心の迷路
途中まで意識がなく、気が付けば門の外へいた。しばらくして赤いスポーツカーが目の前に停まり、運転席の窓が開くとフィリデオが顔を出す。
「乗って」と、カーリンの返事も待たずに助手席へ引きずりこんで発進させた。
彼女が選んだのは携帯電話のフィリデオだった。
「急いできたんだろ?」
「そりゃカーリンの一大事だからね。かなり無茶して来たよ」
それでも三十分はかかっていない。シャトレーズ軍人学校までは片道三時間で、今すぐ会いたいと言ってもそう簡単に来れる距離ではない。
一度だけ、アレックスの父親に別れ話を持ち掛けられて「逢いたい」とわがままを言ったことがある。その時も彼はかなり無茶な運転をして一時間縮めてきたが、それでも二時間もの間は事故を起こさないかと不安な時間を過ごした。
「ごめん」
「謝られると却って後ろめたいな。ミュラー少佐に申し訳ないよ」
アレックスの名に、カーリンの体がぴくっと反応したのをフィリデオは見逃さない。
「週刊誌の件も彼に感謝しなくちゃね」
「感謝?」
「あのカメラマン、君とミュラー少佐の関係を探り当てたんだよ」
「えっ?」
カーリンは思わず息を飲んだ。狭い車内に木霊すのでは心配するほど鼓動の音が高鳴る。
「本当の目的は、僕とミュラー少佐を君のネタで強請ろうとしていたらしいけど」
「強請るって、フィリデオは応じたのか?」
「まさか。でも、このままではカーリンに害を及ぼすと思って彼に振ったんだよ」
「知らなかった?」と、赤信号で停まったのを見計らってフィリデオがこちらを見た。カーリンはまさしく寝耳に水で唇を噛んで頷く。
「少佐はそんなこと、一言も言ってくれなかったから」
「それだけ君のことを大切に想っているんだね。ちょっと妬けるな」
だが、カーリンは素直に受け止められなかった。隠し事はなしだと言ってきたのは彼の方なのに悔しさと切なさが入り混じる。
― 相談しても無駄だと思われたんだ……。
要領も悪く飲みこみも悪い。おまけに理解するのに時間が掛かるし、果たして理解したところで皆のように振る舞えるかどうか。
分かってはいたが、恋人までに存分な扱いをされて情けなさにまた涙が溢れた。
「どうして泣くのさ。彼は君のためを思って黙っていたんだよ」
「わたしのため? 少佐が悩んでいるのも知らないで、わたしは隣でヘラヘラ笑ってたんだよ」
知っていたら、少しは力になれたかも知れない。なのに、アレックスはそのチャンスさえくれなかった。
ふっと湧いた疑問に、カーリンは顔を上げる。
「少佐はどうやってそのカメラマンを振り払ったんだ?」
「僕も詳しくは知らないけど、考えられるのはカーリンには僕が、ミュラー少佐には誰かがそれぞれペアになったんじゃないかな? あの男は僕とカーリン、そしてミュラー少佐の三角関係を狙っていたからね」
アレックスのペア……それがシノブならこれまでの経過の辻褄が合う。よりによって自分よりシノブを頼りにするという残酷な結果に、カーリンはますます愕然とした。
「そうなんだ……」
「これはあくまでも僕の推測だから、本人にちゃんと訊いた方がいい」
少なくともカーリンよりフィリデオの方が、洞察力も客観的な見方も優れている。彼がそう思うなら間違いはないだろう。
カーリンは、窓に頭を預けると視線は流れる景色に移した。
それから、二人は間車内で過ごした。フィリデオは運転しながら時々助手席のカーリンを窺うとまだ沈んだ顔をしている。
静寂の空間を携帯電話の着信音が破った。彼女は表示画面を一瞥したが膝の上に置いたままだ。
「出ないの?」
