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知らない天井

深く、深く……冷たい水の底へと沈んでいくような感覚だった。


光も音もなく、ただ心地よい暗闇の浮遊感の中を、あてもなく漂っている。



自分が誰なのか。

何のために生きていたのかすら、濃い霧の向こう側に隠れて掴めない。


指一本すら、己のものかどうかも定かではなかった。



(……あたたかい……夢……?)



耳の奥で、微かに誰かが自分を呼ぶ声が響く。

必死に叫ぶ部下たちの声のようにも、幼い頃に聞かされた温かな子守唄のようにも聞こえた。


けれど、その音もすぐに遠ざかり、再び静寂の微睡の中へと溶けていく。


どれほどの時間が流れたのだろう。

ゆっくりと、ほんのわずかずつ、奪われていた感覚が表面へと浮上し始めていた。


最初に届いたのは、鼻腔を突くツンと澄んだ薬品と消毒液の重い匂い。

次いで、背中に伝わる固いベッドの触感と、肌を刺すような冷たいシーツの肌触り。


曖昧だった己の輪郭が、少しずつ世界と繋ぎ合わされていく。



「……ん……っ……」



重い泥をまとったかのような瞼を、極限まで時間をかけて持ち上げる。


視界はひどく滲み、光の輪郭すらぼやけていた。

何度もまばたきを繰り返し、ようやく焦点が結ばれる。


視界に広がったのは——見覚えのない、無機質な白い天井だった。


戦場の凄惨な悲鳴もない。

金属と金属がぶつかり合う高音も届かない。


世界からすべての色彩と音が削ぎ落とされたかのような、恐ろしいほどの静寂。

あまりのギャップに思考が追いつかず、脳は依然として白い霧の中に囚われていた。



「……あ……」



声を出そうとしたが、喉がからからに乾いていて、微かな掠れた息しか漏れない。


なぜ自分が、こんな場所で横たわっているのか。

自分は最後になにをしていたのか。


途切れた記憶の断片が、どこか他人事のように頭の中で揺れていた。



(私は……戦場で、倒れてしまったのでしょうか……?)



混乱とぼんやりとした意識を抱えたまま、リリィはひとまず体を起こそうとした。


ベッドに体を預けたまま、無意識に、これまで何千・何万回と繰り返してきた動きを取る。

右手に力を込め、シーツを固く掴んで体を支えようとする。



——しかし。

何も、起きない。



(……はて……?)



腕を動かそうという脳からの命令に対し、右半身からの応答が一切返ってこない。

感覚がない。


痺れているのだろうか。

激しい死闘の果てに、一時的に麻痺しているだけなのだろうか。


不気味で冷たい違和感に胸を締め付けられながら、リリィはゆっくりと首を右側へ巡らせた。


自分の右肩から伸びているはずの、誇り高き腕の様子を確認するために。



そして——微睡みから完全に覚めた彼女の視界に飛び込んできたのは。

分厚い包帯が、痛々しく何重にも巻きつけられた……右肩の根元までの不自然な盛り上がり。


その先にあるべき肘も。

華奢な手首も。

愛用のレイピアを握り締めるための、繊細な指先も。


——何一つ、存在しなかった。



「……え……?」



右袖の先は、ぽっかりと空洞のまま、虚しくシーツの上に折れ曲がっていた。


そこにあるべき、自分の身体が。

あって当たり前であった身体の部位が、無い。


いくら指を曲げようと念じても、脳からの命令はむなしく虚空へ消えていく。



その瞬間。

完全に覚醒した脳内へ止まっていた記憶の濁流が一気に押し寄せてくる。


重く湿ったヘッケ平原の泥の匂い。


正面で大剣を構える猛将グスタフの凶悪な笑み。

敵将の喉元へ向けて突き出そうとした、己の絶対の必殺の一突。


そして——死角。


敵将の陰から不気味に躍り出た、名もなき伏兵の姿。

振り下ろされる、無骨な大斧。


泥に取られた左足。ほんのわずかな体勢の狂い。


肉と骨が力任せに叩き切られる、あの生々しく鈍い感触。

宙を舞う、白銀の甲冑に包まれた己の腕。


泥の中に転がり、血に染まっていく愛用のレイピアと、二度と動かない指先。



「あ…………ぁあ…………っ!?」



すべてを、思い出してしまった。


微睡みの世界から引きずり降ろされた少女は、己の身に起きた悲劇の全貌を悟った。

自分の右腕は、あの地獄の平原の泥の中に置いてきてしまったのだと。



「いや……嫌……! 嫌ぁぁぁぁぁあああああああっっっっ!!!!」



喉が引き裂けんばかりの、凄惨な絶叫が部屋の静寂を粉砕した。

あり得ない。あってはならない。


自分のすべてだった。

血の滲むような鍛錬の結晶であり、騎士としての誇りであり、自分という存在そのものだった右腕が、どこにも存在しない。



「嘘……嘘です……! 私の……私の右腕が……! 剣が……このままだと剣が握れません……っ!」



残された左手で、なりふり構わず右肩の包帯を掻きむしろうとする。

狂乱する少女の叫びを聞きつけ、重い木製の扉が勢いよく開け放たれた。



「少将! いけません、動いてはなりません!」



慌てて飛び込んできたのは、白衣を着た老齢の軍医と、数人の看護兵たちだった。

暴れ狂うリリィの体を上から必死に押さえつけ、左腕の動きを封じ込める。



「離してください! 私の腕は!? 私の右腕はどこへ行ったのですか!?」

「ここはどこ!? ライラは……ライラはどこにいるのですか!?」



可憐な顔を涙と汗でぐしゃぐしゃに濡らし、リリィは絶叫し続けた。

十五歳の少女の限界を超えた恐怖と絶望が、華奢な全身を激しく震わせる。


軍医は痛痛しさに顔を歪めながら、押さえつける手に力を込め、必死に声を張り上げた。



「落ち着いてください、リリィ少将! ここは王都の軍医寮です! あなたは右腕を切り落とされた後、王都へ戻ってこられたのです!」


「右腕を落とされた……? 私が……?」


「左様です! ライラ大尉たちが血路を拓き、不眠不休であなたをここまで運んできたのです! ……お気持ちは痛いほど分かります。ですが、あなたは命を落としかけていたのです」


「そんな……そんなの……っ!」


「生きて戻られただけでも、奇跡的なことなのです……どうか……どうかご自分を傷つけないでください……!」



医師たちの顔に浮かぶ、静かな憐れみと絶望的な情けの色。


その言葉と視線によって、ここは危険な戦場ではなく安全な王都であり、そして——『右腕は二度と戻らない』という不都合な現実を突きつけられた。



「あ……ぁ……」



暴れる力を失い、だらりとシーツの上に倒れ込むリリィ。

溢れ出る涙が、枕を深く濡らしていく。


剣を握る右腕を失った自分に、一体何が残されているというのか。



見知らぬ天井を見つめたまま。

底なしの絶望の闇が、静かに十五歳の少女を呑み込んでいった。

読んでいただき、ありがとうございます。

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