↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/18

満天の星空の下で

ザク、ザク、と無機質な音を立てて泥を打つ作業の途中。

茜色に染まり始めた夕暮れの空を切り裂いて響き渡ったのは、耳を刺す凄惨な悲鳴だった。


続いて届くのは、濁った男たちの怒号。


木造の露店が力任せに叩き壊される、肉厚で重い破壊音。

そして、踏みにじられる人々が逃げ惑う惨痛な足音。


「……っ!?」


リリィの身体が、反射的に硬直する。

左手に握っていたスコップの柄から、ふっと力が抜けた。


数々の死線を潜り抜け、戦場の臭いを骨の髄まで知る元・少将としての直感が、瞬時に激しい警鐘を鳴らす。


これは単なる喧嘩でも、些細な不審者の騒ぎでもない。

刃物の匂いと掠奪の殺気——組織だった山賊の襲撃だ。


(山賊、ですか……)


額から、冷や汗がすっと伝い落ちる。


だが——その直後に胸を支配したのは、かつて持っていた英雄としての誇りなどではなかった。

冷たく、どこか冷めた自嘲的な諦観。


(……助けに行ったところで……今の私に何ができるというのです……?)


視線を、自分の右肩へと落とす。

そこにあるのは、空洞のまま外套の内に包まれた、虚しい右袖だけ。


あの日、ヘッケ平原で己の右腕を奪われ、国を守ることも、軍を勝たせることもできなかった。


不敗と称えられた姫騎士は、もうどこにもいない。

腕を失い、まともに刃すら振るえない今の自分に、一体誰を救えるというのか。

手に落ちる暗い影とともに、日没が刻一刻と近づいていた。


自分はもう軍人ではない。


国に捨てられ、仲間から見放され、逃げるようにこの最果ての地に流れ着いた、ただの『生き損ない』だ。

今の自分には、町の人々を守る義理も、命を張る理由すら存在しなかった。


(……関係ありません。私には……関係のないことです……)


胸の奥で渦巻く不快な胸騒ぎを振り払うように、リリィはスコップを冷たい土に投突き刺した。


ここも、駄目だったのだ。

誰も自分の過去を知らない、もっと遠い場所へ逃げなければ。


少女は深くフードを被り直すと、わずかな荷物をまとめるため、足早に小さな借家の中へと駆け込んだ。

部屋に入り、手荷物を手繰り寄せようとしたその時だった。


「——リンちゃん! 中にいるかい!?」


荒いノックとともに、木造の扉が勢いよく開け放たれた。


飛び込んできたのは、汗と泥に塗れ、表情を劇的に強張らせた町長だった。

いつも温厚だった老人の顔は蒼白に染まり、息を激しく切らせている。


「町長……様……?」


「よかった、無事だったか……! すぐに逃げなさい! 山賊どもが町に入り込んできた! 手当たり次第に店を襲って暴れている!」


「……え……?」


「家の裏手から山へ続く道がある! そこから逃げれば気づかれないはずだ! ほら、早く!」


町長の手には、泥のついた使い古しの鍬が固く握られている。


武術など知る由もない老人の指先は、恐怖で小刻みに震えていた。

それなのに、彼は固い眼差しを裏山へ向けたまま言い放った。


「私が……この鍬で少しでも時間を稼ぐ! 君のような若いお嬢さんを死なせるわけにはいかない! だから逃げるんだ!」


「……町長様……? あなたは……戦えるようなお体では……」


「町長だからだ!」


老人は振り返り、震える声を振り絞った。


「私はこの町の町長だ! 頼りない老いぼれだが、町民を守るのが仕事なんだよ! 君だって、この町の大切な住民なんだ!だから……逃げなさい!」


そう言って、老人は震える足で扉の外へ飛び出していこうとした。


——『国軍少将として、国民を守る』

かつて、リリィが己の胸に深く刻んでいた絶対の使命。


——『町長として、町民を守る』

目の前の老人が見せている、泥臭く、拙い意地と執念。


去っていこうとする老人の、小さく震えた背中を見つめる中。

リリィの頭の中で、冷たく凍りついていた記憶が一気に解け去っていった。


(……ああ……そうでした……)


守るべき者のために、命を懸けて前に立つ。


立場も、能力の有無も関係ない。

自分が何を背負い、何のために刃を握っていたのか。


あの日、右腕とともに泥の中に捨ててきたと思っていた『誇り』が、老人の言葉によって鮮烈に蘇っていく。


自分は何から逃げようとしていたのか。

傷つくのが怖くて、嘲笑われるのが怖くて、心を閉ざしていた自分が酷く情けなく、そして醜く思えた。


そして今、決別の時がきた。


「……待ってください、町長様」


リリィの声は、先ほどまでの弱々しさが嘘のように、どこまでも静かで澄んでいた。

町長が足を止めて振り返る。


リリィはゆっくりと、部屋の薄暗い隅へと歩み寄った。


そこに置かれていたのは、王都を出て以来、一度も紐を解くことのなかった布包み。

あの日、副官ライラが泥の中から拾い上げ、密かに持たせてくれた一振りの武器。


左手で、静かに布を解く。

現れたのは、白銀の護拳が美しく冷たく煌めく、繊細な一振りのレイピアだった。


ひんやりとした、鞘の触感。

伝わる冷たさが、凍りついていた過去を鮮烈に呼び覚ます。


リリィは静かに瞳を閉じ、愛刀の柄へとそっと額を押し当てた。


(……また……私と一緒に、戦ってくれますか……?)


