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捨てられた子犬


軍医寮でのリハビリは、終わりの見えない苦行そのものだった。


医師や看護助手たちは、リリィに対してどこまでも親切で優しかった。

痛む右肩の傷口を気遣い、不器用な左手でのぎこちない動きを根気強く支えてくれる。


だが——彼らの温かさが深まれば深まるほど、リリィの胸に落ちる影はより濃く、暗くなっていった。

かつて同じ戦場で命を預け合い、リリィを「我が誇り」とまで称えてくれた部下や仲間たちは、誰一人として面会に訪れなかった。 


重い扉が開く音が響くたび、リリィはかすかな期待を込めて視線を向ける。

しかし、入ってくるのはいつも白い衣服を着た医療スタッフだけだった。


戦線崩壊の混乱の渦中なのだと。

兵の立て直しや後処理で忙しいのだと、自分に言い聞かせてみても。


あまりにも冷たい静寂だけが、部屋を支配し続けていた。


(……私は……軍に残るべきなのでしょうか……?) 


激痛に耐えながら、左手で木製の匙を握りしめ、豆のスープを口へ運ぶ練習を繰り返す。

指先は不格好に震え、途中で零れ落ちた液体がシーツに染みを作っていく。


かつて一瞬の間に敵の喉元を正確に穿った、あの繊細な身体感覚はどこにもない。

この状態で少将の座にしがみついたところで、待っているのは周囲からの腫れ物を扱うような目と、役立たずの置物としての扱いだけではないか。


底のない迷いと葛藤が、リリィの心を深く押し潰し続けていた。


——そして、地獄のようなリハビリを始めて一ヶ月が過ぎた。 


どれほど血のにじむような努力を重ねても、左手での生活には未だ慣れず、日常生活すら覚束ない。

これ以上、王城で無駄な療養費を費やし、軍の足枷となり続けるわけにはいかなかった。

リリィは静かに、最後の覚悟を決めた。


その日の午後。


リリィは着慣れぬ簡易な服に身を包み、国王とドイス国軍大将が座す接見の間へと足を運んだ。

重厚な扉の向こうに広がるのは、かつて作戦会議で何度も足を踏み入れた、豪華絢爛な大広間。


だが——玉座に座る国王と、その脇に佇む大将の眼差しには、命を賭して国を守った天才少女への労いなど、微塵も存在しなかった。


「……本日をもって、ドイス国軍少将の職を辞し、退役させていただきたく存じます」


リリィは深々と頭を下げ、かすれた声で静かに告げる。

返ってきたのは、身を切るほどに冷ややかな一言だけだった。


「そうか」


国王が退屈そうに短く呟き、隣の大将もまた、手元の書類に視線を落としたまま小さく頷いただけだった。


言葉の続きは、一切なかった。


「今までよく尽くしてくれた」という労いも。

「身体を自愛せよ」という情も。


ただ不要になったゴミを片付け終えたかのような、徹底的な無関心が空間を満たしていた。


「……今まで、本当にありがとうございました」


リリィは絞り出すように言葉を遺し、静かに踵を返した。


そのまま軍令部の執務室へと向かい、文官の手によって無機質に退役の手続きが進められていく。

軍籍の抹消を示す書類に重い判が押され、引き換えにズシリとした重みのある革袋が一つ、手渡された。


左手に伝わる、金貨の冷たく無機質な重み。


十五年間という短い人生のすべてを捧げ、その果てに右腕を奪われた代償が、たったこれだけの金銭に換算されたのだという残酷な現実。


「……失礼いたしました」


リリィは弱々しく頭を下げ、静かに部屋を後にする。


かつての彼女は、威風堂々とした誇り高き騎士であった。

白銀の甲冑を纏い、背筋を伸ばして歩く姿は、国民の憧れそのものだった。


だが今の彼女はすっかり背を丸め、小さく縮こまった無力な子鹿のよう。

白銀の右袖は虚しく肩口で結ばれ、残された左手だけで重い革袋を大切そうに抱え込んでいる。


トボトボと城門を目指して長い廊下を歩くリリィの背中に、すれ違う士官や文官たちの心ない陰口が突き刺さる。


「おい、見ろよ……本当に右腕がなくなっているぞ」


「あの『不敗の姫騎士』も形無しだな。ヘッケ平原の大敗、少将が討たれなければあそこまで酷いことにはならなかったろうに」


「実質的な戦犯だよ。いつまでも城に居座られても困るからな……」


かつて称賛の言葉しか受け取ったことのなかった耳に、容赦なく注がれる蔑みと批判。

リリィは唇をかみ締め、視線を床に落としたまま、ただひたすらに歩みを早めた。


そうして——あと少しで広場へと抜ける回廊に差し掛かった、その時。

前方の角から、聞き覚えのある整った足音が近づいてきた。


ハッと顔を上げたリリィの視界に飛び込んできたのは、第一突撃隊でずっと自分を支えてくれた忠実な副官——ライラの姿だった。


「……ライ、ラ……」


かすかな希望が胸を突き上げ、リリィは思わず声をかけようとした。


だが——リリィの視線に気づいたライラの顔を見て、言葉が喉の奥で凍りついた。

ライラの表情には、怒りも、悲しみも、憐れみすらもなかった。


ただ、恐ろしいほどに何も映していない、無感情な氷のような眼差しで、じっとリリィを見つめていたのだ。


かつてリリィのためならば命すら惜しまないと誓ってくれた、一番近くにいた少女。

その瞳から、自分に対する一切の感情が削ぎ落とされている光景は、右腕を失った時以上の激痛となってリリィの心を打ち砕いた。


(……ああ、そう……ですか……。私には……もう、誰も……)


リリィは声をかけることを諦め、きゅっと唇を結んで、うつむいたままライラの脇をす通りした。

すれ違う瞬間、ライラから言葉が掛けられることは、一度たりともなかった。


トボトボと重い足取りのまま、ようやく目的地の巨大な城門へとたどり着く。


「……城を出ます。退役の手続きは済みました……」


番兵にそう告げると、兵士たちは腫れ物に触れるかのような気まずい手つきで、足早に退役許可証を確認した。

ギギギ……と、重厚な鉄の城門が重々しい音を立てて開かれていく。


一歩、また一歩と、外の冷たい空気の中へと足を踏み出す。

背後で——巨大な門が、ドスンと重い音を立てて固く閉ざされた。


十五年の人生のすべてであり、自分の存在理由そのものだったドイス国軍。

その巨大な城壁は、右腕と戦力を失った少女を呆気なく吐き出し、二度と立ち入れぬよう拒絶の音を響かせた。


冷たい秋風が、少女の細い肩を吹き抜けていく。


居場所も、仲間も、右腕も失った元・姫騎士は。

まるで飼い主から捨てられた一匹の小犬のように、ぽつりと城跡を後にするのだった。



読んでいただき、ありがとうございます。

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