疑惑 その2
アレックスのキスを拒絶した日から、カーリンは揺れに揺れている。
― 少佐、傷ついたかな……。
あの時のアレックスは、大きく見開いたグレーの瞳をすぐ細めると口を固く結んだ。教官の頃でも見せなかった表情がカーリンの心に強く焼き付く。
しばらく連絡を絶っていたせいか、アレックスが近くに感られずもどかしい。だから、訓練生の会話に動揺してシノブの存在に怯えた。
「元気ないわね。何かあった?」
数日前から様子がおかしいとチェリーが指摘すると、カーリンは潤んだ瞳を向ける。
「チェリー、どうしよう……」
「また、教官とケンカした?」
近からず遠からずの理由にどう返事していいか迷っていると、チェリーが紅茶のカップを差し出してくれた。
「少佐を傷つけてしまったかも」
これまでと違う台詞にチェリーは違和感を覚える。アレックスは滅多なことでは怒らないし、声を荒げたりしない。カーリンも感情に正直だが、相手を傷つける発言はしない方だ。
「詳しく話せる?」
チェリーがそっと尋ねると、カーリンは頷いて事のあらましを説明し始めた。
全てを聞き終えたチェリーは静かに息を吐く。
― わたし達にも半分は原因があるんだよね。
カーリンとフィリデオ、そしてアレックスとシノブのカップルが成立すれば、ジェロニモの目を欺ける。
それがシノブの考えで、アレックスは恋人を護るためとはいえ恋人を裏切れないと拒否した。だが、状況は悪化するばかりで黙認せざるを得なくなったのだ。
なので、この事実はカーリンに関わるすべての人間が受け入れて、当の本人は何も知らされていない。
カーリンに事前に説明しておけばよかったのだが、嘘がつけない性格なのでジェロニモの追究を交わしきれないに違いない。そうなるとせっかくの作戦が水の泡になりかねないので、皆敢えて伝えなかったのだ。
そして、一連の経緯を知ってて黙っていたチェリーも共犯である。
「教官はあんたを悲しませることはしないわ。きっと事情があるのよ」
「信じてるさ。でも、あの時は嫌だったんだ」
カーリンは膝に抱いたクッションに顔を埋めたが、テーブルに置いた携帯電話の着信音に肩が跳ねた。掛かってきた相手に心当たりがあるのか、じっと音のする方を眺めている。
「電話、出たら? きっと教官からよ?」
「……やだ」
カーリンが意地でも出ないので、しばらくコールが続いたがとうとう携帯電話は沈黙した。
「ちゃんと話し合わないとこじれたら厄介よ」
「今は話したくないんだ!!」
そう言い張ってそっぽを向くカーリンに、チェリーは深く重いため息をつく。
つい最近まで声も聞けずこの世の終わりだと騒いでいたのに、今はその声すら聞きたくないというのだからかなり重症だ。
むくれているカーリンを置いて、チェリーは部屋を出た。
「……ってわけなのよ」
『そりゃ、マズイだろう』
チェリーは、ロビーでこれまでのいきさつを共謀者のセドリックに電話で話した。
「実際はあの二人、どうなの?」
セドリックは少し間をあけて返答する。
『確かにミュラー教官とカワサキ教官は前々から噂になってたよ。でも、二人が距離を置くようになって安心していたんだけどな』
「そんな矢先、あの男が現れた」
チェリーが続くであろう台詞を先取りすると、電話口の向こうで盛大なため息が聞こえた。
『そうなんだよなあ。あの人もカーリンのことになると必死だから、カワサキ教官の作戦に乗るしかなかったんだと思うよ』
セドリックはいたたまれない気持ちは同じ男としてよくわかるだけに、上官だけを一方的に責める気にはなれなかった。
『俺だって、同じ立場だったらどんなことをしてもお前を護るさ』
