第十七話 伝えられた報せ
朝の聖堂は、まだ静けさの中にあった。高い窓から差し込む淡い光が、石造りの廊下に長い影を落としている。夜の冷え込みは壁や床に残ったままで、吐く息もうっすらと白い。祈りの鐘が鳴り終えてからしばらく経ち、教会本部の一室では、大司祭が執務に取りかかったところだった。その静寂を破るように、廊下から慌ただしい足音が近づいてくる。やがて扉が勢いよく開き、伝令が駆け込んできた。まだ朝の空気が肌寒く残る時刻だった。息は荒く、額には汗が滲んでいる。扉を叩く間も惜しむような、ただならぬ様子だった。
「大司祭様! スラムにて、殺人が発生しました」
大司祭グレゴール・ヴァイスは、手にしていた書類から、ゆっくりと顔を上げた。動揺の色は、その表情のどこにも見えない。ただ、深く刻まれた眉間の皺だけが、報せの重さを受け止めていることを物語っていた。傍らには、アリア・グランベルが控えている。彼女もまた、伝令の言葉に息を詰め、緊張した面持ちで大司祭の様子をうかがっていた。
「詳しく話せ」
グレゴールの低い声に促され、伝令は乱れた呼吸を飲み込むようにして、背筋を伸ばした。
「被害者は、紫色の光によって殺害された模様です。あの日の一件と、同じ特徴かと」
部屋の空気が、僅かに張り詰めた。
「ラグナは」
短い問いだった。伝令は一瞬だけ視線を落とし、それからすぐに顔を上げて答えた。
「既に、賊を追って森へ向かわれています」
グレゴールは、僅かに眉を寄せた。書類を持つ指先に、微かな力が籠り、紙の端が小さく皺を作る。ラグナ・ベルクの腕は、疑いようもない。それでも、正体の知れない相手に、一人で踏み込むことの危うさを、この老練な大司祭は誰よりも理解していた。しばしの沈黙のあと、彼は静かに息を吐き、感情を抑えた声で続けた。
「深追いはせぬよう、伝令を」
「はっ」
伝令は深く頭を下げると、慌ただしく部屋を後にした。その足音が廊下の奥へ遠ざかっていくのを、アリアは、感情の読めない目で静かに見つめていた。やがて足音が消え、部屋に再び静寂が戻る。窓の外では、薄い雲が朝の光を鈍く遮っていた。
「ラグナが、追っているのですね」
アリアが、静かな声で確かめるように尋ねた。
「ああ。腕は確かな男だ、心配はいらん」
グレゴールは、いつもと変わらぬ落ち着いた口調で答えた。手元の書類へ視線を戻し、再び目を通し始める。その横顔には、何の迷いも浮かんでいなかった。アリアは小さく頷き、それ以上、何も言わなかった。膝の前で組んだ両手に、僅かに力が籠る。聞きたいことは、きっと他にもあったはずだった。それでも、言葉は喉の奥で形を失い、静かに飲み込まれていく。ただ、その視線だけが、閉じられた扉の先を、いつまでも追っていた。
◆
一方その頃、別の筋から騒ぎを聞きつけたミレイアとアルドは、既に森へと急いでいた。スラムの路地を抜け、荒れ果てたゴミ捨て場を越えていく間も、二人は足を緩めなかった。
「ラグナ様たちが、前日教会に連れて行かれた少年を追って、森の方角へ向かわれたらしい」
道すがら、すれ違った教会騎士の一人が、息を切らしながらそう告げてきた。鎧の肩当てが、駆ける動きに合わせて乾いた音を立てている。
「まさか、カイか?」
アルドが、思わず声を荒げた。スラムで拾った噂だけを頼りに、二人は他の教会騎士たちと共に、木々の間を息も切らさず駆け抜ける。枝葉が頬をかすめ、湿った土の匂いが鼻を突いた。森の奥へ進むほど、空気は重く、冷たくなっていく。やがて視界が開け、木々に埋もれるように横たわる、錆びた鉄塊が姿を現した。その前の地面には、一つの人影が横たわっていた。
「ラグナ様!」
ミレイアが悲鳴じみた声を上げ、駆け寄って傍らに膝をつく。だが、その体はもう、ぴくりとも動かなかった。焼け焦げた傷が、肩口から胸元にかけて生々しく広がっている。血は流れておらず、ただ黒く焦げた肌から、微かな焦げ臭さが立ち上っていた。
「カイは……」
アルドが、辺りを鋭く見回した。折れた槍の残骸、踏み荒らされた地面、そして錆びた鉄塊。だが、少年の姿はどこにも見当たらなかった。
「まさか、こんな……」
ミレイアの声が、抑えきれずに震えていた。信じたくない、という思いが、その顔にありありと浮かんでいる。握りしめた指先が白くなり、膝の上で小さく震えていた。
◆
その報せが教会本部に届いたのは、それからしばらく後のことだった。執務室には、先ほどと変わらぬ静けさが漂っていたが、その空気は、どこか重く淀んで感じられた。
「大司祭様。ラグナ・ベルク様、殉職を確認とのことです」
グレゴールは、一瞬、言葉を失った。書類が、その手からするりと滑り落ち、乾いた音を立てて机の上に散らばる。
「……何だと」
静かな驚愕が、その顔に浮かぶ。彼をして、これほど動揺を見せることは珍しかった。アリアもまた、息を呑んだまま、その場から動けずにいた。
「詳細を、もう一度」
絞り出すようなグレゴールの声に、伝令は一度、唾を飲み込んでから口を開いた。
「対象の少年との交戦の末、紫色の光による攻撃を受け、殉職。少年は現場より逃走した模様とのことです」
グレゴールは、しばらく目を閉じていた。散らばった書類にも目をくれず、ただ、長い沈黙の中に身を置く。やがて、重い息を吐きながら、静かに立ち上がった。
「聖都に、至急連絡を。この件、私の一存で収められる話ではない」
グレゴールは、それ以上は何も言わず、重い足取りで扉へ向かった。扉が開き、そして閉じる。足音が、廊下の奥へと遠ざかっていく。部屋に残されたアリアは、机の上に散らばった書類を、すぐには拾わなかった。部屋を出ていく大司祭の背中に注がれた視線は、その姿が見えなくなってもなお、閉じられた扉から、いつまでも離れなかった。
人物:グレゴール・ヴァイス
レムス教会の大司祭で、聖戦派に属する。冷静で厳格な人物であり、「魔物を倒すことこそ最大の救済」という考えを持つ。スラム支援そのものは否定しないが、軍事費を優先すべきだと主張する




