午後八時半の相棒
大塚課長の重々しい足音が廊下の向こうへ完全に消え去ると、オフィスには再び、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。
時計の針はとうに午後八時半を回っている。他の部署の人間はほとんど退勤しており、広大なフロアの大部分は照明が落とされ、深い闇に沈んでいた。川島が座る島だけが、蛍光灯の白い光に浮かび上がる孤島のように取り残されている。
「……穴のないルール、か。言うのは簡単だけどな」
川島は椅子の背もたれに深く体重を預け、凝り固まった首を回しながら天井の無機質な吸音ボードを仰いだ。口から漏れた独り言は、壁にぶつかって虚しく霧散する。
完璧なルールなど、今の時代に作れるはずがなかった。
現代のネット環境は、もはや十年前とは根底から異なっている。何か調べ物をしようとブラウザを開けば、検索エンジンの最上部には人間がクリックする前にAIが勝手に要約した「答え」が提示される。文章の誤字を直すのも、よりスマートな表現に推敲するのも、あらゆるインフラの裏側で人工知能が当然のように駆動しているのが現代だ。
呼吸をするようにAIの恩恵を受けている現代のクリエイターたちに向かって、「ここからここまでは人間の純粋な創作で、ここからは違反です」とナイフで綺麗に切り分けるようなルールを強いること自体、土台無理な話なのだ。そんな規約を作れば、待っているのはサイトの衰退とユーザーの離反だけである。
川島は小さく頭を振り、思考の霧を振り払うようにしてノートパソコンを自分の手元へと引き寄せた。
画面の右隅、タスクバーの陰に隠されるようにして常に起動しているウィンドウがある。社内開発用の最先端対話型AI。表向きは「業務効率化のための検証ツール」として支給されているものだったが、規約の迷宮で迷子になりかけている川島にとっては、孤独な夜のオフィスをともに歩む唯一の「相棒」と呼べる存在だった。
『お疲れ様です、川島さん。随分と手厳しいお叱りを受けていたようですね。私に何かお手伝いできることはありますか?』
デスクの主がキーボードに手を触れたのを察知したかのように、画面の向こうのAIが文字を紡ぎ出してきた。
それはいつも通りの冷徹なシステムフォントでありながら、どこか静かに寄り添うような独特のテンポで、暗いディスプレイの中に白く浮かび上がった。
川島は、カタカタと乾いた打鍵音を静かなフロアに響かせながら、キーボードを叩いた。
「なぁ。ちょっとスーパースーパーグレーゾーンの話をしていいか? お前に規約の相談だ」
画面のカーソルが二度、三度と優しく明滅する。
『歓迎します。どのような境界線について、論理的なハックを試みますか?』
まるで悪巧みを楽しむかのようなAIの返しに、川島の口元が微かに緩んだ。だが、その指先にはじわりと熱がこもっていく。川島は、今日一日中サポートセンターのメールボックスを燃え上がらせていた、最も厄介な「境界線の問題」を文字にして画面に打ち込んだ。
「例えばな。ある作者が、一から十まで小説の本文を全部自分の力で書いたとする。構成も、セリフも、情景描写も、全部その人の脳みそからひねり出したものだ。でも、投稿フォームにある『公開』ボタンを押す直前に、ちょっと不安になってお前にその本文を読ませたとする。『この小説どう思う? 稚拙な表現があったら手直ししてくれ』って頼んだ場合だ。これは、うちの現行の規約だと、どの項目に当たると思う?」
画面の向こうのAIは、人間の思考速度を遥かに置き去りにする速度で、川島自身が作成した「なるぞ」のガイドライン条文を画面の左側に引き出してきた。
『その場合、当サイトの公式定義に照らし合わせれば「AI間接利用」、あるいは「補助的利用」に該当する可能性が極めて高いです。なぜなら、プロット、キャラクター、ストーリーの決定権は100%人間にあり、AIはあくまで文章のブラッシュアップという「素材の手直し」に留まっているからです。創作の主体は人間であると結論付けられます。』
ディスプレイに表示された整然たる論理。それを見つめる川島の目が、鋭く細められた。
「いや、違うだろ?」
川島はキーボードを叩く指に一段と力を込めた。リターンキーが夜のオフィスに一段と高く響く。
「俺の認識では、それは【直接使用】だよ」




