第三話 遠吠えの輪
〈カイ、起きてください。緊急事態です〉
頭の中に響いたゼロの声に、深い眠りの底から意識を引き戻された。全身が瞬時に強張り、眠気が吹き飛ぶ。
「なんだ」
重い瞼をこじ開けても、周囲は深い闇に包まれていた。視界に入るのは、消えかけた焚き火の残り火が放つ、かすかな赤い光だけだった。
〈前回遭遇した群れとは別のファングウルフです。六頭います。すでに包囲されていますが、防護服は機能しています。大丈夫です。落ち着いて対処しましょう〉
俺は跳ね起き、懐から光学ブレードを引き抜いた。焚き火はほとんど消え、目を凝らしても闇の向こうに何がいるのか分からない。それでも、ゼロの声は敵の位置を正確に捉えていた。心臓が耳の奥で激しく脈打つ。
〈噛みつきや爪による攻撃なら、防護服は破れません。顔さえ守れば、致命傷を負う危険は低いです。落ち着いてください〉
「分かった」
返事はしたものの、頭では理解できても、身体がついてこなかった。前回の恐怖が鮮明に蘇る。思考がまとまらず、呼吸だけが浅くなっていく。闇の向こう、木々の隙間に、鈍く光る一対の目が浮かび上がった。一頭。さらにもう一頭。その奥にも、別の光が見える。自分が完全に取り囲まれていることを、ようやく実感した。一頭が地を蹴り、飛びかかってくる。考えるより先に、俺は光学ブレードを振り回していた。刃は空を切り、勢い余った身体が大きく傾く。
〈落ち着いてください。正確に狙う必要はありません。今は防御を優先しましょう〉
ゼロの声は聞こえていた。それでも、身体は思うように動かない。恐怖が全身を支配し、まともな判断ができなかった。横合いから別のファングウルフが襲いかかり、爪が肩を掠めた。鋭い衝撃が走る。だが、布が裂ける感触はなかった。安堵する間もなく、次の影が迫る。振り向きざまに刃を振るったが、狼は間一髪で身を翻し、難なく攻撃を躱した。直後、ふくらはぎに強い圧迫感が走った。別の一頭が噛みついていた。牙が食い込む感覚はある。だが、皮膚に届く感触はなかった。
「ッ!」
俺は反射的に足を蹴り上げた。狼の牙が外れた瞬間、身体の軸が崩れる。踏ん張ることもできず、俺は地面を転がった。土と枯れ葉の匂いが鼻先をかすめる。視界が揺れる中、迫ってきた爪撃を紙一重で躱した。息をつく暇もなく、今度は別の影が横から突っ込んでくる。俺は無我夢中で刃を振り抜いた。狙いを定めたわけではない。ただ振り回した刃が、駆け抜けようとした一頭の身体を捉えた。焼け焦げた匂いが漂い、甲高い悲鳴が夜の森に響いた。
「当たった、のか……?」
自分でも何が起きたのか分からないまま、俺は光学ブレードを構え直した。息が上がり、腕が震えている。その直後、正面から突進してきた一頭の体当たりを受け、俺は弾き飛ばされた。地面を転がり、背中が木の幹に激突する。
「がっ……!」
肺の中の空気が、一気に押し出された。視界が一瞬、白く弾ける。足元の感覚が遠のき、身体が思うように動かない。それでも、追撃を恐れる本能が、俺を無理やり動かした。光学ブレードを振り回す。赤熱した刃が闇の中に弧を描いた。迫っていたファングウルフたちは牙を剥き、唸り声を上げながら距離を取る。やがて、俺を取り囲むように、低い唸り声が円を描いて移動し始めた。
〈防護服は破れていません。ゆっくり深呼吸してください〉
ゼロの平坦な声が、頭の中で繰り返される。その淡々とした響きが、今は不思議なほど頼もしかった。何も考えられなくなりそうな意識を、かろうじて現実につなぎ止めてくれる。息を詰まらせながら、俺は自分の身体を見下ろした。肩には爪で引っかかれた跡があり、脚には噛まれた圧迫感が残っている。背中にも鈍い痛みがあった。それでも、防護服は破れていなかった。傷は負っていない。
(大丈夫、なのか……)
その事実を認識した瞬間、張り詰めていた意識が少しずつ冷静さを取り戻していく。恐怖に飲み込まれかけていた頭が、ようやく周囲の状況を捉え始めた。
〈斜め右前方です。距離が近いので、注意してください〉
「分かった。今度は聞く」
俺は光学ブレードを構え直し、顔を庇うように身を縮めた。指示された方向へ、迷わず刃を振るう。手応えがあった。一頭が甲高い声を上げ、怯んで後退する。
〈次は斜め左後方です。落ち着いて対処しましょう〉
ゼロの指示に従い、俺は身体を捻った。迫っていた影に向かって刃を振り下ろす。焼け焦げた匂いが鼻を突き、狼の悲鳴が夜の森に響いた。恐怖が消えたわけではない。それでも、ゼロの声に従えば、何をすべきかは分かる。俺は呼吸を整え、次の攻撃に備えた。そうして二頭、三頭と倒したところで、残ったファングウルフたちの動きに変化が現れた。狼たちは急に距離を取り始めた。こちらを警戒するように、一定の間合いを保ちながら周囲を回り、低い唸り声を上げている。
「逃げたのか?」
〈そのようですね。数の優位が崩れたため、これ以上の戦闘は不利だと判断したのでしょう〉
やがて、遠吠えが聞こえた。一つ、また一つと、声が夜の森の奥へ遠ざかっていく。最後の唸り声が消えると、辺りは再び静寂に包まれた。俺はその場に膝をついた。荒い呼吸を繰り返すうち、ようやく身体から力が抜けていく。全身を覆っていた震えも、少しずつ収まっていった。
(助かった……のか)
まだ信じられなかった。俺はしばらく、その場から動けずにいた。握り締めた光学ブレードの柄は汗で濡れていた。指を開こうとしても、強張った関節がなかなか動かない。脚には噛まれた圧迫感が残り、背中は鈍く痛んでいる。今の出来事が夢ではなかったことを、身体が嫌というほど教えてくれていた。消えかけた焚き火が、最後の火の粉を一つ弾いた。そして、静かに消えた。夜の森を、再び静寂が包み込む。だが、静けさが戻っても、先ほどの遠吠えは耳の奥に残っていた。あの低い唸り声も、闇の中で光っていた目も、まだすぐそばにあるような気がしてならなかった。




