく。


 こんなに温かい湯に浸かったのは、生まれて初めてだった。雨の日に、体にこびりついた汚れを洗い流す程度のことなら、何度もしたことがある。だが、今まで経験してきたものとは、まるで違った。体の芯まで、じんわりと温もりが染み渡っていく。


 風呂場に着いた途端、服を脱がされ、湯が透明になるまで体を洗われたときは驚いた。何度湯を入れ替えても、すぐに黒く濁ってしまう。そんな俺を見て、リゼが呆れたように笑っていた。


 俺は湯に浸かりながら、ぼんやりと考えていた。


 どうして、こうなったんだろう。教会騎士に襲われ、返り討ちにした。空戦艦《レヴィアタン》に助けを求めたが、断られた。そうかと思えば、今度は協力者に会いに行けと言われ、言われるままに向かってみれば、待っていたのは一匹の猫だった。


 教会に連れて行かれると聞いて、あれほど警戒していたのに、気づけば人生で初めての風呂に浸かっている。我ながら、訳の分からない一日だった。心地よい湯の温もりに包まれているうちに、ぬるま湯のような眠気が、じわじわと瞼の裏に広がってきた。


「カイくーん、大丈夫?」


 不意に、扉の向こうから声が聞こえた。軽いノックの音がしたかと思うと、返事をする間もなく、扉がゆっくりと開き始める。湯気が隙間から廊下へと、ふわりと流れ出していった。


「大丈夫だから、入ってくるな!」


 慌てて叫ぶと、扉の隙間からリゼが悪びれる様子もなく顔を覗かせた。湯の中で、俺は思わず体を縮こまらせる。


「お風呂、長く入りすぎるとのぼせちゃうよ。そろそろ出なさい」


「分かったから」


「着てた服は洗濯しとくから。これ、着てね」


 リゼはそう言って、畳んだ服を脱衣所の棚に置くと、あっさりと扉を閉めて出ていった。足音が遠ざかっていくのを確かめてから、俺はようやく肩の力を抜いた。まったく、油断も隙もない。


 俺は大きくため息をついた。のぼせかけた頭を冷やすように、顔の半分を湯の中に沈める。ぶくぶくと小さな泡が水面に浮かび、弾けて消えた。しばらくして湯から上がると、差し出された服に袖を通した。


 生まれて初めて袖を通す、洗い立ての清潔な布。その柔らかな感触が、どこかくすぐったく感じられた。こんな服を着ること自体、俺には縁のないものだと思っていた。廊下に出ると、リゼが腕を組んで待っていた。


「サイズはバッチリね」


「はい」


 リゼは俺の少し先を歩き、先ほどの部屋へと案内していく。石造りの廊下には、二人分の足音だけが、こつこつと柔らかく響いていた。


「ご飯まではまだ時間があるから、軽いものを用意しといたよ」


「なんで?」


 思わず聞き返していた。見ず知らずの相手に、ただで食べ物を出す。その理由が、俺にはまったく分からなかった。


「カイくんは、新しく来た子でしょ? 変わった服を着てたけど、それ以上に痩せすぎてるし。ここには、君みたいな子がたくさんいるから。気にしなくていいよ」


「俺は、違うけど」


「そうなの?」


 リゼは意外そうに首を傾げた。


 そんな会話を交わしているうちに、俺たちはセルジオが待つ部屋に着いていた。扉の隙間から、焼きたてのパンを思わせる香ばしい匂いが、ほんのりと漂ってくる。


「さっぱりしたかい」


 セルジオが机の向こうから声をかけてきた。先ほどまで広げられていた古い書物は脇へと片づけられ、机の上には皿と、湯気の立つ茶が用意されていた。


「サンドイッチを用意してもらった。食べながら話そうか。ほら、座りなさい」


 セルジオは椅子を示して、穏やかに促した。その仕草は、まるで孫を迎える祖父のようだった。


「私はこれで失礼しますね」


 リゼはそう言い残し、小さく会釈をすると、静かに部屋を出ていった。扉が閉まると、室内には再び静けさが戻った。俺は勧められるまま椅子に腰を下ろし、机の上のサンドイッチに手を伸ばした。一口かじった瞬間、思わず声が漏れた。


「うまい」


 セルジオは、机の向こうから俺の様子を微笑ましそうに眺めていた。気づけば夢中になって、二口、三口と頬張っていた。ふんわりとしたパンの甘みと、挟まれた具材の旨味が、空っぽだった腹に染み渡っていく。


 温かい風呂に、清潔な服。そして、腹いっぱい食べられる食事。どれも、俺にとっては当たり前とは程遠いものだった。


「さて。いろいろと聞きたいことはあるが……まずは、そこからだ」


 セルジオが、穏やかな声で切り出した。


「クロに聞いた、とはどういうことだい?」


 その静かな問いかけに、俺はサンドイッチを持つ手を止めた。口の中のものをゆっくりと飲み込み、喉が小さく鳴る。ここまで親切にしてもらった相手に、嘘をつくのは気が引けた。だが、何もかも話していいものかどうかも分からない。


 何を、どこまで話すべきか。俺は、まだ何も決めていなかった。足元では、クロが素知らぬ顔で丸くなっている。まるで、自分には関係ないとでも言いたげに。

読んでいただき、ありがとうございます。

本文中で世界観についても説明したかったのですが、うまく表現することができず、後書きに設定メモを追加することにしました。

現在、第一章まで公開しております。本編の内容に変更はありませんので、お時間がありましたら、そちらも読んでいただけると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。