これからについて
『戦場の姫騎士』、リリィ少将の敗北。
ドイス国の首都は、未だかつてないほどの激震に見舞われていた。
そして——彼女が右腕を切り落とされたという凄惨極まる一報は、瞬く間に王都の隅々にまで駆け巡り、人々の心を深く打ちのめした。
わずか十五歳という若さでありながら、彼女は王都の象徴であり、国民の希望そのものだった。
小柄で可憐な容姿と、凛とした気高き佇まい。
街を巡察する際には、幼い子どもから老人までに気さくに声をかけ、誰に対しても澄んだ眼差しと丁寧な言葉遣いで接していた少女。
彼女の美しさと強さ、そして高潔な人柄は、立場を超えて多くの人々を惹きつけてやまなかった。
「あの白百合のように美しいリリィ様が……」
「右腕を失われただと? そんな恐ろしいことが……」
「嘘だと言ってくれ。あの姫騎士様が敗れるはずがない!」
酒場でも、市場でも、城下の広場でも、人々は青ざめた顔で囁き合っていた。
ドイス国を守る不敗の盾であり、最高峰の矛であった少女の身に起きた惨劇。
それは国民から希望を奪い去るには、あまりにも十分すぎる衝撃だったのだ。
——だが。
そうした外の喧騒から完全に隔絶された軍医寮の一室で、リリィはただ静かに己の残酷な現実と向き合っていた。
重傷を負ってから数週間。
死線を彷徨い、長く眠り続けていた代償は、十五歳の少女の身体を酷く蝕んでいた。
ベッドから立ち上がるだけでも膝が小刻みに震え、数歩歩くだけで息が途切れる。
かつて戦場を舞うように駆け抜けていた、あの軽やかさはどこにもなかった。
そして何より——生活のすべてを『左手』で行わなければならないという残酷なリハビリが、彼女の精神をじわじわと削り取っていく。
「少将、無理をしてはいけません。ゆっくりで良いのですから」
看護助手の優しい声が、静かな部屋に響く。
リリィは返事すら試みず、ただ左手で木製のスプーンを固く握りしめていた。
利き腕ではない左手が思うように動かず、スープを一口すくうことすら叶わない。
指先が微かに震え、スープの液体が器の縁から零れ落ちて、白いシーツに不格好な染みを作っていく。
(どうして……こんな簡単なことすら、出来なくなってしまったのでしょう……)
心の中で呟く口癖すら、かつてのような愛らしさは失われ、ただただ無機質な虚無の響きを帯びていた。
かつては一瞬の間に敵の隙を突き、寸分違わず急所を穿つことのできた、あの奇跡のような神技。
それが今や、一杯のスープを口に運ぶことすらできず、服を着替えるのにも何倍もの時間を要する。
リリィの可憐な瞳からは、完全に光が消え失せていた。
ただ濁ったガラス玉のように見知らぬ天井や壁を見つめるばかりで、涙すら涸れ果てていた。
自分の身体の半分が死に絶えてしまったかのような強烈な喪失感が、彼女の心を死の静寂で満たしていた。
そんな絶望的なリハビリの日々の中、追い打ちをかけるように一つの悲報が届く。
ヘッケ平原の大決戦において、ドイス国軍はフランニュ王国軍に歴史的大敗を喫した。
リリィが右腕を討たれて戦線を離脱した直後、全軍の指揮系統と士気は崩壊。
数多くの死傷者を出し、壊滅的な被害を被って撤退を余儀なくされたのだという。
(……私の……せいです……)
報告を聞いた瞬間、リリィは深く目を閉じた。
自分が右腕を失ったから。
自分が刺客の存在に気づかず、討ち取られたから。
自分が完璧な『姫騎士』であり続けられなかったせいで、多くの部下たちが死に、国が負けたのだ。
重い罪悪感が、鋭く冷たい楔となって少女の胸を深く刺し穿つ。
不敗の伝説は潰え、身体は傷つき、罪だけが残された。
もはや自分には、生きていく理由すら残されていないのではないか。
そう思い詰めていたリリィのもとへ、静かに扉を叩く音が響く。
部屋に入ってきたのは、軍医でも、忠実な副官ライラでもなかった。
