第七話 待っていた影
空戦艦を後にしてから、何日が経っただろうか。街道や街を避けながら、平原の外れを歩き続けていた。連日の緊張と疲労で体は重く、足取りも鈍い。そんな俺の目に、遠くの街らしき影が映った。
〈反応があります〉
ゼロの声が、不意に鋭さを帯びた。いつもの淡々とした調子とは違う、張り詰めた響きだった。心臓が一瞬跳ねる。反射的に足を止め、懐の光学ブレードに手をかけながら、周囲の草むらへ視線を走らせた。風に揺れる草の音だけが、やけに大きく耳に届く。
〈街には近づかず、この先で進路を変えましょう〉
「おい、どこへ行くんだよ」
〈通信が入りました。こちらで待っているそうです〉
言われるままに進路を変えると、瓦礫の混じる小さな丘の陰に、何かが座っているのが見えた。夕暮れの薄明かりの中、その影は微動だにせず、じっとこちらを見据えていた。黒い猫だった。艶やかな黒毛が、そよ風にわずかに揺れている。崩れた石の上にちょこんと座る姿は、荒れ果てた景色の中で、奇妙なほど場違いに映った。
「猫?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。追っ手か、あるいは機械の兵器か。そんな相手を想像して身構えていただけに、あまりにも予想外の姿だった。張り詰めていた緊張が、ほんの一瞬だけ肩から抜け落ちる。
〈やあ、初めまして〉
突然、頭の中に聞き覚えのない声が響いた。ゼロとは違う。少し軽く、飄々とした調子の声だった。心臓が再び跳ねる。声の主を探して辺りを見回したが、周囲には黒猫以外、誰の姿もなかった。
「喋った……」
驚きのあまり、それしか言葉が出てこなかった。ゼロの声を初めて聞いたときとは、また違う種類の衝撃だった。目の前の小さな獣が、確かに人間の言葉で、頭の中に直接語りかけてきている。
〈僕はクロ。よろしく〉
黒猫は俺をじっと見つめながら、尻尾をゆらりと揺らした。金色の瞳が、街の灯りの残照を受けてかすかに光っている。人間を怖がる様子は微塵もなく、むしろこちらを観察するように、悠々と構えていた。
「……お前も、ゼロみたいに中に何か入ってるのか?」
〈お前って、初対面でその反応は、なかなか酷いなあ〉
クロは気にした様子もなく、軽く笑うような気配を漂わせた。尻尾の先が、楽しげに小さく跳ねる。俺の失礼な物言いさえ、退屈しのぎの余興として面白がっているようだった。
〈まあいいさ。改めて、僕はクロ。見ての通り、猫だ〉
〈目的を伺ってもよろしいですか〉
ゼロの声が割り込んだ。硬く、警戒を隠そうともしない声だった。普段の淡々とした響きとは違い、鋭い棘のようなものが混じっている。
〈そう怒るなよ、AI-C01-63973007くん。第一世代のAIが、まだ現役で動いているとはね〉
どこか、こちらを値踏みするような響きがあった。ただの猫にしか見えない姿。その向こうにいる存在の正体は、まるで見通せない。声を聞いているだけで、背筋に冷たいものが走った。
〈初対面のはずですが〉
〈まあまあ、そう硬くなるなよ。カエデから聞いた情報で、ある程度は察しがつくってだけさ〉
クロは、はぐらかすように言葉を続けた。前脚でゆっくりと顔を撫でる。その仕草には、どこまでも余裕に満ちた、人を食ったような態度が滲んでいた。
〈それで、目的の話だったな。カエデから通信があったんだよ。困っている人間がいるから、手を貸してやってくれってね。それに応えただけさ〉
「カエデとの関係は?」
〈関係ってほどのものじゃないよ。前々から、空戦艦に通信を送っていたんだ。大抵は無視されていたみたいだけど、今回は僕に直接、困っている人間がいるから助けてやってほしいって連絡してきた。だから、こうして来たんだよ〉
クロは退屈そうに耳を動かした。長話に飽きたとでも言いたげに、小さく欠伸を噛み殺す。その気ままな仕草とは裏腹に、金色の瞳だけは、俺の反応を見逃すまいと静かに光っていた。
〈空戦艦には、民間人には手を貸せないと言われ、断られました。あなたは、独自の判断で行動しても問題ないのですか?〉
〈ちゃんと許可は取っているよ。好きにしていいと言われたから来たんだけどな。手助けがいらないなら、帰るけど?〉
「待ってくれ!」
俺は慌てて口を挟んだ。喉が、思わず干上がる。ここで見放されれば、ほかに頼れる当てなどどこにもなかった。意地を張っている余裕なんて、今の俺にはない。
「悪い。助けてほしい」
〈……申し訳ありませんでした〉
ゼロも、それに続いた。頭を下げるような気配が伝わってくる。普段は落ち着き払った声が、どこか悔しげに揺れていた。それでも、俺のために言葉を飲み込んでくれたのだと分かった。
〈しょうがないなあ〉
クロはそう呟くと、ゆっくりと立ち上がった。しなやかな体を伸ばし、瓦礫の上から音もなく飛び降りる。着地した瞬間でさえ、土埃ひとつ立たなかった。
〈ついてきなよ〉
「どこへ行くんだ?」
〈教会のトップのところさ〉
その一言に、俺は思わず身構えた。全身の血の気が、瞬時に引いていく。握りしめた手のひらに、じわりと汗が滲んだ。逃げ出してきたはずの場所の名を、まさかこんな形で聞くことになるとは思わなかった。
「教会の……?」
〈安心しなよ。少なくとも、悪いようにはしないよ〉
クロはそう言い残すと、街の方角へ悠然と歩き出した。細い尻尾が、夕闇の中でゆらゆらと揺れている。俺はその後ろ姿をしばらく見つめていたが、やがて意を決し、慌てて追いかけた。




