第三話 元婚約者は、ようやく自分が何を失ったのか知りました
ルシア・ベルナールとエドガルド・ハイドリックの婚約が内々に決まってから、さらに十日が過ぎた。
まだ正式発表はされていない。
けれど、貴族社会というものは不思議なもので、隠しているはずのことほど、どこからともなく香りが漏れる。
ハイドリック公爵家の馬車がベルナール侯爵家へ頻繁に出入りしている。
エドガルドが王立宝石商に特別な注文を出した。
ベルナール侯爵夫人が、婚礼衣装に使う布を見に行った。
そんな小さな噂が積み重なり、王都の貴婦人たちはすでに察していた。
ルシア嬢は、もう次の婚約者を決めたらしい。
しかも相手は、ラングレー公爵家と並ぶ名門、ハイドリック公爵家の次男エドガルドだと。
その日の午後、ルシアは王都の庭園で開かれた慈善茶会に出席していた。
初夏の陽射しは柔らかく、白い天幕の下には季節の花が飾られている。
貴婦人たちは扇を片手に談笑し、令嬢たちは涼やかな声で笑っていた。
ルシアはその一角で、年配の伯爵夫人と寄付先の孤児院について話していた。
「ルシア嬢は、本当に落ち着いていらっしゃるわね」
伯爵夫人が感心したように言った。
「いろいろと騒がしかったでしょうに」
「お気遣いありがとうございます。ですが、わたくし自身は何も失っておりませんので」
ルシアは静かに微笑んだ。
その言葉に、伯爵夫人の目が愉快そうに細められる。
「まあ。お強いこと」
「強いというより、不要なものを手放しただけですわ」
伯爵夫人は扇で口元を隠した。
笑いを隠すためだ。
その時だった。
「ルシア嬢!」
庭園の入口から、場にそぐわない大きな声が響いた。
会話が止まる。
楽師の奏でる音さえ、一瞬遅れて揺らいだように感じられた。
白い石畳の向こうから、ヴィクトール・ラングレーが歩いてくる。
いや、歩いてくるというより、ほとんど駆け込んできたと言った方が近い。
額には汗が浮かび、襟元もわずかに乱れていた。
公爵家の長男としては、あまりに見苦しい姿だった。
「ヴィクトール様」
ルシアは椅子から立ち上がらないまま、静かに名前を呼んだ。
「ここは慈善茶会の場です。まずは落ち着いてくださいませ」
「落ち着いていられるか!」
その声に、周囲の貴婦人たちが一斉に扇を開いた。
失礼な声量を遮るため。
あるいは、笑いを隠すため。
ヴィクトールはやはり、それらに気づくことはない。
「君に話がある。あの婚約の件だ」
「婚約の件?」
「誤解があったんだ」
「誤解でございますか」
「そうだ。僕は、君を試しただけなんだよ。公爵家の妻になる覚悟があるかどうかをね」
ルシアはティーカップを静かに置いた。
「婚約指輪を二十四時間外すな、外したら謝罪のうえ指輪代を全額返金しろ、結婚式と披露宴の費用は花嫁側で全額負担しろ、婚礼衣装も花婿の礼装もこちらで用意しろ、公爵家の屋敷維持費も折半しろ。あの条件が、試しでございましたの?」
周囲が、しんと静まった。
ルシアは声を荒げていない。
責め立ててもいない。
ただ確認しただけだ。
それが余計に効いたのか、ヴィクトールの顔が赤くなる。
「そ、それは……そう、言い方が少し悪かっただけだ」
「まあ、そうなんですの?」
「指輪だって買う。何本でも買う。結婚式の費用も、こちらで出してもいい」
「今度は、ですか」
その一言で、近くにいた若い令嬢が小さく咳き込んだ。
ヴィクトールはさらに焦ったように続ける。
「生活費の折半も、屋敷の維持費も、君がどうしても嫌だと言うなら考え直してもいい。君がそんなに我がままだとは思わなかったから、こちらも少し厳しくしすぎただけで」
「ヴィクトール様」
ルシアは微笑んだ。
「まだ、わたくしを妻にできると思っていらっしゃいますの?」
ヴィクトールは言葉を詰まらせた。
「な、何を……」
「わたくしたちの婚約は、すでに白紙に戻りましたのに」
「だから、やり直せばいいだろう!」
「いいえ。やり直す必要はございません」
ルシアは左手をそっと持ち上げた。
薬指に、澄んだ青い宝石が輝いている。
庭園の陽射しを受けて、その指輪は静かに光を返した。
大きな石だった。
けれど、派手というより、丁寧に選ばれた品格のある輝きだった。
「あいにく、わたくしは先日、別の方と婚約いたしました」
