少女は心を開かない
最果ての地『ライツ』に辿り着き、町外れの小さな家で暮らし始めてから、一ヶ月の月日が流れていた。
その家は、町の賑わいから遠く離れた山裾の途中にぽつりと佇んでいる。
裏手には深緑の山々が迫り、風が吹くたびにさわさわと葉が擦れ合う音が響く、静寂な場所。
日当たりはお世辞にも良いとは言えず、長いこと空き家だったためか、敷地を取り囲む庭は雑草が伸び放題になり、荒れ果てていた。
だが、今のリリィ——『リン』にとっては、この世界から隔絶された寂しい環境こそが、何よりも望ましいものだった。
ザク、と硬い土を刃が穿つ重い音が庭に響く。
リリィは汗に濡れた短い前髪を揺らし、泥に汚れた左手で深く小さく息を吐き出した。
彼女が握りしめているのは、町長から譲り受けた古びた一本の鍬だった。
ドイス国軍から与えられた手切れ金——あの重苦しい革袋に詰まった特別功労金は、この田舎町で一生遊んで暮らしてもなお余りあるほどの巨額だった。
だから、生きるために働く必要などどこにもない。お金を稼ぐための苦労など、何一つしなくてよかったのだ。
それでも、リリィは毎朝、朝日が昇ると同時に庭へ出た。
荒れ果てた土を耕し、根強く張った雑草を掘り起こす。
それは、失われた右腕の代わりに、残された左手を少しでも自由に動かせるようにするための、血の滲むような鍛錬だった。
身体を動かし、汗を流し、土を掘り返す。
そうして黙々と作業を続けている最中——ふと、底知れない『虚無』が胸の奥底から込み上げてくる瞬間があった。
(……私は……どうしてこんなことをしているのでしょう……?)
不意に、手元が止まる。
左手一本で重い鍬を握りしめたまま、泥だらけになった己の爪先をただじっと見つめる。
右手はもう、存在しない。
誇りも、地位も、仲間も、命を預け合った副官も、すべて失った。
剣を握り、国を守るために戦うという生き甲斐すら奪われたのだ。
今の自分は、誰からも必要とされていない、ただの『生き損ない』でしかない。
いっそ、このまま消えてなくなってしまいたい。
あのヘッケ平原の惨劇の中、右腕だけでなく、この命ごと切り捨てられていればよかったのだ。
こんな遠い辺境の地で惨めに生き長らえるくらいなら、冷たい泥の中で死んでいればよかったのに。
本気でそう思っているはずなのに。
消えてしまいたいと心から願っているはずなのに——どうして自分は、毎朝こうして必死になって左手を動かし、身体を鍛え直すような悪あがきをしているのだろうか。
また剣を振るいたいわけでもない。
誰かに認めてほしいわけでもない。
右腕が戻るわけでも、何かが変わるわけでもないのに。
(……はて……可笑しいですね。消えてしまいたいのに……生きるための足掻きをしているなんて……)
長年の厳格な鍛錬が身体に染み付いているせいなのか。
それとも、死にきれなかった己の浅ましい生存本能なのか。
自分でも、自分の心がわからない。
矛盾に満ちた己の行動に深くて暗い虚無感が押し寄せ、胸が苦しく締め付けられる。
思い詰めた思考を振り払うように、リリィは再び左手に力を込め、冷たい土へと鍬を振り下ろした。
答えなど出ない。出せるはずもない。
ただ無心で土を穿ち、身体を叩きつけることでしか、心の中の激しい虚無と絶望をごまかす術を彼女は知らなかった。
一日中、誰とも口を利かずに過ごす日など珍しくもなかった。
山から吹き下ろす冷たい風の音を聞き、陽が沈めば木造の静かな家の中で干し肉をかじる。
世界に自分ひとりしか存在しないのではないかと錯覚するほどの静寂が、傷ついたリリィの心をかろうじて繋ぎ止めていた。
町の中へと足を踏み入れるのは、せいぜい週に一度程度だった。
目的はただひとつ。生きていくために最低限必要な食料と、日用品を買いそろえるためだけに。
できる限り人と顔を合わせたくないリリィは、一回の買い出しで一週間分の食料をすべて買い込むようにしていた。
干し肉の束、保存の利く根菜類、固く焼かれた大型のパン、塩や油の小瓶。
それらを大きな布袋へ詰め込み、人目の少ない時間帯を見計らって持ち帰る。
だが、今のリリィが一週間分として抱えるには、その荷物はあまりにも重く、かさばるものだった。
「……う……んっ……」
ある日の買い出しの帰り道。
リリィは左手ひとつで重いパンと野菜の詰まった袋を胸元に固く抱え込み、足元をふらつかせながら坂道を上っていた。
右腕があれば、両手で挟み込むようにして容易く運べたはずの重さ。
しかし今は、左腕の筋力だけで抱え上げなければならず、布袋が滑り落ちそうになるのを必死に顎と胸で押し留めている状態だった。
膝はガクガクと震え、額からは乱れた髪を伝って汗が滴り落ちる。
そんなリリィの痛々しい姿は、通りがかる町人たちの目を嫌でも引いた。
「おいおい、大丈夫かい? お嬢ちゃん……」
通りかかった八百屋の店主が、見かねたように足を止め、手を出そうとして近づいてきた。
「見ない顔だな……片腕でそんな大荷物、大変だろう。家はどこかい? 持ってやるよ」
純粋な親切心からの言葉だった。
そこには悪意も、蔑みも含まれてはいない。
しかし——。
「っ……!」
人影が自分に近づいてきた瞬間、リリィの身体は氷のように強張り、全身の毛が逆立つような強い悪寒が襲いかかった。
視界が激しく歪む。
目の前の八百屋の店主の顔が、あの日自分を冷ややかに見下ろした軍の文官の顔に。
冷酷に立ち去った士官たちの顔に、重なって見えたのだ。
(……怖い……見ないで……私を……そんな目で見ないでください……!)
