第一話 名もなき者
アストリア聖王国――西の大陸に十二ある魔法諸国のひとつであり、中央世界と国境を接する最前線国家のひとつでもある。教会が実権を握るこの国では、遥か昔に起きたという戦争の記憶が、今もなお国の在り方を縛り続けていた。
魔法文明と、かつて存在したという機械文明。両文明の間で繰り広げられた戦争が、何年前の出来事なのかを正確に語れる者は、もはや存在しない。ただ、その爪痕だけが今もなお、大陸の各地に残されていた。
国内は、大きく三つの地域に分けられる。西部には、王都であり聖都でもあるアストラを中心とした比較的安全な地域が広がっている。教会の総本山が置かれ、商業都市や魔法研究都市が連なる、豊かで整備された土地だ。中央部には、農業や鉱業、医療など、国の基盤を支える中間地域が広がっている。そして東部――中央世界と接する最前線には、フォルティス、グランベル、レムスの三都市が、防衛線の盾として並んでいた。
その最も南に位置し、城壁一枚を隔てて中央世界と向き合う都市。それが、レムスだった。
防衛都市として名を連ねてはいるものの、都市そのものは貧しい。国の防衛費の大半は城壁の維持と兵力の確保に割かれ、そこで暮らす民の生活にまで回す余裕はなかった。都市の西側には、旧文明の残骸が積み上げられた巨大な廃棄場が広がっている。その周囲には、スラムが形成されていた。
少年は、そのスラムで生きていた。物心がついた頃には、すでにこの場所にいた。年齢は、おそらく十歳前後。痩せ細った身体に、継ぎ接ぎだらけの布をまとっている。鋭いというより、常に何かに怯えているような目つきだった。物音がするたびに肩が跳ね、人の視線を感じるたびに俯く。それは、この場所で十年もの間、息を潜めて生きてきた者の癖だった。
彼には、名前がない。自分自身のことを、彼は「俺」としか呼ばなかった。名乗る相手もいなければ、名乗る必要もない。誰かに覚えられるということは、誰かに目をつけられるということと同じだった。だから俺は、できる限り静かに生きてきた。目立たない。揉め事を起こさない。誰の記憶にも残らない。それだけを心掛けていた。
スラムの住人の多くは、魔力が少ない。あるいは、ほとんど持っていない。それでも、わずかでも魔力を持っていれば、基礎的な魔法を使うことができる。種火を起こす。飲み水を確保する。明かりを灯す。生きていくために必要な最低限の魔法だった。
しかし――俺には、魔力がまったくなかった。本来なら、すべての人間が持っているはずの魔力。それを、俺だけが持っていなかった。その事実を隠しながら、俺は生きてきた。
教会がどのような仕組みで、何を調べているのか。俺は詳しく知らない。ただ、噂だけは聞いたことがあった。魔力を持たずに生まれた子供は、処分される。本当かどうかは分からない。確かめる術もない。それでも、その噂を耳にしてから、俺は以前にも増して息を潜めるようになった。誰にも気づかれてはいけない。誰の目にも留まってはいけない。それだけを考えて、生きてきた。
今日も俺は、瓦礫の山を掻き分けながら、使えそうな物を拾い集めていた。錆びついた剣の欠片。罅の入った魔石。壊れた魔道具の残骸。朽ちた鎧の一部。拾い集めた物を、ひとつずつ布袋へ詰め込んでいく。その手つきに迷いはない。どれが金になるのか。どれが素材として使えるのか。そして、どれがただのゴミなのか。十年もこの仕事を続けていれば、嫌でも身につく。
日が傾き始める頃には、袋はそれなりの重さになっていた。俺はゴミ捨て場を後にし、スラムの外れにある買取屋へ向かった。
「今日はこんなもんか」
店主の老人は、袋の中身を無造作にぶちまけると、慣れた手つきで選別していく。使える部品。素材として売れる金属。そして、ただの屑。老人の指先が止まるたび、それに値段がつくかどうかが決まっていく。
「魔石はいい値がつく。剣の欠片は……まあ、こんなもんだな」
差し出された硬貨は、わずかなものだった。それでも、パン一つ分にはなる。
「また明日な」
