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第一話 婚約指輪を二十四時間外すなと言われました

「お前みたいな芋女!こちらから願い下げだ!」


それが婚約破棄の言葉だった。


社交界随一の美貌を誇る侯爵令嬢ルシア・ベルナールは、その日、ラングレー公爵家の長男ヴィクトールとの婚約を発表されるはずだった。


ベルナール侯爵家のサロンには、両家の親族が集まっている。


白百合と薔薇で飾られた室内。

磨き上げられた銀器。

香り高い紅茶。

窓辺には初夏の柔らかな光が差し込み、誰もが穏やかな祝福の場になると信じていた。


少なくとも、ヴィクトール・ラングレーが一枚の羊皮紙を取り出すまでは。


「ルシア嬢」


ヴィクトールは、まだ婚約の誓約書に署名する前だというのに、すでに夫のような顔をしていた。


「君が僕の妻になるにあたって、いくつか確認しておきたい条件がある」


ルシアは扇を膝の上に置いたまま、静かに微笑んだ。


「条件、でございますか?」

「ああ。結婚というのは感情だけでは成り立たない。最初に互いの責任を明確にしておくことが、賢い夫婦の第一歩だと思うんだ」


ヴィクトールは満足げに頷く。


ルシアの父であるベルナール侯爵は、ほんのわずかに眉を動かした。

母は扇で口元を隠す。

対面に座るラングレー公爵夫妻も、息子の唐突な言葉に目を瞬かせていた。


どうやら、この場にいる全員が、今この瞬間に初めてその羊皮紙の存在を知ったらしい。


ヴィクトールだけが、周りの反応に気づいていない。


「まず一つ目。婚約指輪は、君が欲しがっているんだから、毎日、二十四時間外さずにつけること」

「……二十四時間?」

「そうだ。入浴時も、就寝時も、もちろんだ。僕との婚約を誇りに思っているなら、外す理由などないだろう?」


サロンの空気が、少しだけ冷えた。

けれどヴィクトールは、優雅な仕草で羊皮紙に視線を落とす。


「二つ目。必要だと言って僕に指輪を買わせるんだ。指輪をつけていない日が一日でもあれば、君は僕に嘘をついたことになる。その場合、君は僕に謝罪し、指輪代を全額返金した上で、指輪は即刻売却する。なお、売却金は僕のものとする」


沈黙が落ちた。

使用人が紅茶を注ぐ手を止める。

ルシアの母が、扇の陰で小さく息を呑んだ。

ラングレー公爵夫人の顔からも、血の気が引いていく。


「ヴィクトール」


それまで黙っていたラングレー公爵が、低い声で息子の名を呼んだ。

しかしヴィクトールは、父の声音に含まれた警告に気づかなかった。


「父上、ご安心ください。これは私が自ら考えたものです。両家に余計な揉め事を残さないために、最初から書面にしておいた方がよいと判断しました」

「……自ら?」


公爵夫人の声が震えた。


「ええ、母上。母上にも父上にも、余計な心配をかけたくありませんでしたから」


その言葉に、ラングレー公爵夫妻の表情がいよいよ固まった。


ルシアは静かに紅茶を口に運んだ。

香りは良い。

だが、この場の空気は最悪だった。


ヴィクトールはさらに続ける。


「三つ目。結婚式と披露宴の費用は、花嫁側で全額負担すること」

「全額、でございますか?」


ルシアが穏やかに問う。


「当然だろう。君は公爵家に嫁ぐんだ。こちらの家名に迎え入れてもらう以上、誠意は示すべきだ」

「なるほど」

「もちろん、式は王都の大聖堂を使う。招待客も多くなる。装花、楽団、料理、警備、馬車、招待客の宿泊費も必要だ。公爵家の婚礼なのだから、すべて一流で頼むよ」


ベルナール侯爵のこめかみが、ぴくりと動いた。


「四つ目。君の婚礼衣装は自分で用意すること。ただし、ラングレー公爵家の婚礼にふさわしい最高級のものに限る。安物を着られては、公爵家の威信に関わるからね」

「まあ」

「それから、僕の礼装も式全体の釣り合いを考えて、君の実家で用意してほしい。花嫁が花婿に恥をかかせないのは当然の務めだろう?」


そこで、隣に座っていた青年が口を開いた。


「兄上」


ヴィクトールの弟、セドリック・ラングレー。

まだ二十歳になったばかりの次男だが、落ち着いた物腰と確かな判断力で、公爵家の家臣たちからの信頼も厚いと聞く。

彼は青ざめた顔で、兄を見ていた。


「さすがにそれは、ラングレー公爵家の正式な条件ではございませんよね」

「何を言う、セドリック」


ヴィクトールは鼻で笑った。


「お前はまだ若いからわからないのだ。結婚とは、最初に条件を明確にしておくことが大切なんだ」

「条件を明確にすることと、相手の実家にこちらの費用を押しつけることは違います」

「押しつける?人聞きの悪いことを言うな。これは責任の話だ」

「責任をお取りになるべきなのは、兄上の方では?」


セドリックの言葉に、サロン内の空気がさらに重くなった。

ヴィクトールの眉が吊り上がる。


「黙れ、セドリック。次男のお前には、公爵家を背負う覚悟などわからない」


セドリックは唇を結んだ。

その横で、ラングレー公爵が目を閉じる。

公爵夫人は真っ白な顔で、息子たちを見比べていた。

それでもヴィクトールは止まらない。


「五つ目。結婚後の生活費は夫婦で折半とする。もっとも、君はラングレー公爵家に嫁ぐのだから、屋敷の維持費、使用人の給金、馬車の管理費、夜会費用、領地から届く贈答品の返礼費も当然含む」