胸の奥で、悲鳴のような拒絶が吹き荒れる。
また傷つけられるのではないか。
右腕がないことを嘲笑われるのではないか。
かつて『不敗の姫騎士』と呼ばれながら、国を守れず敗れ去った『役立たずの戦犯』だと知られれば、この親切な瞳も一瞬で憎悪と蔑みに変わるのではないか。
人の瞳が、どうしても恐ろしかった。
「……け……結構……ですっ……」
掠れた甲高い声で親切を遮ると、リリィは弾かれたように後ずさりした。
「え……お、おい?」
「関わらないで……ください……自分で……運べますから……」
怯えた目で見つめ返し、ペコリと頭を一度だけ深々と下げると、リリィは逃げるように足早にその場を去った。
重い袋を左手で必死に抱え直し、何度も転びそうになりながら、振り返ることもなく町外れの山裾を目指して坂道を駆け上がっていく。
背後から「なんだあの子……」「気味が悪いわね」というヒソヒソ声が聞こえた気がして、リリィは強く唇をかみ締めた。
必要以上に人に関わってはいけない。
自分は国に捨てられた人間なのだ。
用済みとなり、価値を失った自分に向けられた、あの冷酷な眼差し。
誰も信じてはいけないし、誰の懐にも飛び込んではいけない。
関わりを持たなければ、これ以上絶望することもないのだから。
そうして、頑なに心を閉ざし続ける少女の元へやってくる者は、一人しかいなかった。
「やあ、リンちゃん。調子はどうだい?」
数日に一度、木造の借家の外から温かい声をかけてくるのは、この町の町長だけだった。
町長は、リリィが拒絶の壁を張り巡らせていることを察しているのか、決して無理に部屋の中に入ろうとはしなかった。
ただ敷地の手前に腰を下ろし、他愛のない世間話や、町の様子を短く話してくれるだけだった。
「庭、綺麗に耕しているねぇ。野菜でも植えるのかい?」
「……はい……その……鍛錬のついでですので……」
「そうかそうか。何か困ったことがあれば、いつでも役場に来なさい。君はこの町の大切な住民なんだからね」
そう言って、日持ちする自家製の干し肉や、傷の少ない鮮やかなリンゴなどを置くと、町長は深追いすることなく爽やかに去っていくのだった。
リリィにとって、その適度な距離感とさりげない優しさだけが、唯一恐怖を感じずにいられる救いだった。
——そんな、静かで寂しい拒絶の日々が、どこまでも続いていくのだと思っていた。
季節の風が微かに冷たさを増した、ある日の午後のことだった。
リリィはいつものように、深くフードを被り、庭で黙々と鍬を振るっていた。
荒れ地だった庭も、一ヶ月の努力の甲斐あって、今ではすっかり柔らかい黒土が広がる小さな畑へと姿を変えつつあった。
ザク、ザク、と土を掘り返す無機質な音が庭に響く。
その時だった。
『——きゃあぁぁぁぁぁっっっ!!!!』
澄み切った空を切り裂くような、甲高い女の悲鳴が風に乗って聞こえてきた。
「……っ!?」
リリィの身体が反射的に跳ね起き、左手に握っていたスコップがピタリと止まる。
ただの悲鳴ではない。
悲鳴に続いて、複数の男たちの下品な怒声。
木製品が力任せに叩き壊される凄惨な破壊音。
そして、逃げ惑う人々が上げる混乱の叫び声が、遠く町の中央方角から途切れ途切れに届いてくる。
かつて数々の死線をくぐり抜け、戦場の空気を肌で知る元・少将としての勘が、瞬時に激しい警告の警鐘を鳴らした。
(……嫌な予感が……します……)
額から、冷や汗がすっと垂れ落ちる。
静かに鍬を土の中に突き立て、リリィは被っていたフードの隙間から、悲鳴の上がる町の中央へと視線を向けた。
遠く見下ろす町の街頭から、黒い煙が細く立ち上り始めているのが見えた。
平穏だった最果ての町ライツに、今まさに凶悪な嵐が吹き荒れようとしていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
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