さよならを言わせて
触れるフィリデオの体温がアレックスを彷彿とさせて胸が痛い。
このままフィリデオに抱かれたら二度とアレックスの元に戻れない。だけど、戻ったとして何が残るというのか。
混沌とした意識のなかで無意識に訊いていた。
「……シャワーを浴びていい?」
フィリデオの体を離れると、ふらりと立ち上がって浴室へと歩いていった。
カーリンは浴室の鏡に映った自分に問う。
― 本当にこれでいいのか?
すると、胸元にあるはずの物がなくて我に返った。
― あれがない!!
カーリンを待っていたフィリデオだが、一向に浴室から出てこないので様子を窺いにベッドから立ち上がった。
ドアを開けると、何やら必死で探している。
「どうしたの?」
「あれがないんだ!!」
「あれ?」
「ネックレスだよ!! 少佐から貰ったネックレスがないんだ!!」
この場に及んでまだ未練があるのかと腹立たしかたったが、あれほど愛し合っていた二人だ。すぐに忘れろと言う方が無理なのかと気が済むまで好きにさせた。
かれこれ一時間は探していただろうか。自分が歩いてきた場所を辿ってみてた。洗面所、ベッド、廊下……。思いつく所は全部。
「もういいだろ?」
「でも!!」
「見つかったとしてどうする気? 未練がましくまた付けるのかい?」
「あっ」
カーリンが短く声を上げた。フィリデオに抱かれようとした時点で既にアレックスを裏切っているのだ。それなのに、どうして彼の想いがつまったプレゼントを付けられようか。
大切なネックレスまで失い完全に繋がりが絶たれてカーリンは号泣した。
抱き締めたフィリデオのシャツが彼女の涙で濡れる。
東の空が明るくなって朝を迎えた。フィリデオは、泣き疲れて眠るカーリンの髪を撫でてやる。
「しょう……さ」
罪のない寝言だと頭で分かっていても心がざわつく。
「カーリン、起きて」
混乱しているのか、状況が読めずしばらく呆然としていた。やがて、昨夜の出来事を思い出して表情が曇る。
「おいで。けじめはつけなきゃ」
「今度はどこへ行くの?」
ホテルをチェックアウトして、また行き先も告げず車を走らせるフィリデオに訊いた。
「シャトレーズ軍人学校。ミュラー少佐に会いに行くんだよ」
「そう」とあっさり受け入れるほどカーリンは憔悴している。
学校まで会いに行ったらアレックスとシノブが抱き合っていて、シノブと言い合いになった。カーリンが逃げるとアレックスが追い掛けて、フィリデオと一夜を過ごした。
たった一日しか経っていないのに随分遠い昔の出来事に思えた。
課業終了のチャイムが鳴ると、アレックスは大きく息を吐いた。昨夜の件もあって一睡もしていない体に訓練は堪える。
精彩を欠いた彼に、シノブはカーリン達が最悪の事態になったのは自分のせいだと責めた。
「ミュラー教官」
「そんな顔するな。私は大丈夫だ」
頬を緩ますアレックスに胸が締めつけられる。
「でも」
「今日の訓練内容をまとめて明日提出するように」
「了解です」
「頼んだぞ」
肩に手を置いてアレックスは教官室へと引き揚げた。
「お疲れのようね」
ビアンカがコーヒーを差し出したので受け取り一口飲む。独特のほろ苦さが不眠の体に染み渡った。
「いろいろあってな」
「公私ともに?」
アレックスに間が空いたので、ビアンカが顔を覗きこむ。
「なにかあった?」
「ビアンカ」
カーリンとのことを相談しようかと言いあぐねていると携帯電話が鳴った。表示にフィリデオの名が出たので躊躇っているとビアンカに促される。
出たものの言葉が続かず沈黙していると、フィリデオから切り出した。
『話があるから会ってくれないか? もうすぐそっちへ着く』
「私に拒否権はないみたいだな」
