フィリデオとカーリン
ここ最近嬉しいことばかり続いて、機嫌がいいカーリンは今日も鼻歌交じりで食堂へ向かう。
例えば、昨日食堂のおばちゃんからおかずを多くついでもらったり、学校へ突撃侵入してアレックスと甘いひとときを過ごしたこととか、はたから見れば「はい、ごちそうさま」と一蹴される内容なのだが。
「その締まりのない顔、どうにかならない?」
チェリーが隣に座って呆けているカーリンの顔の前でひらひらと手を振ると、やっと我に返った。
「どうでもいいけど、教官に過剰な愛情表現は控えるようにって伝えておいて」
「なんだ、それ?」
怪訝そうにカーリンが訊くと、チェリーは自身の胸元を指でトントンと小突いてみせる。
「ここ、キスマーク付いてる」
「ええっ!! うそっ!! どこっ!?」
慌ててシャツの中を覗くカーリンに、「心当たりあるんだ?」とチェリーが悪戯っぽく笑った。鎌をかけられたと気づいて耳まで真っ赤になるやら体中が火照るやら、涙目で彼女を睨む。
「チェリ~!!」
腹いせに人のおかずを奪って頬張るカーリンに、チェリーは苦笑して眺めていた。
― もう跡、消えちゃったんだけどね。
実は、カーリンの白い肌に付けられた赤い痣を二度ほど発見したが、指摘するとそれこそ大混乱を招くのでやめておいた。
せっかく気分がよかったのに、チェリーの冷やかしですっかり萎えてしまったカーリンにまたもや災難が舞い込む。
ロビーがにわかに騒がしいので、背伸びして様子を窺うとある人物と目が合った。それは自分と同じ見事に輝く金色の髪とグリーンの瞳。
「やあ、カーリン」
「フィリデオ!?」
フィリデオが片手を挙げて呼んだので、カーリンは一斉に注目を浴びてしまった。人混みをかき分けてこちらへやってくる彼にカーリンが身構える。
「何しに来たんだ!?」
彼女の手の甲に口づけをするフィリデオに黄色い悲鳴が湧き起った。カーリン達貴族にとっては当たり前の挨拶だが、ここは軍隊でしかも庶民の集まりである。馴染みのない光景に場がどよめいた。
「ご挨拶だな。公務を抜け出してせっかく会いに来たのに」
「そっか、ごめん。……って、わたしは関係ないじゃないか」
「ねえ。この人、カーリンの彼氏?」
同期の女子が好奇心丸出しで訊くと、カーリンが否定するより早く「カーリンが世話になってるね」と爽やかに笑うものだから誤解の輪があっという間に広がってしまう。
「違うよ!! 彼は親戚だ」
「そんなに照れなくても」
「照れてない!! それにわたしにはちゃんと彼氏が……」
「いる」と言い掛けて言葉を飲み込んだ。
― ミュラー少佐の名前、出していいのかな? やっぱりマズい?
隠れて交際しているわけではないが、自然の成り行きで二人の関係は公認の仲とは言い難い。
「彼氏って誰?」
キラキラした瞳で促す女子に押されてカーリンはのけ反った。
「そ、それは……」
すっかり困り果てたカーリンは、にやにやと笑いながら傍観している彼の腕を引っ張ってロビーの外へ連れ出していく。
「迷惑だった?」
後ろで沈んだ声にカーリンが振り向くと、フィリデオが寂しげな表情をしていた。こういう顔には弱い彼女は胸が少し痛む。
「別にフィリデオが嫌いってわけじゃないよ。ただ、婚約者の件は受け入れられないというだけで」
「よかった。すっかり嫌われたかと思ってたよ」
幼い頃から変わらず素敵な笑顔なので、カーリンはつい見惚れてしまった。
― なに、見惚れているんだ!! 少佐だって笑ったら素敵じゃないか!!
