第四話 バカデカい指輪は、わたくしを縛らない
ヴィクトール・ラングレーが王都の社交界から姿を消してから、季節はゆっくりと夏へ向かっていた。
ラングレー公爵家は正式に謝罪文を出し、ベルナール侯爵家へ相応の慰謝料を支払った。
そして、長男ヴィクトールの後継者教育を停止し、次男セドリックに家督教育を移すことも、親しい貴族たちの間ではすでに周知の事実となっている。
もちろん、それで噂が完全に消えるわけではない。
むしろ社交界の貴婦人たちは、新しい菓子の名を覚えるような軽やかさで、あの不名誉な呼び名を使い始めていた。
指輪卿。
婚約指輪を二十四時間外すなと言い、外したら指輪代を全額返金しろと言い、さらには結婚式費用も屋敷の維持費も花嫁側に負担させようとした、あの公爵令息のことである。
ただし、その名が語られる時、もうルシアが傷つくことはなかった。
なぜなら、彼女の左手には今、別の指輪が輝いているからだ。
「ルシア」
ハイドリック公爵家の庭園で、エドガルドが心配そうに彼女の左手を見た。
「やはり重いのではないかな」
「少しだけですわ」
ルシアはそう答えたものの、薬指に輝く青い宝石は、やはり少々存在感がありすぎた。
美しい。
間違いなく美しい。
澄んだ青の宝石は、光を受けるたびに水面のようにきらめき、繊細な台座には小花と蔦の意匠が刻まれている。
職人の腕は見事だった。
ただ、婚約指輪としては、少しばかり張り切りすぎている。
エドガルドは真剣な顔で言った。
「やはり作り直そう。君の指に負担をかけるために贈ったものではない」
「まあ。そんなにお気になさるの?」
「気にする。君が嫌だと思うものを、私から贈られたものだからと我慢してほしくない」
ルシアは思わず彼を見上げた。
エドガルドは、いつもそうだ。
何かを決める前に、必ずルシアの意思を確認する。
触れる前に、彼女の表情を見る。
贈り物ひとつにも、自分の満足より彼女の心地よさを優先する。
あの男とは、まるで違う。
指輪で縛ろうとした男。
指輪を罰の証にしようとした男。
指輪代を返せと言った男。
そして今、目の前にいるのは、指輪が重いのではないかと本気で心配してくれる男だった。
「エドガルド様」
「うん」
「この指輪、少し重いですわ」
「やはり」
「ですが、嫌な重さではありません」
エドガルドは不思議そうに瞬いた。
ルシアは左手を持ち上げ、青い宝石を陽に透かした。
「これは、わたくしを縛る重さではありませんもの」
エドガルドの目元が、柔らかくなった。
「では、何の重さだろう」
「あなたが込めてくださったお気持ちの重さです」
言ってから、ルシアは少しだけ恥ずかしくなった。
自分で口にしておきながら、随分と甘いことを言ってしまった気がする。
だが、エドガルドは茶化さなかった。
彼はただ、とても大切な言葉を受け取ったように、静かに微笑んだ。
「それなら、もう少し軽くする努力をしよう」
「お気持ちを?」
「君に負担をかけたいわけではないから」
その返事があまりに彼らしくて、ルシアは小さく笑ってしまった。
「エドガルド様は、真面目ですのね」
「君のことだから」
「わたくしのことだと、真面目になりますの?」
「いつでも真面目だが、君のことなら特に」
今度こそ、ルシアは返事に困った。
エドガルドは彼女の左手を取り、指輪には触れず、その手の甲へそっと唇を寄せる仕草だけをした。
実際には触れない。
庭園とはいえ、二人きりではないからだ。
その節度すら、ルシアには心地よかった。
「外したい時は、いつでも外していい」
エドガルドは言った。
「たとえ婚礼の日でも、君が重いと思うなら外していい。指輪は君を縛るためのものではない」
「では、外したら指輪代を返金しなければなりませんの?」
ルシアが冗談めかして言うと、エドガルドは一瞬だけ真顔になった。
「その話は、非常に不愉快になるのでやめよう」
「まあ」
「私は君から金貨を取り戻したくて指輪を贈ったわけではない」
「存じております」
