AIガイドラインのディストピア
「おい、これじゃあ現場が混乱するって言ってるのが分からないのか!」
叩きつけられたクリアファイルが、デスクの上で乾いた音を立てた。中の書類が数枚、滑るようにしてキーボードの上に散らばる。
川島は、自分の前にそびえ立つ上司――大塚課長の、丸々と膨らんだ腹を視界の端に捉えながら、深く、深く、心の中でため息をついた。
ここは、日本最大級のWeb小説投稿サイト『小説家になるぞ』を運営する、とあるオフィスの一角。かつては熱意ある書き手と読み手が集う牧歌的な空間だったはずのこの場所は、今や終わりのない定義の泥沼と化していた。
川島は、今年から本格導入が始まった「AI生成作品に関するガイドライン」の策定、およびユーザーからの問い合わせ対応の責任者を任されていた。現在の時刻は午後八時を回っている。周囲のデスクからは、キーボードを叩く乾いた音と、深夜の検閲班が漏らす重いため息だけが聞こえていた。
「大塚課長、具体的にどの部分にご不満が……?」
川島は努めて冷静に、声を低く抑えて尋ねた。これ以上、オフィスに大塚の怒鳴り声を響かせたくなかった。
「全部だよ、全部!」
大塚は顔を真っ赤にして、アゴの下の肉をぶるぶると震わせる。その額には、ねっとりとした油汗が浮かんでいた。
「ユーザーからの問い合わせメールの山を見てみろ!『本文は自分で書いたが、あらすじのキャッチコピーだけAIに相談した場合は不使用にしていいのか』とか、『誤字脱字をAIに直してもらっただけなのに、読者からAI作品だと通報されてランキングから除外された、どうしてくれるんだ』とか!毎日毎日、同じような境界線の質問ばかりだ!お前が作った4つの区分が曖昧だから、現場の検閲班もどれをアウトにしていいか、マニュアルを片手に頭を抱えてるんだよ!」
不使用。補助的利用。間接利用。
そして、直接使用。
川島が何日も徹夜を重ね、ユーザーの感情と技術の進歩の狭間で必死の思いで言語化した4つの基準。それは、いまや規約の波間に揉まれてズタズタに引き裂かれようとしていた。
大塚はデスクに両手を突き、川島に顔を近づけた。微かにコーヒーの混ざった不快な息が鼻を突く。
「いいか、川島。お前の半端な区分けなんて必要ないんだ。現場が欲しいのは、一発で白黒つけられる『キッチリ』とした、穴のない運用ルールだ。これ以上、うちのサポートチームに負担をかけるな。明日までに運用ルールの修正案を出せ。明日朝一の役員会議で報告するからな。明日までだぞ!」
それだけを一方的に言い残すと、大塚は革靴の踵を乱暴に鳴らして去っていった。その足音が廊下の向こうへ消えていくまで、オフィスには冷たい沈黙が支配していた。
川島は椅子の背もたれに体を預け、大きく息を吐き出した。こめかみのあたりが、ズキズキと鈍く痛み始めていた。デスクの上に散らばった規約の書類が、まるで自分を嘲笑っているかのように見えた。
(明日までに、穴のないルール、か……)
言うのは簡単だが、現場で起きているのはそんな単純な話ではない。川島はパソコンの画面に目を戻し、未対応のサポートメールの山をスクロールした。画面の光が、疲弊しきった彼の瞳を青白く照らし出していた。




