第二話 ケチな公爵令息は、社交界で指輪卿になりました
翌日。
王都の社交界は、ひとつの話題で持ちきりになっていた。
ラングレー公爵家の長男ヴィクトールが、ベルナール侯爵令嬢ルシアとの婚約を断られたらしい。
それだけなら、珍しい話ではない。
貴族同士の婚約話など、表に出る前に消えることもある。
けれど、今回の話が一気に広まった理由は、ただひとつ。
ヴィクトール本人が、誰よりも熱心に喋っていたからである。
「いや、僕は悪くないんだ」
王都の茶会で、ヴィクトールは真剣な顔でそう語った。
相手は、母親同士の付き合いで顔を合わせた伯爵夫人たちである。
本来なら、若い令息が婚約に関する愚痴をこぼす相手ではない。
しかしヴィクトールは、自分がいかに理性的で、ルシアがいかにわがままだったかを証明したくてたまらなかった。
「僕はただ、結婚前に条件を明確にしただけなんだよ。婚約指輪は二十四時間外さないでほしい、とかね」
「二十四時間?」
伯爵夫人の一人が、ゆっくりと扇を開いた。
「ええ。だって、僕との婚約を誇りに思っているなら、外す必要などないでしょう?」
「まあ……入浴中も?」
「もちろんです」
「就寝中も?」
「当然です」
伯爵夫人たちは顔を見合わせた。
扇の陰で、誰かの眉がぴくりと動く。
「それで、ルシア嬢は怒り出したのですか?」
「そうなんですよ。しかも、指輪を外したら指輪代を返してもらうという、ごく当然の条件にも反発して」
「指輪代を返す?」
「ええ。指輪を外すということは、僕との約束を破るということですからね。謝罪して、指輪代を全額返金する。そして指輪は売却する。もちろん売却金は僕のものです」
伯爵夫人たちの扇が、一斉に止まった。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
その後、彼女たちは社交界の貴婦人らしく、何事もなかったように微笑んだ。
「まあ……大変、独創的なお考えですこと」
「でしょう?僕は、夫婦になる前に金銭面をはっきりさせるのが誠実だと思っているんです」
「それはそれは」
「結婚式の費用も、花嫁側が全額負担すべきだと思いませんか?こちらは公爵家ですから、迎え入れてやる立場ですし」
その日の夕方には、王都の三つの茶会でこの話が共有されていた。
翌日には五つの夜会で語られた。
三日後には、観劇の幕間でさえ噂になっていた。
最初、ヴィクトールは「少し変わった条件を出した公爵令息」と呼ばれていた。
それが、やがて「指輪代を返せの方」になり。
さらに次の日には「ケチな某氏」と呼ばれ。
一週間後には、誰が言い始めたのか、すっかりこう定着していた。
指輪卿。
もちろん、本人は知らない。
ヴィクトールはその間も、武勇伝のように、懲りずに自分の正しさを証明しようと喋り続けていた。
「違うんだ。僕は金に困っているわけじゃない。指輪くらい買える」
「まあ、ではなぜ返金を?」
「責任を取ってもらうためです。女性というのは、きちんと条件を示さないと甘えるものですから」
「まあ」
「結婚式費用だって、僕が出せないわけではない。けれど、ルシア嬢が公爵家に迎え入れてもらう立場である以上、誠意を示すべきでしょう?」
「まあ」
「生活費は折半にしようと言っただけです。屋敷の維持費や使用人の給金も含めて。夫婦なのだから当然では?」
「まあ」
貴婦人たちの「まあ」は、もはや返事ではなかった。
それは、呆れと侮蔑と笑いを、上品な一音に押し込めた社交界の技術である。
けれどヴィクトールには、それがわからない。
彼は自分が理解されていると思い込み、ますます得意げに語った。
その結果、ラングレー公爵家の評判は坂道を転げ落ちるように下がっていった。
いや、正確にはラングレー公爵家そのものではない。
ラングレー公爵夫妻は息子の暴走に青ざめ、各方面に詫び状を送っている。
次男セドリックが、父の命を受けて関係各所への火消しに走っていることも、一部の貴族たちは知っていた。
だからこそ、余計にこう言われるようになった。
「ラングレー家はお気の毒ですわね」
「ええ。まともな弟君がいらっしゃるのが、せめてもの救いですわ」
