第九話 見過ごせない者
教会の廊下は、いつもより静まり返っていた。石造りの壁に反響する足音さえ、妙に大きく聞こえる。ミレイアは、一通の報告書を胸に抱えたまま、重い足取りで廊下を歩いていた。すれ違う修道女たちの視線が、いつもより硬い。何かを探るような、不安げな色が浮かんでいるようにも見えた。
「ミレイア」
背後から声を掛けられた。振り返ると、そこにはアルド・グレイヴが立っていた。いつもの豪快さは影を潜め、その表情にはどこか張り詰めたものがある。
「炊き出しの件、聞いてるか」
「ええ。事件が落ち着くまで、当面は中止……ですよね」
「ああ。グレゴール大司祭の判断だ。ウィンドバットの群れが、またいつ現れるか分からねえからな」
ミレイアにも、それが必要な判断だということは分かっていた。あの日、自分を庇って傷ついた騎士たち。その姿が、今も頭から離れない。再び同じことが起きれば、次は誰かが命を落とすかもしれない。それでも。炊き出しを待っている人々の顔を思い浮かべると、何もしないでいることのほうが苦しかった。
「あの……皆さんは、ちゃんと食べられているでしょうか」
「それは、俺にも何とも言えねえよ」
アルドはそう答えると、ミレイアの隣へ並んだ。護衛として、このまま付き従うつもりなのだろう。二人は並んで、再び廊下を歩き始めた。そのときだった。開け放たれた窓の外から、複数の重い足音が響いてきた。石床を踏みしめる音が聞こえる。
「……?」
ミレイアは足を止めた。胸騒ぎを覚え、窓辺へ駆け寄る。身を乗り出して中庭を見下ろした。そこには、二人の教会騎士がいた。何かを担いで歩いている。ぐったりと力を失った、小さな体。まだ幼さの残る、少年だった。
「ッ!」
「おい、あれ……」
アルドも同時に気づいた。その瞬間まで浮かんでいた硬い表情が、一変する。険しい顔。そして、明らかな警戒。ミレイアは考えるより先に走り出していた。階段を駆け下りる。足音を響かせながら、一気に一階へ向かう。アルドもその後を追った。
「待ってください!」
教会の外へ飛び出し、ミレイアが声を張り上げる。騎士たちが足を止め、振り返った。その肩に担がれている少年。顔は青白く、口元には一筋の血が滲んでいる。
「その子に、何をしているのです」
「これは、私どもの職務です。神子候補様が口を挟まれることではありません」
騎士の返答は硬かった。
「答えろ」
アルドが一歩前へ出る。
「なぜ、その子がそんな怪我をしてる」
低い声だった。普段のアルドからは想像できないほど、冷たく押し殺された声。騎士たちは互いに顔を見合わせた。一瞬、言葉に詰まる。
「……ラグナ・ベルク様のご指示です」
やがて、片方の騎士が答えた。
「あの日の一件に関わる、重要参考人だと」
「降ろしてください」
ミレイアの声は静かだった。だが、そこには明確な意思があった。
「それは……できません」
「下せ」
アルドが一歩踏み出した。それだけで、周囲の空気が変わった。騎士たちは互いに視線を交わす。そして、渋々といった様子で少年の体を地面へ横たえた。少年の体が地面に触れる。その瞬間。ミレイアは、考えるより先に膝をついていた。胸に抱えていた報告書が、足元へ滑り落ちる。少年の頬に滲んだ血。青白い顔。苦しそうな呼吸。ミレイアは、震えそうになる手を抑えながら、少年の頬へそっと手をかざした。
「ヒール」
淡い光が掌から生まれ、少年の傷を包み込む。まだ未熟な魔法だった。傷を完全に塞ぐことはできない。それでも。何もしないよりは、ずっといい。
「そこで何をしている」
そのとき。冷たい声が響いた。ミレイアが振り向く。そこには、ラグナ・ベルクが立っていた。ゆっくりと歩いてくる。表情には何の変化もない。その視線は、地面に横たわる少年。そして、その傍らに膝をつくミレイアへ向けられていた。まるで、何かを値踏みするような目だった。
「ラグナ」
アルドが低く呼ぶ。
「重要参考人だって話だが、こいつが何をしたっていうんだ」
「あの日、ゴミ捨て場の方角で確認された、紫色の強い光」
ラグナは淡々と答えた。
「あれについて調査している。魔法とは異なる性質の光だ。何者かが、あの場に居合わせた可能性が高い」
「それが、こいつだって証拠でもあるのか」
「この少年は、一昨日、スラムの外へ一人で出ていた。目撃者もいる」
ラグナの視線が、倒れているカイへ向く。
「怪しむには十分だ」
アルドは眉を寄せた。反論しようと口を開きかける。だが、すぐには言葉が出てこなかった。確かに証拠はない。しかし、状況だけを見れば疑われてもおかしくない。
「……その子は、いつも炊き出しに並んでいる、ただの子です」
ミレイアが静かに口を開いた。そして、少年を庇うように、その前へ体を寄せる。
「痩せていて、いつも一人で……悪いことをするような子には、とても見えません」
「そうだ」
アルドもミレイアの隣へ並んだ。
「俺も何度か見てる。ただ腹を空かせてるだけの、どこにでもいるガキだ」
その言葉に、ラグナは何も答えなかった。ただ、冷たい視線を少年へ向けている。そのときだった。地面に横たわっていた少年の瞼が、ほんのわずかに動いた。指先が、小さく震える。そして――。カイの意識が、暗闇の底からゆっくりと浮かび上がり始めていた。




