嵐の予感 その3
珍しく庶務が捗っているカーリンに携帯電話が鳴った。表示はフィリデオでこのまま無視しようかと考えたが、きっぱり断るいい機会だと通話モードにして廊下へ出る。
そして恋人に代わるだの訳の分からないことを言い出したので、やはり受けるんじゃなかったと後悔して切ろうとした矢先にあの声だ。
『私だ、リヒター伍長』
カーリンは心臓が止まるくらい驚いて、頭が真っ白になる。
― なんで少佐がフィリデオと一緒にいるんだ!?
「フィリデオが訳わかんないこと言ってませんか?」
一呼吸置いて『ああ』と短い返事が震えていた。きっと婚約の話を持ち出したのだと鈍感なカーリンでも察するほどの沈んだ声。
「そんなの、無視して下さい」
会って話をすれば誤解も解けるのに、電話だけでは相手の表情が見えずもどかしい。言葉足らずだがカーリンは必死に気持ちを伝えた。
「少佐、わたしを信じて!!」
返事を待つ時間がこの時ほど長く感じたことはない。だが、その言葉はフィリデオによって電話を取り上げられたアレックスの耳に届いてはいなかった。
『もちろん信じているさ、君の少佐殿は立派だから』
相手はまたフィリデオに戻ってカーリンは語尾を荒げる。
「少佐と代われ、フィリデオ」
『忙しいのに悪かったね』
「おい!!」
叫び虚しく無情にも切れてしまった電話を握り締める手が怒りで震えていた。勤務中でなかったら、床に投げつけて叩き壊していたかもしれない。
― フィリデオ、少佐に余計なこと言ったらただじゃおかないから!!
明るい笑顔が売りのカーリンだが、唇を噛み締めて眉を顰める形相に通り掛かった者達はぎょっとした。
「カーリンは本当にあなたが好きなんですね」
フィリデオは忍び笑いをして電話を胸ポケットに仕舞った。
「相思相愛か。でもね、ぼくもカーリンが好きなんですよ。身内ではなく異性として」
突然の宣戦布告だった。
鋭く睨むアレックスを物怖じすることなくフィリデオが受け止める。それも恋人と同じグリーンの瞳で。
重苦しい雰囲気を終わらせるかのごとく、エレベーター内で一階へ到着したことを知らせるチャイムが鳴った。
「それではまたお会いしましょう。アレックス・ミュラー少佐」
「お気を付けて、フォン・メレンドルフ参事官」
入口で敬礼するアレックスと片手を挙げて応えるフィリデオ。上辺だけで挨拶を交わして互いに背を向けた表情は相反していた。
参事官は薄笑いを浮かべて、軍人は険しい表情だった。
教官室へ戻ったアレックスが携帯電話を手に取ると、何件かカーリンの不在履歴と一通のメールがあった。
《時間があったら電話下さい》
《了解》
一言だけ返信して再び訓練へ向かう。正直、衝撃が大き過ぎて頭が回らなかった。
このあと、訓練生の前に出なくてはならないので動揺した姿は見せられない。平静を取り戻そうと両手で頬を叩いて喝を入れた。
アレックスが合流した頃には、野外訓練も終了間際だった。気が滅入っている時は体を動かすに限るが、それも叶わず苛立ちだけが残ってしまう。
「参事官がいらしてたんですって」
ビアンカが束ねていた豊かな髪を振りほどきながら尋ねた。
「フォン・メレンドルフ氏のことでしょうか?」
シノブからの台詞に一同が怪訝な表情を向けてくる。
「知っているのか?」
「父の仕事で何度か聞いたことがあります。二十二歳と若いですが将来が有望だと評判が高い方です」
「そんなお偉い方がアレックスに何の用よ」
カーリンとの関係を言うべきかどうかを悩んで「さあな」と逃げておいたがビアンカの女の勘は見逃さなかった。
だが、そこは長い付き合いで触れたくない部分は敢えて訊かないのが暗黙の了解となっている。
「貴族といえば、リヒター・ドランジェニエール伍長もそうでしたね」
せっかく避けていた話題を知らぬとはいえシノブがわざわざ掘り起こしたので、ビアンカは心の中で舌打ちをした。
表情は変わらないアレックスだが静かなる怒りの帯びた瞳を見る限り、ビアンカは虎の尾を踏んだ思いである。
「着替えてくる」と言い残して、部屋へ戻る彼を熱い眼差しで追うシノブにビアンカが警戒の色を深めた。
そもそも、このタイミングで何故カーリンの話題を持ち出したのか疑問だ。決して空気が読めない彼女ではない。だったら、答えは一つ。
― カワサキ教官、カーリンとアレックスが付き合っていると知っててわざと話を振った?
