56 万事休す!
逃げ道を探ってチラリと横目でドアの位置を確かめた私の目に止まったのは、ドアじゃなかった。
───天川っ!? どうしたの?!
床から横長ベンチにすがってうずくまるその額には脂汗が浮かび、苦しさに耐えて力んで動けずにいるみたい。
「ど、どういう? これは‥‥」
注射針から液を飛ばした目の前の響さんには構わず、天川に駆け寄って背中を撫でる。
「うっ‥‥僕‥‥手足が熱くて‥‥手足が‥‥‥」
ワワワッッ!? 手の皮膚が緑色に変わって来てる!!
こんな時にまさか蛙化!!
「ダメ!! 今は耐えて!! どうにかならないッ?」
ここでアマガエルに変身したら、あの女に簡単に踏み潰されてしまうよ!
脂汗の顔を私に向け、心配かけまいと無理に微笑む天川がいじらしい。
「ごめん‥‥でも‥‥僕は危機に陥るとカエルに変身してしまう体質のようです。トーコさんの‥‥危機に反応してしまって‥‥‥ウウッ‥‥手足が燃えるようです‥‥‥!」
危機に陥ると? なら、心が変身のスイッチを握ってるの? だとしたら天川の気持ち次第よね?
そんなことを考えてるほんの僅かな数秒で、天川の手はどんどん鮮やかな緑色に蛙化している。
────まずいッ!
もうなりふりかまってらんないよ!! お願い、これで止まって!!
「ダメッ!! 私たちが無事にメルヘン小屋に帰れた暁には、今夜は天川と私の特別な夜にしようと決めてたのに。あなたが蛙化してしまったら実現出来ないじゃない!」
「‥‥え? ‥‥トーコさん‥‥それって、それってトーコさんが思ってることと、僕が思ってることは‥‥同じ、という認識でいいのでしょうか?」
縋っていたベンチから苦しげに斜めに顔を上げて私と目を合わせた。スゴい汗ね。
作業着エプロンの前ポケットからハンドタオルを出して天川の額に浮かんだ汗を優しく拭った。
「天川? 私に言わせないで‥‥‥」
再びベンチ座面に顔を伏せた天川から、次第に力んでいた硬さがふうっと抜けた。けど、どうしたの? そのまま全く動かない。息してる??? しっかりして!!
床に膝をついたまま、焦って天川を揺さぶる私のすぐ背後で声がして振り仰いだ。
「ちょっと! あんたたち!! このラボの主の私を差し置いてなにイチャイチャしてんのよッ!!」
白衣の女を見上げる私。
「私に‥‥私たちに近づかないでッッッ!! ヤーッ!」
その低い体勢から響さんのお腹に頭突きをお見舞いした。
ガラガラガタンッガシャンと、派手な音が部屋に響き渡る。
響さんは、側にあったワゴンをひっくり返して尻もちをついた。
ワゴンに乗っていた何かのガラス容器が割れて床に散らばった。
「───!! 痛ったあーいッッ!! なにすんのよ!! 透一郎先輩の娘じゃなければなんの価値もないビッチ女のくせに!!」
バッと翻るように素早く立ち上がり、鬼の形相で叫んだ。スゴく敏捷な運動神経持ちらしい。
カラカラ床を転がっていた金属容器が上を向いて止まった。
途端、奇妙な静寂。
肌に感じる張り詰めた空気のテンション。
白衣の女の気迫に私は狂気を感じ、そろそろと後ずさり。
素早く新しいシリンジを手にしてる。銀色の針が光る。
何なの? その液体? たぶん打たれたら私は気を失わされる。打たれたらお終いだ。
───あの扉から逃げなきゃ!!
扉は私側の背後だ。勝算はあるよ?
けど動かない天川をここに置いて1人にげるわけにも行かない! ここに置いて行ったらこの女に何されるかわかったものではない。
天川に何かあったら、天川を失うなんてそんなの私、耐えられない!!
柄にもなく自分の頬に涙が伝ってるのに気がついた。
「‥‥イヤ! お願い!! やめてください。私の父を愛しているのなら他にやり方があるでしょう?」
「いいえ! 透子さんの半分は透一郎先輩から出来てるの。これしかないの」
ジリジリ追い詰めながら不敵な笑みを私に寄越す。
「ねえ? こう考えたらどうかな? 卵子なんて女性は数え切れないくらい持っているの。その中で人に成長するのはせいぜい数個でしょ? たくさん持っていたって自動的に捨てられるゴミなのよ。だから少しくらい私に分けてくれたっていいと思わない?」
どうなってるの? 倫理観死んでんだけど?
「だから、そういう科学者のようなドライな思考を私は持ち合わせていないんです。その界隈に関して、私は自然の摂理に従うわ。それに私は響さんにそんなことをしなければならない義理も恩も借りも一切ないですよ?」
「フッ‥‥さてと。あなたは夢の中でいくらでも思いついた屁理屈を並べてちょうだい?」
響さんは注射針から液体を飛ばして空気を脱き、私の腕へと手を伸ばした。
「待って! 先ずは私たちは話を‥‥‥」
───万事休す!!
私たち、もうダメかも!!!!
ジリジリ後ずさりする私の背中が、何かにボスンッとぶつかった。
ふと、響さんの目線が私の背後に移り、おやおやと上目で両肩を小さく上げてから、鼻でククッと嗤った。
────天川ッ!? 起きたんだ!!
何やら全身からスゴい気迫が漏れている!
私を背後に隠し、恐ろしいマッドサイエンティスト女と対峙した。
けど、その手はカエル色のままだ! 他はそのままってことは、天川は気迫で頑張って蛙化を初期で止めたんだ!
「この僕がトーコさんに不埒な真似はさせませんッ!!」
私の目の端で何かがヒュッと走り、何かが弾けた。
「キャッ!!」
ほぼ同時に響さんの手にしていた注射器がぶっ飛んで、壁にぶつかって落ちた。
「なに今のッ?! わ?! 何これ? 私の右手が粘ってる!」
「愛する者を守りたい、カエルパワー粘液ですッ!! 僕の指先の腹から分泌されるのです! 僕の意思で自由自在のようです!」
「ハアーッッ! 粘液よ、行けッ!」
「何なのよ? カエル人間キッショッ!!」
「ふんっ! 何とでも言うがいいさ!!」
天川が気合を入れて手を振るたび飛ばす粘液が、響さんの片目にかかった。
私はその隙に扉を素早く開けた。
「天川ッ! 行くよ!!」
「はいっ!」
「この程度の反撃であんたたちは逃けられないよ? 私の脚の筋肉にはカンガルーの遺伝子を組み入れてあるんだから、カエル人間ごときに負けるわけがないッ!」
扉から半歩出たところで、脅威のジャンプ力で一気に詰め寄られた。
───もう何者なのよ? この女ッ!!
もうな、何がなんだかw ( ´ー`)φ




