ようこそ、ライツの町へ
ガタガタと、車体が狂おしいほど激しく軋む。
固く冷たい木製の座席から伝わる無骨な振動が、リリィの疲弊しきった身体を休まることなく揺らし続けていた。
何時間、いや、何日が経ったのだろう。
昼と夜の境界線すら失い、ただひたすら東へ向かう乗合馬車に揺られる日々。
終点に辿り着くたび、リリィは黒いフードを深く被り直しては別の馬車を探し、さらに遠く、王都から引き離されるように街道を乗り継いでいった。
だが——右腕を失い、後ろ盾も護衛も存在しない十五歳の少女のひとり旅が、無事で済むはずもなかった。
東へ向かえば向かうほど街道は荒れ果て、乗り合わせる客の質も、馬車の品格も急速に悪化していった。
王都を出て数日目。
古びた乗合馬車の隅で、泥のように眠りこけていたリリィは——胸元にまとわりつく気味の悪い違和感に、跳ね起きるように目を覚ました。
「……ッ!?」
開いた瞳に映ったのは、隣に座っていた薄汚い男の卑しい笑みだった。
男の汚れた手先が、外套の隙間から胸元へと忍び込み、幼さの残る少女の肌を不躾に弄ぼうとしていたのだ。
「へへ、大人しくしてな、お嬢ちゃん。存外、良い胸してるじゃねえか……」
「……やめてっ…やめてください……っ!」
リリィは残された左手で、狂おしいほどの力で男の手を振り払うと、逃げるように馬車の後部から飛び降りた。
ガタガタと走り去る馬車の後方へ、叩きつけられるように道端へ転がる。
冷たい泥の中に膝と肘を強く打ち、呼吸が止まるほどの痛みが走った。
泥だらけの中、姿が見なかうなるまでリリィは馬車を見ていた。
また、別の場所では——。
片腕を包帯で覆ってはいたものの、リリィが身に纏っていたのは王立騎士団の最高級の生地で作られた、上等な服だった。
それが仇となった。
身包みを剥ごうとする無法者や金目当ての男たちに目をつけられ、暗い路地裏へ追い詰められそうになったことも一度や二度ではない。
その度に、リリィは死に物狂いで逃げた。
かつてのように風を切って軽やかに駆けることはできない。
右腕という『身体の半分』の重りを失った少女の身体は極端にバランスを崩しやすく、何度も石畳や足場に足をとられて無様に転んだ。
膝を擦りむき、服を泥で濡らしながら。
残された左手で愛用のレイピアを固く抱え込み、ただ暗闇の中を走り抜けた。
行く手も知らぬ、漆黒の道。
宿をとる勇気すら失い、草むらや冷たい大木の陰に身を潜めて野宿をした夜もあった。
冷たい夜露が肌を刺し、空腹と恐怖で華奢な身を激しく震わせる。
そして——何より恐ろしいのは、右肩の根元から襲いかかる強烈な『幻肢痛』だった。
失われたはずの右腕が、今もそこにあるかのように激しく蠢き、燃える鉄を押し当てられたように疼く。
その激痛と孤独に耐えかねて、少女は一人、膝を抱えて涙すら出ない絶望の夜を幾度も明かした。
そうして——手垢と泥にまみれ、ボロボロになりながら辿り着いたのが、ドイス王国の最東端に位置する町『ライツ』であった。
他国との国境にほど近いこの周辺地域は、本来であれば王都の法も届きにくく、荒くれ者や流刑者が吹き溜まる治安の悪い地帯として知られている。
しかし——命からがら足を踏み入れたライツの町は、リリィの絶望的な予想を大きく裏切るものだった。
「……はて……?」
目深に被った黒いフードの隙間から視線を向けると、そこに広がっていたのは拍子抜けするほどのどかな風景だった。
石畳の立ち並ぶ小さな平屋からは、温かな夕飯の煙がゆったりと立ち上っている。
露店では気さくなおばさんたちが笑い合い、駆け回る子供たちの無邪気な歓声が響いていた。
どこからか吹き抜ける、穏やかで優しい風。
とても国境近くの無法地帯とは思えない、静かで温かな時間が流れていた。
泥と埃に汚れ、右袖を空洞にした不審な黒フードの少女に対し、道行く町の人々は少しばかり怪訝な顔で視線を向けてくる。
「……っ」
冷たい拒絶を恐れるように、リリィは小さくペコリと頭を下げた。
これ以上怪しまれる前に、この町での手続きを済ませなければならない。
通りがかった温和そうな老人に声をかけ、掠れた声で問いかける。
「あの……すみません。この町の……町長様のお宅は、どちらでしょうか……?」
親切な老人に教えられた通りに町の中央を抜け、こぢんまりとした木造の町長宅へと向かった。
呼び鈴を鳴らすと、奥から出てきたのは、白髪交じりの親しみやすい顔立ちをした老人——ライツの町長だった。
「やあ、何かご用かな? ほう……随分と遠くから来た旅人のようだが」
町長は黒フードで顔を覆い、身を小さく縮こまらせているリリィを不審がる風もなく、柔らかい声で応対してくれた。
リリィは胸元に左手を添え、深々と頭を下げた。
「……突飛なお願いで……大変恐縮なのですが。私を……この町に住まわせてはいただけないでしょうか……?」