「つまり、公爵家の運営費も半分負担せよ、ということですか?」


ルシアが確認する。


「妻になるのだから当然だろう」

「わたくし個人の衣装代や侍女の給金は?」

「それは君の費用だから、君が負担するに決まっている」

「公爵家の夜会で着る衣装でも?」

「公爵家の妻として人前に出る以上、最高級の装いをすること。ただし、費用は君持ちだ」


ルシアは小さく頷いた。


「わかりやすいですわ」

「だろう?理解が早くて助かるよ。僕は話し合いのできる男だからね」


ヴィクトールは誇らしげに笑った。

ルシアは微笑みを崩さない。


「続きはございますか?」

「もちろんだ」


羊皮紙は、まだ半分以上残っていた。


「六つ目。実家への帰省は月に一度まで。費用は君持ち。ただし、ラングレー公爵家の名を使って外出する場合は、必ず僕の許可を取ること」

「友人との茶会は?」

「事前申請制だ。変な噂を立てられては困るからね」

「わたくしの交友関係も、ヴィクトール様が管理なさるのですね」

「管理ではない。夫としての責任だ」

「まあ」


ルシアは、ほんの少しだけ首を傾げた。


「七つ目。子が生まれた場合、出産にかかる費用、乳母の手配、子供部屋の支度金は君の実家が負担すること」


ついに、ベルナール侯爵夫人が扇を閉じた。

乾いた音がサロンに響く。


「ヴィクトール様」


その声は、先ほどまでの穏やかな貴婦人のものではなかった。


「今のお言葉、本気でいらっしゃいますの?」

「もちろんです、侯爵夫人。母子ともにベルナールの血を引くのですから、そちらにも責任を取っていただかないと」


責任。

その言葉が、サロンに重く落ちた。

セドリックがもう一度口を開こうとしたが、それより早く、ルシアが立ち上がった。


ゆっくりと。

優雅に。

少しも取り乱すことなく。


「ヴィクトール様」

「なんだい?」

「確認させてくださいませ」

「もちろん。僕は話し合いを拒む男ではない。建設的な話し合いならね」


ルシアは、にこりと微笑んだ。


「わたくしは、ラングレー公爵家に嫁ぐ花嫁として求められているのでしょうか」

「ああ」

「それとも、公爵家の維持費を支払う共同出資者として求められているのでしょうか」


ヴィクトールはきょとんとした。


「何を言っているんだい。妻になるなら、どちらも当然だろう?」


その瞬間、ルシアの微笑みが深くなった。

社交界随一の美貌を誇る令嬢にふさわしい、完璧に美しい笑みだった。

ただし、その瞳には、凍るような冷たさが宿っている。


「では、この婚約は破棄させていただきます」


誰も、すぐには言葉を発しなかった。

サロンの時計の音だけが、やけに大きく響く。

最初に声を上げたのは、ヴィクトールだった。


「な……何を言っているんだ?」

「婚約はお受けできません」

「君は、自分が何を断ったのかわかっているのか?僕はラングレー公爵家の長男だぞ!」

「存じております」

「後で泣きついて縋っても遅いからな!もう二度とラングレー公爵家の敷居を跨げると思うなよ!」


ルシアは、深く一礼した。


「承知いたしました。生涯、跨がずに済むよう努めます」


その返答に、セドリックが思わず目を伏せた。

笑いを堪えたのか、あるいは兄の愚かさを嘆いたのかはわからない。


ヴィクトールは顔を真っ赤にして羊皮紙を掴むと、椅子を鳴らして立ち上がった。


「ふん!こんな我がままな女を妻にしなくて済んで、むしろよかった!お前みたいな芋女!こちらから願い下げだ!」


そう言い捨てて、彼はサロンを出ていった。

扉が大きな音を立てて閉まる。

残されたラングレー公爵夫妻は、顔面蒼白だった。

セドリックが立ち上がり、深く頭を下げる。


「ベルナール侯爵、侯爵夫人、ルシア嬢。兄の発言は、ラングレー公爵家の総意ではございません」


ラングレー公爵もまた、重い表情で立ち上がった。


「……申し開きもない。正式な謝罪は、改めてさせていただく」


ルシアは静かに頷いた。


「承知いたしました」

「ルシア」


父が娘の名を呼ぶ。

ルシアは父に向き直り、柔らかく微笑んだ。


「お父様、ご心配なく。わたくしは大丈夫です。ただ、お茶が少し冷めてしまいましたわね」


そして彼女は、冷めかけた紅茶に目を落とした。

そのあまりに落ち着いた言葉に、ベルナール侯爵夫人がようやく息を吐いた。

サロンの空気が、少しずつ戻っていく。


だが、その翌日から王都の社交界は、別の熱に浮かされることになる。

なぜならヴィクトール・ラングレーが、自分の正しさを証明するために、自らあの条件書の内容を語って回り始めたからだ。


もちろん彼は、まだ知らない。

その行為が、自分の名を社交界の笑い話に変える最初の一歩だということを。

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