ヴィクトールの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「婚約……?」
「はい」
「誰だ。まさか、たかが侯爵家の令嬢が、僕以上の相手を見つけたとでも言うのか……?まさか、二股をかけていたのか!!?」
「二股、でございますか?」
「侯爵家ごときが、公爵家相手に二股など!何様のつもりだ!!」
その瞬間、空気が変わった。
近くにいた貴婦人たちの扇が、ぴたりと止まる。
ルシアはゆっくりと目を細めた。
「ヴィクトール様。以前から不思議だったのですが」
「何だ」
「あなたは、わたくしの家をどの程度ご存じでしたの?」
「ベルナール侯爵家だろう。それ以上でも以下でもない」
「そうですか」
ルシアは静かに頷いた。
その時、庭園の奥から低い声が響いた。
「若い方は、ずいぶんと物を知らぬ」
ヴィクトールが振り向く。
そこに立っていたのは、ルシアの祖父、クレメンス・ベルナール侯爵だった。
白髪の老紳士。
鋭い目元。
現国王の治世を二十年支えてきた宰相である。
その姿を見た瞬間、周囲の貴族たちが自然と姿勢を正した。
「宰相閣下……」
ヴィクトールの声がかすれる。
クレメンス侯爵は、ゆっくりとルシアの隣へ進んだ。
「うちの孫娘を、ずいぶん安く見積もってくださったようだ」
「い、いえ、私はそのような」
「ルシアは確かに侯爵家の令嬢だ。だが、その祖父はこの私。現宰相クレメンス・ベルナールである」
ヴィクトールの唇が震えた。
「さらに申し上げますと、わたくしの祖母は先王陛下の第四王女でございます」
ルシアが穏やかに続ける。
「ですから、わたくしは王家の血を引く侯爵令嬢でもございます」
庭園は完全に静まり返った。
知らなかった者も、もちろんいた。
しかし、調べればすぐわかることだ。
少なくとも、婚約相手の家として迎えようとするなら、知らない方が不自然な事実だった。
「聞いていない……」
ヴィクトールが呟く。
「聞いていないぞ、そんなこと」
「調べもせずに婚約条件を突きつける方が、いらっしゃるのですね」
ルシアの声音は柔らかく、その一言は鋭かった。
「ち、違う。私は……」
「ヴィクトール」
今度は別の声が響いた。
庭園の入口に、ラングレー公爵夫妻が立っていた。
その後ろには次男セドリックの姿もある。
ラングレー公爵の顔は厳しかった。
公爵夫人は青ざめ、セドリックは深く眉を寄せている。
「父上……」
ヴィクトールは縋るように父を見た。
「ちょうどよかった。父上からも言ってください。これは誤解なのです。私は公爵家のために」
「黙れ」
短い一言だった。
だが、その場にいた誰もが息を呑むほど重かった。
ラングレー公爵は、ベルナール宰相とルシアに向かって深く頭を下げた。
「ベルナール宰相閣下、ルシア嬢。このたびの愚息の振る舞い、ラングレー家当主として心よりお詫び申し上げる」
公爵が人前で頭を下げる。
それがどれほど重いことか、ヴィクトール以外の者は理解していた。
「父上、何をなさるのです!」
「お前は黙っていろと言った」
「私は長男です!ラングレー公爵家の後継者です!」
ラングレー公爵は、息子を冷たく見た。
「長男であることと、公爵家を継ぐ資格があることは別だ」
ヴィクトールの顔が硬直した。
「な……」
「お前には、王都の社交も家督も任せられぬ」
「父上!」
「本日をもって、ヴィクトールの後継者教育を停止する」
庭園にどよめきが走った。
ラングレー公爵は続ける。
「今後、ラングレー家の後継者教育は次男セドリックに移す」
セドリックが目を伏せ、深く一礼した。
ヴィクトールは信じられないものを見るように弟を見た。
「セドリックが……?次男のお前が?」
近くにいた貴婦人の誰かが、扇の陰で吹き出した。
セドリックは表情を整え、改めてルシアに向き直る。
「ルシア嬢。兄の発言により、あなたのお名を不快な形で社交界に広めてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
「セドリック様が謝ることではございません」
「ですが、ラングレーの名を持つ者として、見過ごすことはできません」
彼は兄とは違い、まっすぐに頭を下げた。
