決別
ドアに背を向けていたアレックスが首を廻らすと、目を大きく見開くカーリンが立っていた。
「……なにやっているんですか」
今にも泣き出しそうな声だったので、シノブは慌てて否定する。
「誤解よ、リヒター伍長。ミュラー教官が体調が悪そうだったから」
「カワサキ教官」
それ以上言うなとアレックスが目で制したので、シノブは仕方なく口を噤んだ。それが却ってカーリンの癪に障ったようで
「また隠し事!? なんでカワサキ教官はよくてわたしはダメなんですか!?」
泣くのは卑怯だと我慢していたのに、涙が意思に反して零れ落ちる。そんな様子に今度はシノブが憤りを感じた。
「自分のことばかりで、少しはミュラー教官の気持ちも考えなさい!!」
「少佐の気持ち? あなたなら分かるって言うんですか!?」
激怒するシノブにカーリンも頬を濡らして睨みつける。
― ああ、まただ……。せっかくここまで来たのに。今度こそ正直になれると思ってたのに。
冷静になって話し合えばすむのに、抱き合う二人を目の当たりにして頭が真っ白になった。売り言葉に買い言葉でますます自分の立場を不利にする。
「彼はあなたのために無理して……」
「やめるんだ」
アレックスの制止を振り切り、シノブは続けた。
「どうして本当のことを仰らないんですか!! そうやっていつもご自分を犠牲にしていることをリヒター伍長は知らないんですよ!!」
「知ってるさ!! 知っているからこそつらいんじゃないか!!」
カーリンも叫んだ。
「外で話そう」
教官室を出ようと掴んだアレックスの腕をカーリンが振り払う。
「……もういやだ」
唇を噛み締めて肩を震わせる彼女にアレックスは動揺した。
「こんな思いをするなら恋なんてするんじゃなかった」
「何を言っているの……?」
とんでもない台詞を耳にしてシノブはぎょっとする。
「最初から好きにならなきゃよかった!!」
「リヒター伍長!!」
シノブが叫んで、カーリンははっとした。感情に任せて取り返しがつかない言葉を口にしてしまった。
恐る恐る彼に視線を向けるとこれまでにない悲しい顔に、激しい後悔がカーリンを襲う。
いたたまれず走り出す彼女をアレックスが追った。
何度も名を呼びながら追い掛けるアレックスから逃げるようにひたすら走った。どうやって校門まで来たかも覚えていないくらい必死だった。
道路へ出て、丁度通り掛かったタクシーに急いで乗り込む。
「カーリン!!」
追いついたアレックスが車の窓を叩いて引き留めようとしたが、カーリンが運転手に叫んだ。
「早く車を出して!!」
「しかし……」
車の内と外で真逆の行動を訴える二人に運転手が躊躇っていると、カーリンがもう一度叫ぶ。
「いいから、早く!!」
客を選んだタクシーが速度を増すと、たちまちアレックスの視界から遠ざかってしまった。
後部席で泣きじゃくるカーリンに、運転手が申し訳なさそうに行先を尋ねたがくぐもる声でよく聞き取れない。
辛うじて最寄りの駅ということが理解できて車を向かわせるのだった。
走り去るタクシーを呆然と見送るアレックスの隣に息を切らせたシノブが並んだ。
「今なら間に合うから追い掛けましょう!! わたし、車を取ってきます!!」
再び学校へ引き返そうとするシノブの腕をアレックスが掴む。
「……もういい」
「ミュラー教官!!」
「もういいんだ」
怒鳴るシノブにアレックスは静かに制した。
「わたしが説明してきます。誤解が解ければ彼女だって許してくれます」
振りほどこうともがくシノブの腕に、更にアレックスの指に力がこもる。
窓ガラスの向こう側で絶望と後悔が入り混じるグリーンの瞳を見た瞬間、思ってしまった。