豪奢な高級軍服を隙なく身に纏い、冷淡な目つきをした軍令部の文官だった。
男はリリィのベッド脇まで歩み寄ると、薄い笑みを浮かべながら胸元から一枚の書状を取り出す。
「リリィ少将。体調はいかがですか。本日は軍令部より、今後の貴方の処遇についてお話しに参りました」
文官の声には、どこか恭しくも慇懃無礼な響きが混ざっていた。
かつて『不敗の姫騎士』として賞賛されていた頃、この男がどれほど揉み手をしながらリリィを持ち上げていたか。
だが、今の男の瞳にあるのは、ただ役に立たなくなった道具を見るような冷ややかな色だけ。
「……私の……処遇、ですか」
かすれた声でリリィが問いかける。
文官は眼鏡の奥の目を不気味に光らせ、演技がかった溜め息を吐いて見せた。
「ええ。制度上の話を差し上げますと……ドイス国軍の規約において、貴方が望むのであれば、このまま少将として軍にとどまる道自体は残されております」
文官はそう前置きすると、わざとらしく言葉を区切り、リリィの失われた右肩の包帯へ視線を落とした。
「しかしね、リリィ少将。私はこれまで、貴方のように凄惨な戦場で身体の一部を損なった『元・英雄』たちを何人も見てきました。……ですが、彼らは皆、最終的に自ら軍を去っていきましたよ」
「……去った、のですか」
「ええ。剣を握れず、前線にも立てない元・将官が軍に残ったところで、待っているのは周囲からの憐みと蔑みの視線です」
「部下たちもどう接していいか分からず、かつての強さと比較され、肩身の狭い思いをし続けることになる。馴染めず、居場所を失い、精神を病んで結局は自分から辞めていく……全員がそうでした」
文官の言葉は、まるで親身なアドバイスの形を借りた、狡猾なまでの『辞職の強要』だった。
軍にとっても、右腕を失い戦えない少将を抱え続けるのはお荷物でしかない。
国軍の象徴となった少女に、自分から退役を申し出させたいのだ。
「そこで、軍としても配慮を考えておりましてね。もし……貴方が今、円滑に自主退役を受け入れてくださるのであれば、提示できる特別功労金にも相応の『色』をつけさせていただく用意があります」
「これからの暮らしに何一つ苦労しない額を保証しましょう」
言葉の裏にある露骨な提示。
——ぐずぐず残るなら最低限の手当しか出さないが、すぐに去るなら金を弾む。
買い叩かれようとしているのは、リリィの十五年の人生と、国家のために捧げた右腕そのものだった。
「さて、リリィ少将。どうされますか? 居場所のない軍にしがみつき惨めな思いをするか、それとも名誉ある引き際を選んで、上乗せされた功労金とともに新たな生活を始めるか……」
文官は返答を促すように、冷淡な眼差しでリリィを見下ろした。
国を守るために戦ってきた。
国を守るために戦った結果、己の右腕が無くなった。
だが——右腕を失った途端、国はこうして金銭をチラつかせ、自分を使い捨てるように追い出そうとしている。
リリィは伏せがちだった長いまつ毛を持ち上げ、光の消えた瞳で文官をじっと見つめた。
そして、かすれた静かな声で答えた。
「……考えさせて……ください」
「ふむ……。まあ、あまり長くはお待たせできませんがね。賢明な判断を期待しておりますよ」
文官は薄い笑みを浮かべると、一度だけ軽く会釈をし、足早に部屋を去っていった。
重い木製の扉が、静かに閉じられる。
ぽっかりと空洞になった、白銀の右袖。
提示された金銭による手切れ金と、完全に奪われた『将官としての居場所』。
去っていった文官の足音が遠ざかる中、リリィはだらりと伏せた左腕を見つめ、静かに、ぽつりと独白した。
「はて……どうしましょうか……?」
自分に言い聞かせるような、静かに出た言葉。
その可憐な呟きは、誰に届くこともなく、静かな医務室の空気に虚しく溶けて消えていった。
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