「長男だからといって、家を継ぐにふさわしいとは限りませんもの」
そして、そうした噂は、ベルナール侯爵家にも届いたのを、ルシアは自室で、侍女が運んできた手紙の山を眺めていた。
破談から十日も経たないうちに、彼女のもとには新たな縁談が次々と舞い込んでいた。
伯爵家。
侯爵家。
王家に近い名門。
そして、公爵家からも。
「お嬢様、今日だけで七通です」
侍女が少し呆れたように言った。
「昨日より二通増えたわね」
ルシアは淡々と返す。
「皆様、現金でいらっしゃいます」
「そうかしら」
「そうです。ヴィクトール様との婚約がなくなった途端に、これですもの」
侍女はぷくりと頬を膨らませた。
「ですが、わたくしは嬉しゅうございます。あんな方にお嬢様が嫁がずに済んで」
「言い過ぎですわ」
「失礼いたしました」
口ではそう言いつつ、侍女の顔には少しも反省が見えない。
ルシアは小さく笑い、手紙の山に視線を戻した。
どの手紙も、丁寧ではある。
けれど、どこか似ていた。
あのような無礼な男を拒んだあなたの気骨に感銘を受けた。
あなたのような聡明な方を、ぜひ我が家に迎えたい。
今こそ、よりよい縁を結ぶべきだ。
言葉は美しい。
けれど、その奥には「評判の上がった令嬢を今のうちに」という打算も見える。
貴族の結婚に打算があるのは当然だ。
ルシアも、それを否定するほど夢見がちな娘ではない。
それでも、胸が動かない。
その時、侍女が一通の封筒を手に取った。
「お嬢様、こちらはハイドリック公爵家からです」
ルシアの指先が、ほんの少しだけ止まった。
ハイドリック公爵家。
ラングレー公爵家と並ぶ、王都でも古い名門のひとつ。
近年では王太子殿下との結びつきも深く、社交界ではラングレー家の好敵手とも噂されている。
そして、その次男エドガルド・ハイドリックは、王立学院時代からルシアもよく知る人物だった。
公爵家の次男ではあるが、兄は母方の伯爵家へ入ることが決まっている。そのため、現在ハイドリック公爵家の正式な継嗣はエドガルドだった。
穏やかで、誠実で、無理に場の中心へ出ようとはしない。
けれど必要な時には、誰よりも静かに正しい言葉を選ぶ人。
ルシアは封を切った。
中の便箋には、美しい筆跡で短い文章が記されていた。
『あなたがあなた自身を軽んじなかったことを、心から尊敬いたします』
その一文を読んだ瞬間、ルシアは息を止めた。
縁談の申し込みではない。
美辞麗句でもない。
こちらの傷口に、土足で踏み込むような慰めでもない。
ただ、彼女の選択を尊重する言葉。
ルシアは便箋の端を、そっと指で撫でた。
「お父様にお伝えして。ハイドリック公爵家からのお手紙には、わたくし自身でお返事を書きます、と」
「承知いたしました」
侍女はにこりと笑い、深く一礼した。
それから三日後。
エドガルド・ハイドリックは、正式にベルナール侯爵家を訪れた。
彼は父であるハイドリック公爵の名代ではなく、自分自身の意思で来たのだという。
応接室には、ベルナール侯爵夫妻、ルシア、そして祖父であるクレメンス侯爵が同席していた。
老侯爵はエドガルドをじっと見ていた。
「ハイドリックの若君。今日は何用かな」
「ルシア嬢に、正式に求婚のお許しをいただきに参りました」
エドガルドはまっすぐに答えた。
その声に、迷いはない。
ルシアは静かに彼を見つめる。
金髪に青い瞳。
柔らかな物腰。
けれど背筋は伸び、クレメンス侯爵の視線にも怯まない。
「ずいぶん早いな」
クレメンス侯爵が言った。
「破談から、まだ半月も経っておらぬ」
「承知しております」
「では、なぜ急ぐ」
「急いでいるのではございません。今、申し上げなければ、私の言葉もまた、彼女の評判が上がったことに便乗したものと見なされると思ったからです」
その返答に、クレメンス侯爵の眉がわずかに上がった。
「私は王立学院の頃から、ルシア嬢を尊敬しておりました。誰かの機嫌を取るためではなく、必要な時に必要なことを言える方だと存じております」
ルシアの胸が、静かに揺れた。
「ですから、今回の件で彼女の価値に気づいたわけではありません。以前から知っていた価値を、ようやく私が口にする機会を得ただけです」