老人はそれだけ言うと、興味を失ったように店の奥へ引っ込んでいった。余計な会話をしない。この店を選んでいる理由のひとつだった。
硬貨を握りしめ、俺はスラムの奥――寝床にしている崩れた建物の陰へと戻っていく。
そんな日常が変わったのは、何の変哲もない、ある日の午後だった。その日は、いつもより収穫が悪かった。そのため、普段は足を踏み入れない奥の方まで探しに来ていた。
その時、何かが聞こえた気がした。俺は周囲を見渡す。誰もいない。気のせいか。そう思い、再び瓦礫を漁り始める。
〈そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ〉
突然、謎の声が頭の中へ直接響いた。
「どこに隠れてやがる! 出てこいよ!」
俺は思わず叫んでいた。
〈落ち着いてください。私は……魔道具、みたいなものです。力になりますよ〉
魔道具が、喋る? 俺は動揺を隠せないまま、辺りを見回し続けた。
〈一回、騙されたと思って。壁の隙間にある布を拾ってみてください〉
言われた通り、目の前の崩れた壁へ視線を向ける。確かに、隙間に布が挟まっていた。人が隠れられるほどの空間はなさそうだ。俺は恐る恐る、その布を拾い上げる。穴が空き、ところどころ引き裂かれている。それでも、見たことのない上質な生地であることは分かった。
〈その布の中に、手のひらサイズの四角いものが二つと、短い棒があるはずです。探してみてください〉
困惑しながらも、言われるがまま布の中を探る。四角いものは二つ。片方は手のひらに余裕で収まる程度の大きさで、もう片方はそれより一回り大きい。二つは、細い線で繋がっていた。短い棒は、握り込むと少しだけ手からはみ出す程度の大きさだった。両端には、それぞれ穴が空いている。片方は広く浅い穴。もう片方は、四角いものから伸びる線が、ちょうど差し込めそうな細い穴だった。
「これが本当に魔道具なのか。何ができるんだよ」
疑いながら、角度を変えて眺め回す。
〈これだけでは、できることは限られますが……種類が揃えば、色々できますよ〉
「そうなのか。……ただ、俺には使えないから、売るよ」
〈待ってください!〉
慌てたような声が、俺の言葉を遮った。
〈私は普通の魔道具ではありません。魔力がない者しか使えない、特別な魔道具です〉
「待て。何で魔力がないと思ったんだよ」
動揺しながら、俺は問い返した。
〈そもそも、魔力があれば私と会話すらできません〉
声は、あくまで冷静だった。
〈私と会話ができるということは、魔力がない。つまり、私を使えるということです〉
「なるほどな」
困惑しながらも、俺は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
〈とはいえ、今の状態では、できることは限られています〉
「どうすればいいんだよ」
〈一緒に探しに行きましょう〉
「あー、とりあえず今日はもう遅いから、また明日にしよう」
まだ半信半疑のまま、俺はスラムの寝床へと帰路についた。周囲を何度も見渡し、人がいないことを確認する。そして、崩壊した瓦礫の隙間――子供一人がようやく通れるほどの狭い空間へ、身体を滑り込ませた。そこが、俺の寝床だった。スラムで暮らす者は、大人でさえ油断ならない。ましてや、子供が警戒しすぎるということはない。
〈そういえば、まだ名前を聞いていませんでした〉
「俺には名前がないんだ」
俺は困惑しながら、少し寂しそうに呟いた。
〈それは困りましたね。それでは仮でカイと呼ばせていただきます。私はゼロです〉
「俺はカイで。あんたはゼロ」
戸惑いながらも、どこか嬉しそうに、俺はその名を繰り返した。
スラムで魔道具を拾うことなど、まずない。それなのに、今日拾ったのは、ただの魔道具ではなかった。
――喋る魔道具だった。
しかも、本来なら魔力がなければ使えないはずのものが、魔力がない者しか使えないと言っている。そんな訳の分からない喋る魔道具を、俺は抱きかかえるようにして、眠りについた。