「それに、売却金を私のものにするなど論外だ」
「そこまで真面目に返してくださらなくても」
ルシアが笑うと、エドガルドは少し困ったように眉を下げた。
「君が笑ってくれるならいい」
その一言で、ルシアの胸はまた少し温かくなった。
結婚式は、その年の社交界最大の行事となった。
王都の大聖堂には、白百合と青薔薇が飾られた。
ベルナール侯爵家の紋章と、ハイドリック公爵家の紋章が並び、その中央には国王陛下から贈られた祝福の証が置かれている。
式には国王陛下も臨席された。
ルシアの祖母が先王陛下の第四王女であること。
祖父クレメンスが現宰相であること。
そしてハイドリック公爵家が王家と深い結びつきを持つ名門であること。
そのすべてを考えれば、王家が祝福を示すのは自然なことだった。
けれど、参列した者たちが本当に見たかったのは、家同士の結びつきだけではない。
ルシアがどのような顔で新しい婚約者の隣に立つのか。
そして、エドガルドがどのように彼女を扱うのか。
そこに、誰もが密かに注目していた。
結果は、明らかだった。
エドガルドは終始、ルシアを急かさなかった。
歩幅を合わせ、手を取る時には必ず彼女を見る。
誓いの指輪を嵌める時でさえ、彼は小さく囁いた。
「重ければ、あとで替えよう」
ルシアは、祭壇の前だというのに笑いそうになった。
「今、それをおっしゃいますの?」
「大事なことだから」
「大丈夫ですわ。少しずつ慣れてきました」
ルシアはまっすぐに彼を見つめた。
「けれど、慣れたくもないとも思っていますの」
エドガルドは一瞬だけ息を止め、それから本当に嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見た貴婦人たちは、後にこう語ったという。
あれは、ただの政略結婚ではなかった。
あの二人は、互いをきちんと選んでいたのだと。
式の後、ルシアは正式にハイドリック公爵家へ嫁いだ。
もっとも、彼女の日々は誰かに縛られるものではなかった。
友人との茶会に出る時も、エドガルドは「楽しんでおいで」と送り出す。
実家へ帰る時も、彼は馬車と護衛を整えた上で「侯爵夫妻によろしく」と言った。
衣装を選ぶ時も、彼は金額ではなく、まずルシアが気に入ったかを尋ねた。
ある日、ルシアがわざと尋ねたことがある。
「エドガルド様。わたくしの茶会費用は、夫婦で折半になさいます?」
エドガルドは書類から顔を上げ、しばらく考えた。
「君が私の分のお茶菓子まで食べてくれるなら、私が全額出そう」
「まあ。そこは折半ではありませんの?」
「君と張り合って菓子を半分取り合う夫にはなりたくない」
「では、屋敷の維持費は?」
「それは私と公爵家の責任だ」
「わたくしの衣装代は?」
「君が自分の財産から出したいものは尊重する。だが、公爵夫人として必要なものを、君個人に押しつける気はない」
あまりにもまともな返答だった。
まともすぎて、ルシアは少し笑ってしまった。
「何かおかしかったかな」
「いいえ。ただ、まともな方と結婚できてよかったと思いました」
エドガルドは目を瞬かせたあと、静かに書類を置いた。
「ルシア」
「はい」
「私は今、とても褒められた気がする」
「褒めましたわ」
「では、もう少し近くで聞きたい」
そう言って彼が隣の席を示したので、ルシアは笑いながらそこへ座った。
エドガルドは彼女の左手を取り、青い指輪を見つめる。
「本当に、重くない?」
「ええ」
「無理はしていない?」
「しておりません」
「外したくなったら」
「いつでも外していい、でしょう?」
「もちろん」
ルシアは目を細めた。
「でも、今は外しません」
「どうして?」
「あなたが、外してもいいと言ってくださるからです」
エドガルドは言葉を失った。
ルシアはその表情が少しおかしくて、けれど愛おしくて、彼の手を握り返した。
「縛られないとわかっているから、つけていたいのです」
エドガルドはゆっくりと息を吐いた。
「君には、一生勝てそうにない」
