第二話 導かれるままに
〈おはようございます〉
眠りの底に沈んでいた意識へ、突然、声が響いた。一人のはずだった。そのはずなのに、誰かに声をかけられた。俺は反射的に身を起こし、周囲を見回す。昨日、拾った喋る魔道具。どうやら、そいつに起こされたらしい。物心ついた頃から、ずっと一人で生きてきた。誰かに起こされる。そんな経験は、これまで一度もなかった。それが妙に新鮮で、同時に、どう反応すればいいのか分からない。
〈今日はどうしますか。早速、新しい魔道具を探しに行きますか〉
「まずは教会の炊き出しをもらいに行くよ」
教会の炊き出しは、毎日午前中に一度だけ行われる。その時間になると、城壁の外――レムスのスラムに暮らす者たちが、教会前の広場へ集まり、長い列を作る。広場の両脇には教会騎士が立ち、中央では神子候補と呼ばれる若い女が、一人ひとりに椀を手渡していく。
彼女の名は、ミレイア。誰に対しても分け隔てなく、柔らかな笑みを向ける少女だった。順番を間違えた老人にも。手から椀を落として泣き出した子供にも。彼女は苛立つ様子を少しも見せない。まるで、目の前にいるすべての人間を受け入れることが、自分の役目であるかのように。
その傍らに控えているのは、同じ救済派に属する騎士だった。騎士は列の隅々まで視線を走らせ、揉め事の芽を見逃さない。誰かが列へ割り込もうとすれば、すぐさま槍の柄を突き出して制止する。ミレイアの柔らかな雰囲気と、騎士の張り詰めた警戒。正反対にも見える二人が並ぶことで、この炊き出しの場は、どうにか秩序を保っていた。
ただ――いつもなら、ここにはもう一人いるはずだった。豪快な声で「たんと食えよ」と言いながら、椀を差し出してくる大柄な聖騎士。小さな子供たちからは「お兄ちゃん」と呼ばれている男だ。スラムの子供たちにも分け隔てなく接する、数少ない大人だった。俺にも、いつも真っ先に声をかけてくる。
だが、今日はその姿がなかった。理由は分からない。ただ、いつもと違う。その小さな違和感だけが、胸の奥に残っていた。
この場で騒ぎを起こせば、今日一日の食事にありつけなくなる。だから誰もが必要以上に口を開かず、黙って列に並んでいた。俺も同じだった。目立たず、静かに順番を待つ。それだけでいい。今日も、いつもと変わらない一日になる。そう思っていた。
〈上空より、複数の敵性反応が接近。伏せてください〉
ゼロから突然、警告が飛び込んできた。何のことか理解できず、俺はその場で立ち尽くす。
次の瞬間――。
巨大な影が、いくつも頭上を横切った。コウモリに似た姿をした魔物の群れ。ウィンドバット。翼が空気を叩くたび、強烈な風圧が広場を襲う。鍋が宙へ巻き上げられ、椀が次々と吹き飛ばされる。悲鳴が一斉に上がった。
「ウィンドバットだ! なんで、こんなところにいるんだ!」
突然の魔物の襲撃に混乱しながら、一人の教会騎士が叫んだ。
防壁の上には、魔導弩が設置されている。普段なら、この規模の群れがレムスの近くまで接近することなどあり得ない。中央世界から侵入してきたのか。それとも、別の理由があるのか。考える暇さえ与えられないまま、状況は急速に悪化していく。
「神子様を先に!」
騎士たちがミレイアを取り囲み、彼女を庇うようにして安全な場所へ移動させる。一方、残った騎士たちは剣を抜いた。
「ヒート!」
詠唱と同時に、刃が赤く染まる。初級魔法。魔力によって刃そのものを加熱し、攻撃力を高める魔法だ。騎士たちは炎を纏った剣を構え、迎撃態勢へ入る。
だが――。
ウィンドバットの群れは、それを嘲笑うかのように甲高い鳴き声を上げた。一匹が大きく翼を広げる。周囲の空気が一気に流れ込み、渦を巻いた。集束した風が、鋭利な刃の形へと変わっていく。中級風魔法――《ウィンドブレード》。同じ魔法でも、初級と中級では威力がまるで違う。
次の瞬間。圧縮された風の刃が放たれた。地面が深く抉られ、衝撃波と爆風が広場を薙ぎ払う。
「うわっ!」
俺は受け身を取ることすらできなかった。身体が宙へ投げ出され、そのまま地面へ叩きつけられる。強烈な衝撃。一瞬、視界が真っ白になった。何が起きたのか理解できない。耳鳴りだけが響いている。それでも、身体は本能に従って動いていた。立ち上がる。そして、無我夢中で走り出した。どこへ向かえばいいのか分からない。ただ、この場所から離れなければならない。人の波に押し流されながら、俺は必死に足を動かした。
〈カイ、落ち着いてください。斜め右、瓦礫の方へ逃げてください〉
ゼロの声だけが、混乱した頭の中ではっきりと聞こえた。
俺は言われた通り、斜め右へ進路を変えた。足元には瓦礫が散乱している。何度も足を取られ、転びそうになる。それでも手をつき、身体を起こし、走り続けた。瓦礫の間を縫うようにして、必死に逃げる。
背後から、羽ばたきの音が近づいてくる。振り返る余裕などなかった。だが、地面に伸びた影が、少しずつ大きくなっている。その影は、明らかに俺を追っていた。一匹のウィンドバットが、俺だけを狙って空から追いかけてきている。
〈目の前の瓦礫の影に隠れてください〉
言われるより早く、俺は身体を投げ出した。瓦礫と瓦礫の間にできた、わずかな隙間。そこへ転がり込む。身体を無理やり押し込み、息を殺す。狭い。身動きすら取れない。それでも、今はここしかない。
俺は瓦礫の陰から、そっと外を窺った。いた。ウィンドバットが、まだ周囲を旋回している。飛び去る気配はない。俺を探している。見つかれば、逃げ場はない。そう思った瞬間、身体の震えが止まらなくなった。
終わりだ。
胸の奥から、冷たい絶望が込み上げてくる。俺は息を殺したまま、ただ魔物が飛び去るのを待つしかなかった。