だったら、こちらも鎌をかけてみるだけのことだ。
「貴族なんて珍しくはないわ。あなたもひょっとしたら好きになるかも」
すると、シノブは彼女の意図を感づいたのか「そうかもしれませんね」と笑みで切り返す。
廊下を歩くアレックスは苛立っていた。
フィリデオ・フォン・メレンドルフ、二十二歳。カーリンとは四歳違いの参事官で親同士が決めた婚約者。
絹糸のような美しい金色の髪にグリーンの瞳は、カーリンの親戚とあって雰囲気がよく似ていた。
彼ならリヒター・ド・ランジェニエール家は喜んで迎えてくれるに違いない。自分が彼に劣っているとは思えないが、どちらかを選ぶとしたら貴族のフィリデオであろう。
父ダスティンとの会話が蘇り、胸を抉った。
「くそっ!!」
忌々しく吐き捨てて拳で壁を殴る。もちろん彼のそれもかなり痛いが、心が痛さが勝ってさほど感じなかった。
カーリンを失うのが怖いし、嫉妬で狂う姿を見られるのも嫌だ。全てを知ってて黙っていた彼女に腹が立つ。
どんどん悪い方向へ考えが流れて負の連鎖を彷徨う。
こんなにも自分は弱い人間だったのかと戸惑うほど、愛は人を強くもするが弱くもするらしい。
夜を待たずしてカーリンの方から電話が掛かってきた。
『少佐、フィリデオのことなんですけど』
「若くして将来が期待されている有能な参事官らしいな」
我ながら大人げない言い方だと嘲笑する。案の定、電話の向こう側で困っているのかカーリンは無言だ。
『怒ってますか?』
― 怒っているかって? 付き合っている女に婚約者がいて、そいつから宣戦布告されたんだ。怒って当然だろう。
だが、心とは裏腹に「いいや」と真逆の言葉が口からこぼれる。彼女も偽りの返事に安堵するほど子どもではなかった。
『怒って当然ですよね。わたしだったら今頃クッションを引きちぎってます』
幾つあっても足りないなと暢気なことを考えていると
『それでもわたしは少佐が大好きです』
涙を堪えて震える台詞に絶句した。
訓練生の頃と同じ、こちらの言動にいちいち反応して一喜一憂する。真っ直ぐに感情をぶつけてほろりと涙するのは訓練生の頃と変わらず卑怯だ。
「ミュラー教官」
振り向くとシノブが隣に立っていたので反射的に携帯電話を手で塞いだ。
「お電話の途中でしたか?」
「構わん。どうした?」
「先ほどの野外訓練の実施内容報告書をお持ちしました」
「ありがとう」
片手で受け取りシノブが視界から消えるのを確かめて電話を耳に当てたが既に通話が終わっている。掛け直せばよかったのだが、何故かそうしない自分がいた。
《ミュラー教官》
あの声は確かシノブだった。同じ教官なんだから名前も呼ぶだろうが、揺らいでいるカーリンには特別なものに聞こえた。
アレックスに抱かれた瞬間からお互いの気持ちを分かち合えると信じていたのに、どこか満たされない感情を持て余す。
今の優先順位は恋人よりシノブの方なのだと、カーリンはそっと電話を切ったのだった。