消え入りそうな声で絞り出された懇願に、町長は少しばかり驚いたように目を丸くした。
そして、顎に手を当てて「ふむ」と深く唸った。
「住むこと自体は構わんよ。うちの町は『来る者は拒まず』が主義だからね。……だがね、お嬢ちゃん。あいにく今空いている家と言えば、町外れにある古い小さな借家くらいしかないんだよ。日当たりも悪くはないが、狭くてねぇ」
「……むしろ、好都合です」
リリィは即座に答えた。
町外れの静かな場所であれば、誰の目にも留まることなく、自分の失われた存在を隠して静かに生きていくことができる。
今のリリィにとって、それ以上の望みは存在しなかった。
「そうかい……ならいいんだがね。しかし……」
町長は手元の書類から視線を上げ、じっとリリィの佇まいを見つめた。
その眼差しは意地悪なものではなく、ただ純粋な気遣いと深い心配に満ちていた。
「ここは国境近くの町だからね。訳ありの男や、流れ者の旅人なら山ほど見てきたが……君のような若いお嬢さんがひとりきりで住み着くというのは、初めてでね。……それに、その右袖……その腕はどうしたんだい?」
包帯で厳重に巻かれ、だらりと空洞のまま外套の下に隠された右肩。
鋭い問いかけに、リリィの身体が微かに強張る。
『不敗の姫騎士』が右腕を討たれ、敗戦の責任を取らされて逃げ出してきた——などと、本当のことなど言えるはずもなかった。
「……以前……事故に……遭いまして……」
俯きがちに、小さな嘘を口にする。
町長はそれ以上、深く追及しようとはしなかった。
この最果ての町に流れ着く者たちが、誰もが言いたくない過去や消えない傷を抱えていることを、知っているからだ。
「そうか……苦労したんだね。よし、分かった。細かい手続きと借家の契約を済ませてしまおう」
町長は奥から一枚の書類を取り出し、手続きを進めてくれた。
「ええと、保証金と、今後の家賃、それに町への登録料を含めて……これくらいになるかね」
町長が提示した金額は、辺境の田舎町らしくごく質素で適正な額だった。
リリィは左手で、旅の間ずっと大事に抱え込んできた革袋を引き寄せた。
文官から手渡された、ドイス国軍からの手切れ金——功労金の袋だ。
袋の紐をほどき、中からきらりと光る純金貨の山を取り出す。
そして、提示された金額を遥かに上回る、ずっしりとした金貨の束をそのまま町長の机の上に置いた。
「……っ!? お、おいおいお嬢ちゃん!?」
机の上に積まれた金貨の輝きと重みに、町長は目を剥いて立ち上がった。
辺境の町では滅多に見ることのない、王都の上質な純金貨。
家賃数年分、いや下手をすれば家一軒が丸ごと買い取れてしまうほどの巨額だった。
「こんな大金、受け取れるわけないだろう! 一体どこでこんなものを……!」
「……どうぞ……受け取ってください……」
リリィは光の消えた静かな瞳で、まっすぐに町長を見つめた。
「手続きの費用も……今後の家賃も……すべてここから払わせてください。私にはその……これしか、ありませんので……」
手切れ金として与えられた金貨。
それはリリィの十五年の人生と、国家のために捧げた右腕の代償そのものだった。
こんな金に未練などない。ただ、静かな居場所を買うための道具として使えれば、それでよかったのだ。
少女の冷たく切ない瞳に気圧されたように、町長はゴクリと唾を呑み込んだ。
「……分かった。責任を持って預かり、手続きと家の維持に使わせてもらうよ。……お代は確かにいただいた」
鍵を受け取り、契約を終えたリリィは、小さくお辞儀をして深く被ったフードを整えた。
ようやく、長い過酷な旅が終わったのだ。
誰も自分を知らない、この静かな最果ての町で、自分だけの殻に閉じこもって生きていくことができる。
静かに部屋の木製扉へ手をかけ、外へ出ようとしたその時だった。
「——あぁ、そういえば」
背後から、町長の朗らかな声が追いかけてきた。
「君の名前を、まだ聞いていなかったね。なんとお呼びすればいいかい?」
ドアノブを握るリリィの左手が、ぴたりと止まる。
リリィ・ドイス。
ドイス国軍最年少少将。不敗の『戦場の姫騎士』。
栄光と挫折、そして絶望に塗れた己の過去を示すその名は、もうこの世界から消し去らねばならない。
少女は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐き出すと、ゆっくりと振り返った。
黒いフードの陰から、透明感のある愛らしい唇を微かに開く。
「……リン、です」
澄んだ声で告げられた、偽りの名。
これまでを決別するための、新しい名。
「リンちゃん、か。いい名だ。ようこそ、ライツの町へ」
町長の温かい言葉に、少女は一度だけ弱々しく頭を下げると、新しい居場所となる小さな家を目指し、静かに扉を開けて踏み出していったのだった。
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