『断ったら一生後悔するよ。カーリンも一緒だ』
嫌な予感が脳裏をよぎる。いずれにせよ、アレックスにとっていい話ではなさそうだ。
「わかった。この間の所で会おう」
約束の時間を確認して電話を切ると、疲労困ぱいの重い身体を奮い立たせて仕事に取り掛かる。
フィリデオと会ってまだ一週間も経っていないこの場所で再び会うとは予想だにしなかった。しかもカーリンも一緒だという。
店内へ入ると、金髪の二人の居場所はすぐ見つけた。そのくらい目立っている。
カーリンとフィリデオは並んで座っていたので、アレックスは向かい側に腰を下ろした。俯いた彼女の表情ははっきりと窺えないが、決して明るくなかった。
― お前は一晩どこにいたんだ? 心配したんだぞ。
「カーリンは僕と昨夜一緒にいた」
アレックスは心を読まれたかと驚いて不覚にも表情を崩す。
「本当か?」
カーリンは答えなかった。フィリデオとは何もなかったが、抱かれようとしたのは消えようもない事実だから。
「今度カーリンを悲しませたら奪うって忠告したはずだよ。そして、どちらを選ぶかは彼女次第とも言ったね?」
「ああ」
みなまで言わなくとも思い描けるこれからの展開。
「カーリンと別れてほしい」
― やっぱり、そうか。
もっと錯乱するかと思っていたが意外と冷静でいられた。それだけ、まだ事の重大さが理解しておらず実感が湧かないのか。
「カーリンはどうしたい?」
名前を呼ばれて、彼女の肩がびくっと跳ねた。おもむろに顔を上げるカーリンと目が合った。よほど泣き明かしたのか、慰霊祭の夜と同じ酷い顔である。
「お前が出した答えに俺は従う」
まるで軍人そのものだと心中で嘲笑った。こんな場面でも体裁を崩さない自身に嫌気が差す。
「……もうつらいのは嫌だ」
絞り出すような苦痛に満ちた答えに、アレックスはもう一度尋ねようとしてやめた。昨日まであったネックレスが彼女の胸元にない。つまり、それが答えなのだ。
ー そういうことか。
視線に気付いたカーリンが慌てて手でそれを隠したので本心だと受け止めた。
「俺といるとつらいのか?」
わずかに頷く彼女にアレックスは思わず天井を仰ぐ。泣き喚けば考え直してくれるのか、すがればこの手に戻ってくるのか。
やめておこう。無理に繋ぎ止めてもまたいつか壊れてしまうだけだ。
彼女が望むなら……
「分かった。別れよう」
二人の恋が今ここに終わった。
アレックスと別れたカーリンの目に涙はなかった。あれだけ泣いたのだから涙が枯れたのかも知れないとフィリデオは運転しながらふと考える。
「後悔してない?」
と、無粋な質問はしないのは、フィリデオもまた再び彼女を失うのが怖かったからだ。
「カーリン」
返事がないのでルームミラーで窺うと眠っている。まるで渡り鳥が羽を休めるように。
― お休み、カーリン。明日からまた笑顔でいてくれ。
フィリデオ達が先に帰ると、しばらくしてアレックスも学校へ歩いて帰っていった。距離はあるが気持ちの整理をするには丁度いい。
夜風は冷たくいつの間にか季節は秋へと変わっていた。
なぜ、あっさりと別れてしまったのかと後悔だけが胸に木霊する。カーリンへの愛はその程度だったのかと。
いや、違う。
彼女が幸せになるなら誰でもいいと自分に言い聞かせた。
― あんな恋はもう二度としないだろうな。
身を焦がす燃えるような恋だった。
教官になって、怒ったり泣いたり感情豊かな彼女に惹かれた。他人のために泣いてくれる彼女を愛していた。
そして、明日からすべてが過去形へと変わる。
いくら後悔してもカーリンが隣にいない現実だけが残った。
ー なあ、カーリン。俺は明日から誰のために生きていけばいい?




