鎮魂歌《レクイエム》 その1
省庁の大理石が敷かれた廊下を、足音高らかに歩く青年がいた。
彼こそが若き参事官フィリデオ・フォン・メレンドルフ。金色の髪にグリーンの瞳、柔和な美しい顔立ちは平均年齢が高いこの場にいささか不釣り合いでもある。
貴族という後ろ盾もさることながら、有能さで多くの同僚や上司を追い越してここまできたせいか彼もまた妬みに晒されてきた。
幸か不幸か、にこやかな笑顔の裏に隠された冷ややかな感情に気付く者は誰一人いない。
途中、呼び止められて振り向くと五十半ばの男性が立っていた。紺のスーツをきっちりと着た彼はフィリデオの上司である。
「僕になにか?」
人当たりのいい笑顔を作って上司に体を向けた。
「例の件だが、今年は君にも参列してもらうことになったよ」
― ああ。もうそんな時期か。
フィリデオは胸ポケットから取り出した電子手帳でスケジュールを確認して頷いた。
「シャトレーズ軍人学校で行われる合同慰霊祭ですね」
「軍の連中は表だってやりたくないようだが、当事者が二人もいるんだ。粗末には扱えんだろう」
五年前から夏の盛りに行われるそれこそ、アレックスが陣頭指揮を執って英雄と言わしめたフラッツェルンの悲劇である。
毎年、その模様は全部隊にモニター中継された。
当時フィリデオはまだ学生で、留学先でニュースで見たが正直興味もなかったのであまり詳細は知らない。
記憶にあるのは、モスグリーンの軍服を着た青年が祭壇の前で敬礼している姿だった。士官帽を目深に被っていたので顔はよく見えなかったが、照合したデータの写真に見覚えがあったのはこのためだったかも知れない。
住む世界が違うこの軍人とは一生出会わない自信があったのに、世間は狭いものでカーリンの恋人として自分の目の前に現れたのだ。
冷徹のなかにも熱き想いを内に秘めている最も苦手な相手として。
そもそもアレックスに恨みはないので、状況が違っていたらいい友人に……やはりなり得ないと断言してもいい。
とにかく彼の存在自体が気に入らなかった。あの毅然とした態度も、揺るぎない精神も、そしてカーリンへのひたむきな愛も。
― まったく、厄介だな。
片想いが性に合わないフィリデオは忌々しさに舌打ちをした。
たっぷり二時間、ノートパソコンと向き合っているアレックスは目頭を指で押えて疲れをほぐす。他の教官達が訓練から戻ってくるのを目の端で追いながら軽くため息をついた。
最近、デスクワークばかりで体が鈍って仕方がない。移動は車、行動範囲は建物限定、たまに動くと言ったら階段の上り下りだけだ。
いつもなら訓練生と一緒に訓練をするのだが、仕事が立て込んでそれどころではない。
「マーティン伍長、今夜空いているか?」
「飲みに行くんですか?」
酒の誘いかとセドリックが青い目を輝かせていた。
「行くのは訓練場だ。一戦、やらないか?」
「俺が勝ったらミュラー教官の奢りってどうです?」
ちゃっかりしているとアレックスは苦笑したが奢らない自信はある。「いいだろう」と返事して二人は拳を合わせて約束とした。
その夜、トレーニングウエアに着替えたアレックスとセドリックは訓練場で対峙する。
「時間無制限一本勝負といきましょうか」
「ああ」
セドリックが構えるとアレックスも間合いを取って出方を探った。
先制したのはセドリックで、挨拶代わりとアレックスが得意とする足技で攻めてくる。動きを見極めて最小限に避けながら反撃の機会を待っていると
「逃げてばかりじゃ、相手になりませんよ」
上官を挑発する生意気さに敬意を表して、アレックスは久々に本気を出した。
たっぷりと汗をかいた二人は荒い息を整えながらストレッチに専念する。
「酒が奢れず残念だ」
「こんなことなら挑発するんじゃなかった」
この会話で察しがつく通り、アレックスに軍配が上がった。十年の差がある部下に少々大人げなかったが、先にケンカを売ってきたのはセドリックである。
だが、確実に実力をつけている彼に酒を奢るのも遠い未来ではなさそうだ。
流れる汗をタオルで拭っていると、携帯電話の着信音が訓練場に鳴り響いた。
「あ、俺です」とスポーツバッグの中をまさぐる。
「チェリー、どうした?」
相手はチェリーで、隣にいると盗み聞きしているようなのでアレックスは飲み物を取りに場所を変えたが、それでも静かな場にセドリックの声はよく響いた。
「今、ミュラー教官と一戦やったところで……、え?」
彼がアレックスをチラッと見て、少しだけ背を向けて声を潜めて話し始める。
― またカーリン絡みか?
彼女と付き合って何かと話題に事欠かないのでもう慣れてしまったが、水分を補給しながら視線は自然とセドリックへ注いだ。
「分かった。明日になればこっちにも通達がくると思うから」
セドリックが通話を終えてバッグに携帯電話を仕舞うと、ばっちりアレックスと目が合った。
「チェリーからです」
聞いていれば分かるのでわざわざ報告しなくてもと思っていたら、彼が渋い表情で口を開く。
「慰霊祭ですが、今年はカルマン大尉の部隊と合同で行うそうです」
― ランディのやつ、俺に気を遣ったか。
どんなつらくても、愛するものが傍にいたら乗り越えられる。ランディもまた、今年はビアンカと共に過去の影を越えていくのだろう。
「来賓はフィデリオ・フォン・メレンドルフ参事官がいらっしゃるそうです」
チェリーから事の次第を聞いているのか、更にセドリックは言いづらそうに言葉を続けた。
慰霊祭に両家公認の婚約者、これで何事も起こらない訳がないとアレックスは天井を仰ぐ。
慰霊祭の件はカーリンの上官でもあるランディにも及んでいる。
「今年の慰霊祭なんだけど、シャトレーズと合同だから俺も参列することになったよ」
「了解です」と返事してカーリンは卓上のカレンダーに視線を移した。
― また、つらい時期がやってくるんだな……。
巡る季節に、恋人の傷が癒されることはない。
「リヒター伍長も俺の補佐として名前を挙げておいたよ」
「いいんですか?」
「こんな時こそ傍にいてあげたいだろ?」
れっきとした公私混同だが、カーリンには有難い申し出だ。心の傷が完全に消えるわけではないが、少しでも癒されるならそばにいてあげたい。
そんなカーリンの心情を感じたのか、ランディは切なげに言葉を綴る。
当時のあいつは見ていられなかったよ。お偉いさんに祀り上げられて傷ついて、それでも自分の役目をきちんとこなしていくんだ。
しかも、俺が矢面に立たないように庇いながらさ。一切を引き受けて皆の前に立っている。
ほら、無表情だから分かりにくいだろ? よっぽど、泣き喚いてくれた方が俺は扱いやすかったんだけどね。
もちろん、喜んだり感謝する人間ばかりじゃない。不満や悲しみの吐け口をアレックスに向けるやつも大勢いた。
だけど、あいつはじっと耐えてきた。五年もだぜ? 俺だったらとっくに狂乱してここにはいないな。よくも人間不信にならなかったと尊敬するよ。
ひとしきり語ったランディが深く息を吐いて、カーリンを見やった。
「もう人を愛さないんじゃないかって心配していたけど、カーリンと出会ってアレックスは本当に幸せだと思うよ」
恋人の境遇を改めて知って涙するカーリンに、ランディは「ありがとう」と心の底から感謝の言葉を送った。