答えを確かめるように、指先へ強く力を込める。


次に瞼を開いたとき——

少女の瞳からは濁った虚無が完全に削ぎ落とされ、かつて何万もの兵を従えた『不敗の姫騎士』の静謐な輝きが宿っていた。


「町長様。危険ですから、貴方はここにいてください」


「な、何を……君は片腕で——」 


「大丈夫です」


リリィは可憐に、けれど揺るぎない確信を秘めた微笑みを浮かべた。 


「私は……こう見えても、少しだけ剣が得意なのです」


黒い外套を羽織り直し、左手にレイピアを抱え、少女は夕闇迫る外へと風のように駆け出していった。


―――

――

―



ライツの町の中央広場は、すっかり夜の帳が下り始め、凄惨な惨状と化していた。


火を放たれた露店から赤い煙が立ち上り、あちこちで山賊たちの持つ松明の炎が揺れている。

広場の一角で、買い出しの際にリリィに声をかけてくれた八百屋の店主が、足をもつれさせて石畳の上に倒れ込んでいた。


その頭上には、松明の火に照らされた血塗れの大剣を振り上げる大柄な男が迫っている。

男の腕が店主へと叩き下ろされた、その瞬間。


——キンッ!!


闇を断ち切る鋭い高音が響き、夜の静寂に激しい火花が飛び散った。

大剣の軌道が大きく逸れ、男が衝撃で踏みとどまる。


店主が恐る恐る目を開けると、そこにいたのは——火光を背に自分の前に静かに立ち塞がる、小柄な黒フードの影だった。


左手一本で大剣の一撃を完全に受け流した、その手には。

白銀に怪しく輝く、一振りの細身の剣。


「り……リンさん……なのか?」


店主が絶句する。


周囲の建物の陰から息を殺して覗いていた町民たちの間に、動揺が駆け巡った。

気味の悪い子だと敬遠していた、あの片腕の少女が——なぜ山賊の前に立っているのか。


男は痺れた腕を抑え、凶暴な視線でリリィを睨みつけた。


「なんだァ……てめェは……」


リリィは静かに間合いを測り、フードの奥から冷徹な声を落とす。


「……ここから、立ち去りなさい」


松明の爆ぜる音すら遮るほど、凛とした気高さ。


「今すぐに武器を捨てて出て行くのであれば、追いはしません。ですが……これ以上この町の人々を傷つけるというのなら、容赦は致しません」


「……生意気な女だ」


男は返答の代わりに唾を吐き、全重みを乗せて横一文字に大剣を振るった。

暗闇を裂いて、重い鉄の塊が迫る。


だが、リリィの眼には、その軌道が恐ろしいほど緩やかに映っていた。


舞うように身を滑らせ、紙一重の踏み込みで大剣をかわす。

振り抜いた勢いで男の体勢が崩れた、完全なる死角。


放たれる銀色の閃光。


「ガァ……っ!?」


リリィのレイピアが、正確無比に男の右太ももを穿った。

男は大剣を取りこぼし、声にならない絶叫を上げて石畳へ崩れ落ちる。


(……動けます……!)


リリィは手元の感触を確かめた。


消えてしまいたいという虚無を抱えながらも、黙々と重い鍬を振り、土を耕し続けてきた一ヶ月。

あの泥臭い日々の繰り返しが、左手にレイピアの鋭い刺突に耐えうる確かな筋力をもたらしていた。


だが、息つく間もなく、殺気が跳ね上がる。

異変を察した残りの山賊たち十数人が、武器を構えて一斉にリリィを取り囲んだ。


かつての自分であれば、この程度の数など瞬く間に片付けられただろう。

しかし、今の身体には右腕がない。

重心は不自然であり、右側の死角はあまりにも大きい。長期戦になれば体力の消耗も速い。


(……戦場にいた頃よりも……今の私の方が、ずっと死に近い場所に立っています……)


額を伝う、冷たい汗。

激しくなろうとする呼吸を、静かに制御する。

だが、恐怖はなかった。


(……本当は、あのヘッケ平原で死ぬはずだった命。今の私の人生は……ただの『余白』)