「勝ち負けなのですか?」
「違う。だから幸せなんだと思う」
その言葉に、ルシアは自然と微笑んだ。
一方その頃。
ヴィクトール・ラングレーは、王都から離れた領地の小さな荘園にいた。
表向きは領地経営を学ぶため。
実際は、王都でこれ以上恥を重ねないための左遷である。
彼に任されたのは、広大なラングレー領の中でも、特に小さな荘園の管理だった。
麦畑。
牧草地。
古い倉庫。
修繕が必要な水車。
そこにあるのは、華やかな夜会でも、美しい令嬢たちでもない。
現実である。
「この水車の修繕費が高すぎる」
ヴィクトールは睨みながら言った。
「半分は村人に負担させればいいのではないか?」
家令は無表情で答えた。
「水車は荘園の設備でございます。管理者側の責任です」
「だが、村人も使うだろう」
「だからこそ、管理者が整えるのでございます」
「では使用料を」
「すでに税に含まれております」
ヴィクトールは口を閉じた。
その後ろで、若い使用人が小さく呟いた。
「さすが指輪卿様……」
「聞こえているぞ!」
「失礼いたしました」
使用人は慌てて頭を下げたが、明らかに笑いを堪えていた。
領地に下がれば噂から逃げられると思っていたヴィクトールだったが、甘かった。
社交界の噂は、馬車より早く、鳥より軽く、国中へ広がる。
彼が見合い話を持ち込まれた時もそうだった。
相手の令嬢は、穏やかに微笑んで最初にこう尋ねた。
「念のため確認させていただきたいのですが、指輪を外した場合の返金条件はございますか?」
その見合いは、十分で終わった。
また別の日、母親である公爵夫人から届いた手紙には、こう書かれていた。
あなたは指輪ひとつで公爵家の名を傾けました。
せめて水車くらいは、自分で傾かないよう直しなさい。
ヴィクトールはその手紙を読んで、三日ほど寝込んだという。
一方、次男セドリックは王都で着実に評価を上げていた。
父のもとで領地の報告書を読み、王都の社交でも丁寧に頭を下げ、兄の失態で傷ついた家名を少しずつ立て直している。
時折、意地の悪い貴婦人から「指輪卿の弟君」と呼ばれることもあったが、セドリックは涼しい顔で答えた。
「兄の失敗から、私も多くを学びました。特に、指輪は相手を縛るものではないということを」
その返しがあまりに見事だったため、社交界ではセドリックへの評価がさらに上がった。
ラングレー公爵夫人は、ある茶会でため息まじりに言ったという。
「長男は指輪で家名を落とし、次男は指輪で家名を拾いましたわ」
その言葉は、しばらく社交界の笑い話になった。
数年後。
ルシア・ハイドリック公爵夫人は、その気骨と知性で社交界に確かな地位を築いていた。
若い令嬢たちは、困った縁談があると彼女に相談するようになった。
ある日の茶会で、一人の令嬢が不安そうに尋ねた。
「公爵夫人。婚約者から贈られた指輪は、どんな時でもつけていなければならないのでしょうか」
ルシアは微笑んだ。
「指輪を大切にすることは、悪いことではありません」
令嬢はほっとしたような顔をする。
「けれど」
ルシアは左手の青い指輪に目を落とした。
「高価な指輪を贈られることが幸せなのではありません。その指輪で、あなたを縛ろうとしない方を選びなさい」
令嬢は、ゆっくりと頷いた。
その時、隣にいた年配の伯爵夫人が扇の陰で囁いた。
「まあ。第二の指輪卿が現れなくて済みそうですわね」
その場にいた貴婦人たちが、上品に笑った。
ルシアもまた、少しだけ笑った。
かつて彼女を縛ろうとした指輪は、もうどこにもない。
今、彼女の指にあるのは、彼女を尊重する人が贈ってくれた、少し大きくて、少し重くて、けれど決して彼女を縛らない指輪だけだった。
指輪は外してもいいし、生活費も屋敷の維持費も折半しなくていい。
そんな当たり前のことを、バカデカい指輪で確認するお話でした。
指輪卿、強く生きろゆ。
ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いしますゆ。