あまり笑わないが、初めて抱かれた夜に見せたあの笑顔は一生の宝物だ。ついでに、そのあとも思い出して一人赤面していると、フィリデオが首を傾げてこちらを見ているので咳払いで誤魔化す。
「少佐の時もそうだけど、いきなりはやめてほしいよ」
「ふうん、そうやって彼を呼ぶんだ」
含み笑いのフィリデオにカーリンははっとした。ファーストネームで呼び合うのが愛情のバロメーターとは言わないが、恋人を階級で呼ぶのはかなりまずいらしい。
「い、今は勤務中だから……な。ふ、二人っきりになったら、ちゃ、ちゃんと名前で呼ぶっ、呼ぶんだから」
動揺しまくりで噛みまくる言い方は、とてもじゃないがまったく説得力がなかった。事実は違うと既に見抜かれているのでカーリンがそっぽを向く。
「そんなに彼が好き?」
その声には揶揄や興味本位の感情は一切なく、真剣に尋ねるフィリデオにカーリンも自然と真顔になった。
「好きだよ、教官の頃からずっと。将来のことは分からないけど、今みたいな恋はもう一生しない」
白い頬がピンクに染まり、瞳を輝かせて語る彼女はため息が漏れるほど強く美しい。
― ここまでカーリンに愛されるなんて、やっぱりあなたが嫌いだ、アレックス・ミュラー少佐。
彼の瞳にわずかに嫉妬の色が交じったが、カーリンは気付いていなかった。
やがて、視界にベンチが飛び込んできたのでそこに二人腰掛ける。大きな樟の下は日陰になっていて外気の暑さに比べて風が涼しくて気持ちがよかった。
「ぼくはね、貴族の自分にうんざりしているんだ」
自分と同じ考えのフィリデオに、カーリンは思わず見入る。
「確かに不自由はしていないけど、心が満たされない。人生も決まっているようなものだしね。自棄になっていた時にカーリンに再会した」
あれは五年前、フィリデオの屋敷で錚々たる貴族を招待してパーティを催した。
当時十七歳のフィリデオは、名高い貴族の令嬢との仲を取り持つのに躍起な母親が嫌で、たまらず会場を抜け出して中庭の奥で時を過ごす。
見事に手入れされたそこは幼い頃からの心安らげる数少ない場所で、ふうっと息を吐いて木に寄り掛かると目を閉じた。
容姿と家柄に文句なしの彼に言い寄る女性は絶えないがどうも食指が動かない。否、一人だけいた。
葉が擦れる音に見上げると、まさにその人物が木の上にいた。
「カーリン!! そんな所で何しているんだ!?」
カーリンは華やかなドレス姿だというのに枝に跨り、一生懸命伸ばしている掌には鳥のひながいる。幼い頃から活発だったが、これは極めつけだ。
「雛が巣から落ちたみたいなんだ」
侍従か誰かに頼めばいいものを、リヒター・ドランジェニエール家のご令嬢自らの出動にフィデリオはため息を吐く。
「気をつけて」と注意を促すとカーリンは頷いてそっと雛を巣に戻すことに成功した。
「やった!!」
満面な笑顔で見下ろす彼女の体が突然大きく揺れて地面へ一直線に落ちていく。彼女はやがてくるであろう激突の衝撃に身構えたが、その瞬間はいつまで経ってもやってこない。
カーリンがおもむろに目を開けると、そこには下敷きになっているフィデリオがいた。
「大丈夫か!? ケガは!?」
「いててて。カーリンが軽くて助かったよ」
とは言いつつどこかぶつけたのか、彼の顔が痛みで歪んでいる。
そこへ先ほどの巣に親鳥が帰ってきたので、二人は見上げて様子を見守った。元気よく鳴いて親鳥からくちばし越しに餌をもらう雛にカーリンとフィリデオは顔を見合わせて微笑むのであった。
フィリデオが語っている間、静けさのなか鳥のさえずりだけが耳に届く。
「皆見て見ぬふりをするのに、カーリンだけは一生懸命雛を巣に戻してあげたね」
「だって、可哀そうじゃないか」
「だから、君の優しさが好きなんだよ」
フィリデオが風で乱れた彼女の髪を撫でたが不思議と嫌悪感はなかった。婚約者の問題がなければ、彼とはずっといい関係でいられたのにと残念でならない。
「それでもわたしはフィリデオを好きになることはできない」
― もし、君が心変わりしたら彼はどういう顔をするんだろうね。
申し訳なく謝るカーリンに彼は目を細めた。




