第十話 見せてもらおうか
意識が浮上する感覚は、ふわりとした熱の余韻から始まった。全身が水に浮かんでいるような、頼りない浮遊感。身体の感覚が、まだ現実に追いついていない。殴られたはずの頬には、ほとんど痛みが残っていなかった。それでも目を開けるより先に、頭の中へ声が響いた。
〈意識の回復を確認。現在の状況を報告します〉
(少し、静かにしてくれ)
声には出さず、頭の中だけで返す。目を薄く開けると、見知らぬ空が視界に入った。灰色がかった雲が、ゆっくりと流れている。石畳の硬さと冷たさが、寝転んだ背中越しにじわじわと伝わってきた。ここがどこなのか。記憶を辿り、答えに行き着くまでには、少し時間が必要だった。
〈カイは何者かによって連行され、意識を失った状態で運ばれました。現在地は教会の中庭。周囲に複数の人間の反応があります〉
(複数の人間?)
〈正面に若い女性が一人。回復魔法を使用した痕跡があります。右側に大柄な男性が一人。そして、対峙する位置に槍を所持した男性が一人。敵対的な発言が継続しています〉
頭の中で、状況が少しずつ組み立てられていく。まだ身体は思うように動かない。目だけを薄く開け、周囲の様子を窺うしかなかった。
〈現在、カイの処遇について対立が発生しています。カイを庇っている者と、拘束を主張している者に分かれているようです〉
(なんで、庇われてんだ)
理由が分からなかった。会ったこともない相手が、自分のために言葉を交わしている。そんな経験は、これまでの人生で一度もなかった。誰かに助けられる。それが、どういう感覚なのか。俺は知らない。スラムでは、誰もが自分のことで精一杯だった。他人のために声を荒げる人間なんて、見たことがない。
〈対立は継続中。カイが覚醒したことは、まだ認識されていません〉
なら、このまま気づかれないほうがいい。そう思った、その直後だった。薄く開けた瞼の隙間から見えた正面の女性と、不意に目が合った。
「気がついた?」
彼女が、こちらを覗き込むように顔を近づけてくる。柔らかな声だった。それが、かえって落ち着かなかった。誤魔化す間もなく、反射的に身体を起こそうとする。だが、背中に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめた。ヒールとやらでも、傷を完全に消すことはできないらしい。
「無理に動かないで。まだ、少し傷が残ってる」
いつも炊き出しの食事を渡してくれる彼女の顔を、初めて正面から見た。歳の頃は、俺より四つか五つ上。大人と呼ぶには、まだ早い年頃だった。優しげな目。そこに浮かんでいるのは、明らかな気遣いだった。こんな目を向けられたのは、いつ以来だろう。思い出せなかった。
「目を覚ましたか」
冷たい声が割り込んできた。視線を向ける。そこには、槍を手にした男が立っていた。こちらを値踏みするような目で、じっと見下ろしている。
〈対象、敵対的。心拍数の上昇を確認。注意してください〉
頭の中で、ゼロが静かに告げる。言われなくても分かっていた。
「寝たままでいい答えろ、襲撃があった日、お前は何をしていた」
その一言で、周囲の空気が一段と張り詰めた。
〈炊き出しに並んでいたことは、すでに把握されています。否定は困難です。魔物襲撃時の混乱に紛れて逃走した、という説明が自然です。それ以降の行動については、偽証を推奨します。『すぐに寝床へ戻った』が適切です〉
頭の中に響く声に従い、乾いた喉から声を絞り出す。
「……いつも通り、炊き出しに並んでいました。そしたら魔物が出て、みんなと一緒に逃げました」
「その後は」
「すぐに寝床に戻りました。腹が減っていたので、それで寝ていました」
「スラムの外から戻ってきたという噂がある。それについてはどうだ」
〈否定を推奨します。目撃証言は間接的なものです。確証はありません〉
「……知りません。誰かと見間違えたんじゃないですか」
〈音声にわずかな揺らぎを検知。ただし、許容範囲内です。このまま維持してください〉
ゼロの冷静な分析とは裏腹に、俺の心臓は激しく鼓動していた。
「お前は、魔法を使えるのか」
心臓が、大きく跳ねた。
〈肯定を推奨します。属性については伏せて構いません〉
「……使えます。それが、何ですか」
自分でも驚くほど、声は平静だった。だが、次の言葉で頭の中が真っ白になった。
「では、見せてもらおうか」
ラグナの視線が、まっすぐ俺を射抜く。ゼロの指示に従いながら、視線を逸らさないよう必死に耐えた。ラグナの目は、こちらの嘘を見透かそうとしているかのように、微動だにしない。
「証拠もないのに、これ以上は。それに、スラムの子はみんな魔力が少ないです。それを使わせるなんて、何がしたいんですか?」
ミレイアが、たまらずといった様子で口を挟んだ。
「そうだ。こんな怪我までさせて、これ以上何を聞き出すつもりだ」
アルドも、低い声で続ける。
「もういいだろう、ラグナ」
ラグナは、しばらく無言で俺を見下ろしていた。やがて、小さく息を吐く。
「……今日のところは、それで構わない」
そう言い残すと、踵を返した。迷いのない足取りで、その場を去っていく。俺は、その背中が完全に見えなくなるまで目で追った。そしてようやく、ずっと詰めていた息を、細く、長く吐き出した。助かった。そう思った瞬間になって初めて、自分がどれほど緊張していたのかを知った。




