ベビー・パニック その2
カーリンが妊娠している。
衝撃の事実を偶然にも知ってしまったアレックスは呆然と立ち尽くしている。
「落ち着いて、アレックス。とにかくカーリンと話し合ってみて」
ビアンカが必死に宥めている隣で、セドリックはおろおろするのみだ。
グレーの瞳はどこか虚ろなのは実感がないのかと思いきや、実は意外なところで取り乱していたようで
「……俺は一度もカーリンを抱いていない」
「「えっ!?」」
見事、ビアンカとセドリックの声が重なった。
「だから、俺の子を身ごもるはずがないんだ」
二人は目の前が真っ暗になったが、頭は真っ白になりぽかんと口を開けている。
「ちょっとセドリック、話が違うじゃない!!」
「知りませんよ!! 俺はてっきりミュラー教官が父親とばかり!!」
小声で(実際は興奮して普段と変わらない音量だが)こそこそ相談するもどうしていいか分からない。
顔面蒼白なアレックスがおもむろに携帯電話を取り出したが、おぼつかない手元が痛々しかった。
早いコールでカーリンが出たので、ビアンカとセドリックはこっそり耳を近づける。
『少佐、こんにちは』
思い掛けない恋人の電話に彼女の声は明るい。
「カーリン、父親は誰だ!?」
― いきなりかい!!
物事には順序があると二人は心の中で激しく突っ込んだ。それだけ動揺している証拠か。
『父親ですか? ベリンハルト=リヒター・ド・ランジェニエールですけど』
「お前の父親じゃない。お腹の子だ」
鬼気迫る表情のアレックスと天然のカーリンの会話がまったく噛みあわず、二人は不謹慎と思いつつ失笑を堪える。
『え? なんで知っているんですか?』
「セドリックから聞いた。本当なのか」
『はい』
「父親は誰なんだ?」
『それが分からないんです。ふらふらしているものだから』
困ったものです、と呆気らかんに笑うカーリンが不憫だが、それよりも今後が問題だ。どんな深い事情があっても追及はしないでおこう。一番不安なのは彼女に違いないのだから。
「一緒に育てよう」
しばらく間が空いて、アレックスが絞り出すように言うとカーリンがすぐさま拒否した。
『とんでもない!! 少佐は忙しいのにダメですよ』
「お前ばかりに任せるわけにはいかん。不慣れだが努力する」
一切の感情をかなぐり捨てて、愛するカーリンのために人生を捧げる。
そんなアレックスの一大決心に、セドリックは感動して、ビアンカは瞳を潤ませていた。
『そうですね。少佐の方がしつけとかちゃんとしてくれそうだし』
承知した様子だが、申し訳なさそうに言葉が続く。
『でも、大丈夫ですか? 四つ子ですよ』
「「「四つ子!?」」」
三人の素っ頓狂な声は、カーリンの鼓膜を直撃する。
「アレックス、わたしなんて言ったらいいか……」
「……なにも言うな」
すっかり意気消沈なアレックスの肩にビアンカが手を置いて慰めた。
『産まれたら連れてきますね』
「立ち会わなくていいのか?」
『そんな大袈裟ですよ』
― お前の一大事に大袈裟もあるか。
衝撃な事実が脳裏を駆け巡り、朦朧とした意識でアレックスは辛うじて正気を保っている。
「せめて傍にいてやりたい」
『これ以上迷惑をかける訳には……』
「迷惑と言うな!! そんなに俺が頼りないのか!?」
珍しく声を荒げたアレックスに一同は目を丸くした。それは教官室まで響いて、他の教官達が怪訝な表情で廊下を窺っている。
『野良犬のことを真剣に考えてくれるなんて、ほんと少佐は優しいですね。』
「は?」
一瞬アレックスは聞き間違えたかともう一度尋ねた。
「なん……だって?」
『部隊に棲みついた野良犬です。わたしが面倒を見ていたんだけど、いつの間にか赤ちゃんが出来ちゃって困ってたんです』
その台詞に、セドリックは背中に大量の冷や汗が流れるのを感じた。
― また、やっちゃったか……?