本当ならあの日、果てていたはずの命だ。

ならば、その『余白』をどう使うかなど、はじめから決まっている。


自分を静かに受け入れてくれた、町長、そしてこの町の人々を守るために使う。


胸の奥から湧き上がる、熱い鼓動。


リリィは残された左手でレイピアを握り直し、深く半身に構えた。

頃場のない殺気が、夜の闇の中で一気に弾ける。


三人の山賊が、同時に間合いを詰める。

上段からの振り下ろし、足元を払う薙ぎ、そして右の死角を突く刺突。


リリィは冷徹に、交差する刃の隙間を見極めた。


一閃。

踏み込んできた一人目の膝関節を正確に穿つ。


二閃。

振るわれた斧の柄を滑らせ、その隙に足首を深く突く。


三閃。

右側の死角から迫る男に対し、左足を軸にして最小限の円を描いて旋回。すれ違いざまに太ももの裏を切り裂く。


「ぐおッ!?」


一瞬のうちに、三人が血を流して石畳へ倒れ伏した。


いずれも命を奪う一撃ではない。

だが、完璧な精度で戦闘能力だけを削ぎ落とす神技。


広場から、一切の雑音が消え去った。

町人たちは息を止め、目の前で繰り広げられるあまりにも凄絶な光景に、声すら失っていた。


いつも黒いフードを深く被り、寂しそうに街の隅を歩いていた片腕の少女。

話しかけても身を強張らせ、すべてを拒絶するように視線を落としていた片腕の少女。


——いま、その華奢な身体が、自分たちを守るために圧倒的な刃を振るっている。


(負けるな……!)


(負けるな、リンさん……!)


誰もが心の中で、喉が焼き切れるほどその名を叫んでいた。

溢れ出しそうな祈りと衝撃をすべて拳に込め、その勇姿を見つめ続けている。



山賊たちの奥から、身の丈ほどもある巨大な両手斧を携えた頭目であろう男が歩み出てくる。

無言のまま凶悪な威圧感を放ち、夜の地を蹴って一気に間合いを詰めてきた。


――ここが、正念場。


呼気が身体の奥底から熱く噴き出していく。

だがそれと同時に、リリィの精神は恐ろしいほどに澄み渡り、世界が静止したかのような感覚に包まれる。


気炎万丈、明鏡止水。

身体に燃え上がる熱い闘志と、氷のように冷たく澄み切った心境が、一つに昇華する。


頭目が全重量を乗せ、巨斧を天から振り下ろす。

だが、リリィは退かなかった。


ただ一歩、死線の中へと前へ踏み込む。

振るわれた斧の刃が、リリィの外套の肩口を僅かにかすめ、布地を切り裂く。


その一瞬——心技体が完全に一致した、極限の一閃が解き放たれた。


「...がッ......!?」


すれ違う二人。

リリィはそのまま頭目の背後へと突き抜け、レイピアを静かに引き抜いた。



一瞬の静寂。


頭目は目を見開いたまま、その場に固まっていた。

やがて手から巨斧が滑り落ち、重い音を立てて巨体が石畳へ倒れ伏す。


脚の急所を的確に穿たれ、自分で立つことが出来ずにいた。

這うようにのたうち回る頭目。


リリィはゆっくりと振り返り、残された数人の山賊たちへ冷ややかな視線を向けた。


「二度とこの町を襲わないと誓うのであれば、見逃します」


「――ですがまだやるというのであれば、お相手いたします」


凛とした声を放ち、山賊たちを睨む。

血の滲むレイピアの先端が、静かに彼らを指し示す。


「ひ、ひぃっ……!」


頭目を一撃で沈められた残り数人の山賊たちは、言葉を失ってガタガタと膝を震わせた。

返答の代わりに、彼らは倒れた仲間や頭目をなりふり構わず抱え上げると、蜘蛛の子を散らすように一目散に夜の街道へと逃げ出していった。


―――

――

―



黒煙と騒乱が去り、静寂が再びライツの広場を包み込んでいく。

燃え尽きた松明の火が消えかける中、リリィはゆっくりと構えを解き、天を見上げた。


いつの間にか立ち込めていた暗雲が綺麗に晴れ上がり——。

そこには、視界を埋め尽くすほどの、息を呑むような『満天の星空』が広がっていた。


漆黒の夜空に瞬く、無数の銀色の星々。

静寂に包まれた最果ての街を、神聖で優しい光が優しく照らし出していた。


肩を大きく上下させ、荒い呼吸を整える。

全身の筋肉が激しく軋み、失われた右肩が灼熱のように痛んでいた。


だが、その瞳に映る星空は、今まで見たどんな景色よりも美しかった。


リリィはゆっくりと、周囲の町民たちへと視線を向ける。

物陰からおずおずと出てきた町人たちが言葉を失ったまま、溢れんばかりの星光を背に受けるリリィを見つめていた。


リリィは黒いフードの奥から、かすれた声で静かに問いかける。


「……みなさん……ご無事……でしたか……?」


その言葉を最後に、リリィの身体から完全に糸が切れた。


視界が、星空とともに大きく揺らぐ。

レイピアが手から落ち、少女の華奢な身体は、冷たい石畳の上へと倒れ込んでいった。


(……はて……。本当に……綺麗な星空ですね……)


急速に遠ざかっていく意識の中で、そんな穏やかな独白が頭を掠めた。

自分へなりふり構わず駆け寄ってくる町民たちの、温かな歓声と騒がしい足音を聞きながら。


少女はまだ、自分がこの最果ての町の英雄になったことなど知らずに、星空の下で深い眠りへと落ちていくのだった。


読んでいただき、ありがとうございます。

感想、ブクマ、評価、レビューいただけると励みになりますm(_ _)m

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。