応接室が静かになった。
ベルナール侯爵夫人が、そっと扇を閉じる。
「では、指輪は?」
クレメンス侯爵が唐突に問うた。
「指輪でございますか」
「うむ。今、王都では指輪の話題でもちきりだからな」
その言い方に、ベルナール侯爵が小さく咳払いをした。
笑いを堪えたらしい。
エドガルドは一瞬だけ目を瞬かせ、それから真面目な顔で頷いた。
「指輪は、相手を縛るためのものではございません」
ルシアは、思わず彼を見た。
エドガルドの視線が、まっすぐにルシアへ向けられる。
「私がルシア嬢に指輪を贈るなら、それは所有の証ではなく、敬意と約束の証です。外したくなった時は外していただいて構いません。重ければ軽いものに替えますし、好みに合わなければ作り直します」
「……随分と、柔軟でいらっしゃいますのね」
ルシアが言うと、エドガルドは穏やかに微笑んだ。
「私があなたの指に嵌めたいと、願う立場なのですから」
その言葉に、ルシアは返事を忘れた。
クレメンス侯爵が、低く笑う。
「よろしい。では、品物を見せてもらおうか」
エドガルドは控えていた従者に目配せすると、小さな箱が恭しく運ばれてくる。
箱そのものは上品だった。
深い青の革張りで、金の装飾も控えめ。
しかし、蓋が開いた瞬間。
ルシアは思わず瞬きをした。
中に収められていたのは、澄んだ青い宝石を中心に据えた婚約指輪だった。
美しい。
それは確かに美しい。見たこともないほどに。
けれど。
「……少々、大きすぎませんこと?」
ルシアの率直な感想に、ベルナール侯爵夫人が扇で口元を隠した。
クレメンス侯爵は遠慮なく笑った。
エドガルドは、ほんのわずかに耳を赤くした。
「申し訳ありません。君を縛るためではなく、私が君を大切にしたい気持ちを込めたら、宝石商が張り切りすぎたらしい」
「宝石商が、ですか?」
「私も、少しだけ張り切りました」
その正直な言葉に、ルシアはつい笑ってしまった。
ヴィクトールの指輪は、彼女を縛るためのものだった。
返金だの売却だの、約束を破った罰だの、彼の自尊心を守るための道具でしかなかった。
けれど、この指輪は違う。
少し大きすぎる。
少し張り切りすぎている。
それでも、彼女を縛るためではなく、彼女を大切にしたいと願う人の手から差し出されている。
「エドガルド様」
「はい」
「その指輪、少し重そうですわ」
「すぐに作り直させます」
「いいえ」
ルシアは微笑にながら、静かに手を差し出した。
「まずは、嵌めてみてもよろしいかしら」
「もちろんです」
エドガルドの瞳が、はっきりと揺れた。
彼は箱から指輪を取り出し、ルシアの左手を取った。
その仕草は丁寧で、慎重で、触れる前に必ず彼女の表情を確かめながら。
指輪が薬指に嵌まる。
確かに、少し重い。
けれどルシアは、その重みを嫌だとは思わなかった。
「いかがですか」
「そうですわね」
ルシアは青い宝石を眺めた。
陽の光を受けて、指輪は静かに輝いている。
「少しだけ、大きすぎます」
「やはり作り直しを」
「ですが、嫌いではありません」
ルシアは顔を上げると、エドガルドの表情がふっとほどけた。
その笑顔を見た瞬間、ルシアはなぜか胸の奥が温かくなった。
クレメンス侯爵が満足げに頷く。
「よかろう。ベルナール家として、この縁談を前向きに進めることを認める」
「ありがとうございます」
その日、ベルナール侯爵家とハイドリック公爵家の間で、新たな婚約の話が動き始めた。
ただし、その報せはまだ社交界には出されていない。
もちろん、ヴィクトールも知らない。
彼はその頃、別の茶会でまたこう語っていた。
「いや、ルシア嬢もそのうち後悔すると思うんだ。僕ほど条件を明確にできる男は、なかなかいないからね」
その言葉に、周囲の貴婦人たちは微笑んだ。
扇の陰で、誰かが小さく囁く。
「まあ。指輪卿がまた何かおっしゃっているわ」
そしてその呼び名は、ヴィクトール本人の知らぬところで、ますます王都中に広がっていった。
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