その姿を見て、周囲の貴婦人たちの目が少し和らいだ。
少なくとも、ラングレー家にはまともな者がいる。
そう思わせるには十分だった。
「待て、待ってくれ!」
ヴィクトールは取り乱した。
「私はただ、結婚前に条件を明確にしようとしただけだ!何が悪い!僕は金に困っていたわけじゃない。指輪くらい買える。買えるんだ!」
「では、買えばよかったのではなくて?」
どこかの夫人が小さく呟いた。
別の夫人が続ける。
「返金を求める必要はありませんわね」
「売却金をご自分のものにする必要もありませんわ」
「屋敷の維持費まで折半など、聞いたことがありませんもの」
「まあ、指輪卿ですものね」
最後の一言で、ヴィクトールの動きが止まった。
「指輪、卿……?」
彼は、初めてその呼び名を耳にしたらしい。
周囲の貴婦人たちが、気まずそうに、しかし面白そうに扇を揺らす。
ヴィクトールは震える声で尋ねる。
「誰のことだ」
誰も答えない。
それが答えだった。
「私のことか……?」
ヴィクトールの顔が、赤から青へ、青から白へと変わっていく。
その時だった。
「ルシア」
穏やかな声が庭園に響いた。
エドガルド・ハイドリックが、白い花のアーチを抜けて歩いてくる。
金髪に青い瞳。
胸元にはハイドリック公爵家の青い紋章。
落ち着いた足取りは、先ほど駆け込んできたヴィクトールとは対照的だった。
「待たせてしまったかな」
「いいえ、ちょうどよいところでしたわ」
エドガルドはルシアの隣に立ち、ヴィクトールに向かって軽く会釈した。
「ラングレー卿。お久しぶりです」
「あ……ああ……」
ヴィクトールは、まともに返事ができなかった。
エドガルドはそれ以上彼を責めず、ルシアの左手に視線を落とした。
「指輪は重くない?」
「少し重いですわ」
「すぐに作り直させよう」
「いいえ。今はこのままで」
そのやりとりを聞いた貴婦人たちの表情が、柔らかくなる。
エドガルドは指輪に触れようとして、ルシアの表情を確認してから、そっと指先だけを添えた。
「外したくなったら、いつでも外していい。これは君を縛るものではないから」
その言葉に、庭園の空気が変わった。
誰もが理解した。
これが、指輪で人を縛ろうとした男と、指輪で敬意を示そうとする男の差なのだと。
ヴィクトールは歯を食いしばった。
「ハイドリック……お前まで、私を笑うのか」
「私は笑っていません」
「ならば何だ!」
「そうですね。私から申し上げるなら、女性に指輪を贈るなら、まず自分の器を用意なさった方がいい。ということくらいでしょうか」
庭園に沈黙が落ちた。
次の瞬間、扇の陰でいくつもの笑い声が弾けた。
ヴィクトールは言葉を失い、ラングレー公爵は目を閉じ、深く息を吐く。
「ヴィクトール。お前は本日をもって王都の社交から退く。領地へ下がり、小さな荘園の管理から学び直せ」
「そんな……」
「公爵家を背負う覚悟がないのは、セドリックではない。お前の方だ」
その言葉に、ヴィクトールは完全に崩れ落ちた。
膝をつくことはなかった。
しかし、立っているだけで精一杯なのは誰の目にも明らかだった。
ラングレー公爵夫人が、静かに顔を背ける。
セドリックは兄を見たまま、何も言わなかった。
ルシアはその光景を、冷静に見つめていた。
怒りは、もうない。
同情もない。
ただ、終わったのだと思った。
自分を値踏みし、縛り、支配しようとした男との縁は、これで完全に切れた。
「それでは、わたくしたちは失礼いたします」
ルシアは美しく一礼すると、エドガルドが当然のように腕を差し出す。
二人が並んで歩き出すと、庭園の人々が自然と道を開けた。
その背中を見送りながら、誰かが小さく呟いた。
「本当に、お似合いですこと」
「ええ。指輪の大きさも、あちらなら納得ですわ」
「大きいのは宝石だけではなく、器の方ですものね」
その言葉に、何人もの貴婦人が頷いた。
こうして、ヴィクトール・ラングレーの復縁騒動は終わった。
彼はルシアを取り戻すこともできず、後継者の地位も失い、王都の社交界からも退くことになった。
残ったのは、ラングレー公爵家の長男という肩書きではない。
指輪卿。
それだけだった。
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