カーリンの心が離れていったと。
だから、追わないのではなく追えなかった。
一体、カーリンは傷を癒すのに誰に身を寄せるというのか。
電車の中でもひとしきり泣いて乗客から注目を浴びたが、今のカーリンにはどうでもいいことだった。
恋人の前で、わがまま言ってシノブを怒鳴りつけて、挙げ句の果てには追ってきてくれたアレックスを振り切って逃げてしまった。
― ごめんね、ごめんなさい……。
いくら謝ってもいくら悔やんでも時間は遡ってはくれない。
もうすぐ部隊へ着くというところで携帯電話が鳴った。相手が誰か確かめる気力もなく電話に出ると聞き慣れたあの声だ。
「もしもし」
『カーリン? どうしたの?』
涙で途切れ途切れになる言葉を不審に思ったのか、フリディオが怪訝そうに訊ねる。
「なんでもないよ」
『今、どこ? 迎えに行くから教えて』
「だから、なんでもないって」
強がってみても、穏やかな口調で訊く彼にまた涙が溢れた。
「フィリデオ、もうダメかもしれない」
『ダメって何が?』
これ以上は言葉にならなかった。
駅の改札口でフィリデオはカーリンを待っていたが、乗客が一斉に降りてきても姿はなかった。
人の波が途切れてやっと現れた彼女に言葉を失う。
泣き腫らした真っ赤な目に憔悴しきった顔、ふらふらとした足取りに乗客達がぶつかりついに膝をついて倒れてしまった。
「大丈夫かい!?」
フィリデオは駆け寄って手を差し伸べると、その胸に飛びこむ。
「とにかく車に乗ろう」
震える肩を抱いてフィリデオは車へと歩いていった。
しばらく車を走らせてカーリンが落ち着くのを待っていると、「ごめん」とか細い声が聞こえた。
「ダメかもしれないって言ってたね」
「わたしと少佐、もうダメかもしれない」
驚いて助手席を見ると、虚ろな笑みを浮かべる彼女と目が合う。
「一生懸命、少佐の気持ちも考えてみたし信じてもみた。でも、もう疲れたよ」
フィリデオは黙って聞いていたが、怒りでハンドルを握る指に力をこめた。もちろん、カーリンではなくアレックスにだ。
― ミュラー少佐、待ってやるつもりだったけど限界だ。
信号が赤になると、フィリデオが口を開く。
「カーリン」
顔を上げる彼女。
「別れなよ」
「え?」
カーリンが大きく目を見開いて驚いているのを隣で感じた。
「そんなにつらいなら別れて、僕を選びなよ」
「なにを言ってるんだ……?」
驚愕で揺れる瞳を正面から捉えて離さない。
「疲れたってことはそういう意味だろ?」
アレックスとはささやかだが喧嘩もしたことがある。だが、つらいとか疲れたという感情はなかった。フィリデオに見抜かれて言葉に詰まる。
「彼の代わりでもいい。君を愛しているから耐えられる」
改めて自分への愛を知ったカーリンが困惑していると、フィリデオは険しい表情でハンドルを切って行き先を変えた。
「僕が上書きしてあげる」
車がホテルの前に停まるとカーリンは顔色を変えた。
「フィリデオ!!」
カーリンを乱暴に助手席から引きずり下ろすと、腕を掴んでロビーへと向かう。
「痛い!! 放して!!」
いつも穏やかに察してくれる彼が力の加減もせず、部屋まで連れていく様子に初めて恐怖を感じた。
部屋のドアを開けた先にダブルベッドが視界に入ると、カーリンは慌てて彼の腕にすがって拒絶する。
「こんなのフィリデオらしくない!!」
すると、彼はキッと睨んだ。
「僕らしくない? 君は僕の何を知っているっていうんだい!?」
ベッドへ押し倒されてフィリデオに組み敷かれる。
確かに何も知らなかった。こんなに熱い眼差しも有無も言わせない力強さも。