さらりと重大な告白を言ってのけたセドリックに、チェリーの顔はたちまち赤く染まる。恐らく言った本人も気付いていないのだろう。急に黙ってしまったチェリーの名を何度も呼んでいる。
『おい、聞いてるのか!?』
「き、聞いてるわよ。今のケータイは高性能だから、そんな大きな声出さなくてもちゃんと聞こえてるし」
『ひと波乱ありそうだな』
ひと波乱はチェリーにも起きていることをセドリックは知らなかった。
部屋に残されたカーリンは、クッションを胸に抱いて携帯電話とにらめっこしている。もう一度、アレックスから掛かってきたら電話を取ろうと待ち構えていたが変化はなかった。
独りよがりだと自覚しているが、押し寄せる不安が素直にさせてくれない。
― そんなに気になるなら、少佐に直接訊けばいいじゃないか。
アレックスは、教官の頃から質問にはちゃんと答えてくれた。根気よく納得するまで教えてくれるので、なかなか理解できないカーリンでも解り易い。
今回も彼女が納得できる理由を答えてくれるはずだ。それができないのはまだ子どもだからなのかと、カーリンは憮然とする。十八歳は法律上成人に認められているが、誕生日を迎えたからと言ってすぐに心も大人になるわけではない。
アレックスは心身ともに大人で、容姿も性格も申し分ない恋人だ。それが却ってカーリンを不安にさせる。
彼女が怒っても、ふわりと笑って包み込んでしまう。悩んでいる時に抱き締めてもらうと何もかも忘れてしまう。
カーリンは思い出したかのように机の引き出しを開けるとある物を取り出した。それは誕生日にアレックスから貰ったネックレスだ。
目の高さまで持ってきてしばし眺める。細身のシルバーチェーンにカーリンの誕生石が付いていて、どんな場面にも合う飽きのこないシンプルなデザインだ。
もちろん男性からプレゼントを貰うのは、父親を除けば初めてでこれが最初で最後かもしれない。
― 意地張ってないで、わたしから電話しよう。
心に決めて携帯電話を手に取った時だ。タイミングよく鳴る着信音にカーリンの心臓は止まりかけた。
相手も確認せずすぐ応答する。
「はい、カーリンです」
『こんばんは、カーリン』
低く澄んだ声ではなく、張りのある通る声だった。
「フィリデオ……」
『あからさまにがっかりするんだね。傷つくなあ』
この青年は、人が弱っている時に限って絶妙なタイミングで現れる。
「そんなつもりじゃ……。傷ついたらごめん」
『やけにしおらしいんだね。この調子だとデートの誘いも受けてくれそうだ』
「それとこれとは別問題だぞ」
『それは残念』と、フィリデオは笑ったのでカーリンも小さく笑った。幼い頃から知っているせいか、フィリデオとは頭を空っぽにして喋れる。
アレックスとの会話も楽しいが、ふっと見せる遠い目や寂しげな表情に隠された感情を深読みしてしまう。
『近いうち、会ってくれる?』
「なんでフィリデオと会わなきゃいけないんだ?」
普段なら真っ先に出る台詞が、今日に限って口からこぼれなかった。
『カーリン?』
― 何を迷っているんだ、わたしは。すぐ断れ、カーリン。
ネックレスを握る手をじっと見つめる。アレックス自身の言葉と無責任な噂話、どちらが真実なのか測るまでもない。
『何かあった?』
測るまでもなかったが、フィリデオの優しい声色が心の空いた隙間に沁みてくる。
『僕でよかったら聞くよ?』
「何もないよ」
『何もないのに泣くの?』
フィリデオに指摘されて初めて涙する自分に気づいた。慌てて手の甲で拭うも止まらない。
『今からそっちへ行くから、外へ出てて』
「大丈夫だよ。フィリデオも忙しいんだから」
『僕が逢いたいんだ。待ってて』
カーリンが断るのよりも早く通話が切れてしまった。
右手に携帯電話、左手にネックレス。
カーリンが選んだのは……。