フィリデオが怪訝そうに尋ねたが返事はない。しばらく鳴って手にしたところで電話が切れてしまった。躊躇っていたくせに、沈黙したそれを名残惜しく見つめる。
「掛け直していいよ」
「……いいんだ」
カーリンはぼそりと呟いてまた俯いた。
残業続きのアレックスは、庶務をこなしつつデスクの片隅にある携帯電話に目をやる。
ファミレスで待ち合わせした日からカーリンの様子がおかしい。ひょっとしたらシノブとの関係を疑っているのではと電話を入れてみたがコールだけが虚しく鳴り続けた。
いつもならすぐ折り返してくるのに未だ連絡がないし、時折メールの返信があるだけでここ数日まともに声すら聞いていない。
そして、一番の気掛かりはカーリンがキスを拒んだことだ。
自慢ではないが、これまでアレックスが拒むことはあっても相手からされたことはない。しかも、愛してやまない彼女に拒否されたのは思った以上堪えた。
「怖い顔」
頭上からする女の声に顔を上げるとビアンカがコーヒーを差し出す。
「眉間にしわ寄せちゃって、カノジョに嫌われるわよ」
ビアンカの冗談も今の彼には聞き逃せなかった。
「そんなに酷い顔か?」と、自分の顔を手で撫で回すアレックスをにやりと笑って身を乗り出す。
「さては心当たりあり?」
図星だったのか、体ごとビアンカに向けて険しい表情になった。
「なあ、ビアンカ。女がキスを拒む理由ってなんだ?」
「はあ?」
唐突の質問にビアンカは素っ頓狂な声を出した。「なに言ってんのよ」と一蹴するにはあまりにも彼の表情が真剣なので、コーヒーを一口啜って間をあける。
「男は本能で動くけど、女は違うわ。いくら愛し合っていても、女だっていろいろあるんだから時には放っておいてほしいものよ」
「お前もか?」
「時々、ランディが腹立たしく思うわ。こっちの気持ちをお構いなしに求めてくるんですもの」
アレックスにとっては耳が痛い話だった。自分の感情をカーリンに押しつけ過ぎたと反省する。
「カーリンが拒んだの?」
「ああ」
「まだ恋に不慣れなんだから気を付けてあげなさいよ。感情に赴くままだと見逃すわよ」
意味深な台詞を残して教官室を出るビアンカを見送ると、アレックスはぬるくなったコーヒーを一気に喉へ流し込む。
カーリンが生活の中心となり、初めての恋でもないのに少年みたいに胸を焦がした。逸る気持ちを抑えて会いに行くのも日課となった。
同じ部隊の恋人とは違い、多忙なアレックスは会えない日がざらである。だから、叶った時は理性を放り投げてすべての愛情をカーリンへ注いだ。
それが負担に感じたのなら言ってほしかった。口にしなければ伝わらない思いだってある。
年月を重ねても女心は掴めないとアレックスは大きなため息をついた。
朝起きたチェリーは、昨夜起こしてくれとカーリンから頼まれていたのでベッドを覗いた。
「カーリン、起きて」
「う……ん」と鼻にかけた声を漏らす彼女は、チェリーもドキッとするほど色っぽい。訓練生時代は寝起きの悪いカーリンを見ているだけで鬱陶しかったのだのだが。
枕を抱いて寝返りを打つと、すぐ横に携帯電話が置いてあった。
― 教官の電話、待ってたのかしら。意地張ってないので自分から掛けりゃいいのに。
呆れながらカーリンの肩を揺する。
「カーリンってば、もう朝よ」
「ん……、おはよう」
むくりと起きたカーリンは、真っ赤な目と目の下のクマで随分と酷い顔だった。おまけに美しい金髪は寝ぐせで跳ねまくっている。
悩んだまままどろんで、浅い眠りのなかで何度も寝返りを打った結果がこれだ。
黙ってカーリンの前に鏡を差し出すと、部屋中に絶叫が響き渡った。