恐る恐る視線を上官に向けると、物凄い形相でこちらを睨んでいる。
「カーリン、体の調子はどうだ」
『わたしは至って健康ですよ。今日のランチもおかわりして……』
一気に緊張から解き放たれたアレックスはしばし放心状態で、掌中の携帯電話からはカーリンが「少佐」と呼び掛けていた。
そっと場を離れるセドリックの襟を、おどろおどろしい上官ががっちりと掴む。
「お、俺、そろそろ準備をしなくちゃ」
「手伝ってやるから心配するな」
ミーティング室へ引きずられて悲鳴を上げるセドリックに、ひらひらと手を振ってビアンカが見送った。
昼休み、珍しくアレックスから電話が掛かってきたがどうも様子が変だった。ひどく取り乱して、しまいには「そんなに頼りないか」と怒鳴られてしまう有様だ。
もちろん頼りにしているが、部隊に棲みついた野良犬の心配までしてもらうほどではない。
「教官、なんて?」
チェリーがデザートのクレープを頬張りながら尋ねると、カーリンは首を傾げる。
「さあ。わたしもよく分からないけど、すごく仔犬を心配してくれてたよ」
「ふうん。里親を探してくれるのかしら」
出産に立ち会うとか一緒に育てるとか、随分と親身になってくれた。
― そんなに犬好きなのかなあ。
犬を散歩させるアレックスを想像して、微笑ましい光景にカーリンの口元が綻ぶ。
チェリーはその夜、セドリックからの電話で勘違い甚だしい出来事を聞かされた。
「カーリンに赤ちゃん!?どこをどう聞いたらそんな話になるのよ!?」
『だから、あの時チェリー達がちゃんと教えてくれてたら』
「早合点したあなたがいけないんじゃないの。そりゃあ、教官だって怒るわ』
前々から早とちりする性格だと思っていたが、今回は極めつけだとチェリーは肩を竦める。
『ミュラー教官も大人だし、そういうこともありかなあって思うだろ?』
「相手はその気でも、カーリンは恋愛初心者でしょう? あっ、噂をすれば戻って来たわ。じゃあね」
まだ真相を知らないカーリンは機嫌がいい。そこへ彼女の携帯電話の呼び出し音が鳴った。
「こんばんは、少佐。お昼はいろいろと心配してくれてありがとうございます。……仔犬ですか? やっぱりわたし達では無理なので里親を探すことにしました」
― さぞ教官も慌てたでしょうね。見たかったなあ。残念!!
暢気に笑っているカーリンと電話の向こう側でげんなりしているであろうアレックスを比較して、チェリーは忍び笑いをする。
長い一日が終わり、セドリックの早合点のせいでアレックスは疲労困ぱいだった。仕事をする気も起らず、戦闘服のままベッドに横たわる。
今回は何事もなかったからいいものを、もしこれが現実だったらと考えるだけでぞっとした。それだけカーリンを愛しているしもっと信じてやらねばと反省する。
気持ちと感情が直結している彼女なら見抜けると、一年近く一緒にいた自信が驕りに変わっていたかもしれない。
不安に駆られて彼女に電話してみると、やはり話題は犬のことだ。声からして、一連の騒動はまだ聞かされていない風である。
カーリンはアレックスを優しいと言っていたが、彼からすれば野良犬の世話をするカーリンの方がそうだと思う。
産まれる仔犬に名前を決めているらしいが、なぜか教えてくれなかった。
それにしても、今回のことでカーリンとのより強い繋がりを求めてしまう自分がいる。
― 彼女を抱けば不安も消えるだろうか。
カーリンの十八歳の誕生日まで、あと一ヶ月。アレックスは秘かに心を決めた。
その後、野良犬は無事四匹の仔犬を出産した。部隊のあちらこちらに里親募集の貼り紙をしたところ、引き取り手が現れてカーリンはほっと一安心だ。
「右からリコ、ソフィア、チェリーだよ」
「やだ、わたし達の名前を付けたの?」
「ああ。見ろよ、チェリーが一番可愛いぞ」
カーリンがチェリーに仔犬を抱かせると、まんざらでもなく名残惜しそうに撫でている。
「ところで、一匹だけオスがいたわね。名前はなに?」
「へへへ、内緒」
各々引き取られていく仔犬たちにカーリンは別れを告げて、最後にオスの仔犬だけとなった。
― ミュラー少佐みたいに強く逞しくなれ。
仔犬の首輪に刻まれた名前は『ALEX』。栗毛の彼をカーリンはいつまでも見送っていた。




