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プロローグ

赤く染まる夕闇の空。

泥と鉄の匂いが、呼吸を阻むほど重く立ち込めていた。


ヘッケ平原。


ドイス国軍とフランニュ王国軍が激突したこの地は、すでに地獄絵図と化していた。


降り続いた長雨は平原を深い泥濘に変え、兵の足を奪い、馬の腹を沈める。


圧倒的な兵力差を誇る敵の猛攻の前に、ドイス国軍の陣形は追い込まれていた。


絶望的な怒号。

踏みにじられる命の悲鳴。


重く湿った空気が、死の気配に揺れていた。


だが——その殺伐とした死の渦中にあって、まるで一輪の凛とした花が舞うように、敵陣を単身で穿ち続ける少女がいた。



「ドイス国軍第一突撃隊、私に続きなさい! 一歩も退いてはなりません!」



可憐で、どこか鈴の鳴るような澄んだ声が戦場に響き渡る。

ドイス国軍最年少将官——十五歳にしてその高みに上り詰めた天才剣士、リリィ。


小柄な体躯を包む、美しく磨き上げられた白銀の甲冑。

背中まで揺れる艶やかな金糸の巻き髪。

前線に立つ将官とは思えないほど、豊満な胸のライン。


幼さを残す可憐な顔立ちでありながら、その眼差しは冷徹なまでに澄み渡り、手にした一振りのレイピアは正確無比に敵の息の根を止めていく。



「なんだあの女は...強いぞ...!?」


「怯むな! 相手はたった十五歳の小娘だ! 包囲して潰せ、数で押し潰せ!」



殺気立った敵歩兵たちが、大長槍の群れをなして押し寄せる。

四方八方から肉迫する、鉄の刃。


しかし、リリィの天性の戦術眼は、すべての軌道と速度を完璧に見切っていた。



「はて……力任せの直線的な攻撃では、私の剣は捉えられませんよ」



死地においてなお、佇まいは静寂そのもの。


軽やかな足さばきで泥を蹴り、突き出された長槍の柄をレイピアの身で滑らせる。

同時に滑り込むように踏み込み、閃光のごとき刺突を放つ。


一秒の間に解き放たれた、神速の三連突。


敵兵の鉄甲の隙間——喉元と脇下を正確に穿たれた巨漢たちが、血の飛沫を散らして泥の中へ崩れ落ちた。



「これが『戦場の姫騎士』の剣技か……!」


「リリィ少将に続け! 我らも遅れるな! 」



リリィの背中を追う部下たちが、地鳴りのような歓声を上げる。


『不敗の姫騎士』。


敵味方問わず、人々は畏怖と敬意を込めて彼女をそう呼んだ。

十五歳という若さでありながら、彼女の存在そのものがドイス国軍の士気を支える絶大なる象徴だった。


どのような過酷な戦局であっても、彼女が最前線でレイピアを振るえば、必ず勝利への道が拓ける。

部下たちは彼女の不敗の強さに全幅の信頼を寄せ、彼女もまた、その期待に応え続けてきた。



(……敵の中央陣形、右翼の連携がわずかに乱れています。あそこを突き破り、指揮官を揺さぶれば……この不利な戦局でも、我が軍の撤退路を確保できます)



リリィは心の中で、冷徹に計算を巡らせる。


敵の猛攻を食い止め、味方の大部分を安全に逃がすための『殿(しんがり)』としての突撃。

それが、今回の彼女に課せられた使命だった。



「ライラ副官! 我々はこのまま敵の中央へ突入します! 左右の警戒を怠らないように!」



リリィのすぐ後ろで長剣を振り回していた女性副官——ライラが、悲痛な表情で叫び返す。



「ですがリリィ少将、ご無体だけはなさらないでください! いくら少将とはいえ、この敵の数……! あなたに万一のことがあれば、ドイス国は……!」



切迫する副官の懸念に対し、リリィは過酷な戦場には似つかわしくないほど可憐に、そして絶対の確信を秘めた笑みを浮かべた。



「――大丈夫です。私の右腕がある限り、どのような敵にも後れは取りません」



そう言って、リリィは愛用のレイピアを固く握り直した。


細身の剣身に宿る、圧倒的な魔力と血の滲むような鍛錬の成果。

彼女の右手から繰り出される神速の突撃は、あらゆる鉄壁を打ち破るドイス国軍最高峰の『矛』だった。



「全軍、突撃! 敵中央を穿ちます!」



疾走する白銀のシルエット。

一足一刀の間合いに踏み込むたび、銀色の軌跡が閃き、敵の精鋭たちが次々と泥に沈んでいく。


だが——敵陣の中央深くへと突き進んだその時。

重厚な足音とともに、狂暴な圧迫感をまとった男が立ちふさがった。



「そこまでだ、ドイスの小娘!」



フランニュ王国軍が誇る猛将——『鋼角伯』の異名を持つ重騎士将校、グスタフであった。

身丈ほどもある巨大な大剣を両手で構え、リリィを見下ろす男の眼光は濁った殺気に満ちている。



「貴様が『不敗の姫騎士』か! 我が国の兵をどれほど屠れば気が済む! このグスタフの首が欲しくば、奪ってみせよ!」


「グスタフ中将ですか……相手にとって不足無し、です」



名のある敵将の登場に、リリィの瞳が冴え渡る。


大気を揺らし、振り下ろされるグスタフの大剣。

掠めるだけでも命取りになる破壊の奔流。


地面の泥が爆散する。

だが、リリィはその巨躯の死角へ、紙一重の踏み込みで滑り込んでいた。



「ちょこまかと……!」


「まだまだここからです!」



澄んだ金属音が連続して弾ける。

リリィのレイピアが、重装甲の継ぎ目を的確に穿つ。


精緻を極めた神速の剣技の前に、猛将グスタフの巨躯が確実に後退を余儀なくされていく。



(勝てる……! 敵の主力をここで討ち取れば、我が軍は助かる!)



グスタフの渾身の横薙ぎを、可憐な身のこなしで完全にかわしきる。

体勢を崩した敵将の、無防備な喉元。


そこへ——リリィの右手から、絶対の必殺の一突が放たれようとした、まさにその一瞬。


死角。

重将校グスタフの巨体の影。


リリィの意識が敵将の喉元に集中した、コンマ数秒の刹那。

戦場の暗がりから、気配もなく飛び出してきた陰湿な影があった。



(……え?)



それは、グスタフが自らの身を囮にしてまで潜ませていた伏兵だった。

名誉も誇りもなく、ただ天才少女の命を刈り取るためだけに潜んでいた刺客。


その両腕に握られていたのは、肉を断ち、骨を砕くためだけに鋳造された無骨な大斧。


リリィの脳内で、鋭い警鐘が鳴り響く。

直感が死を告げ、すぐさま回避運動へ移ろうとした。


——しかし。


敵将との一騎打ちの極限状態。

必殺の突きを放つため全神経を右手に注ぎ込んでいた彼女の体勢は、あまりにも深く踏み込みすぎていた。


さらに——踏み込んだ左足が、泥の粘土質に捕らわれる。


ほんの一瞬。

コンマ数秒にも満たない、決定的な狂い。


死線を潜り抜けてきた刺客の大斧を交わすには、そのわずかな狂いはあまりにも致死的すぎた。


空気を切り裂く、重苦しい風切り音。


視界が、大きく傾く。

甲冑が刃を弾く音すら響かなかった。


痛みの前にリリィの耳に届いたのは——硬い甲冑と、肉と、人骨が力任せに叩き潰され、断ち切られる、極めて生々しく鈍い音だった。



「……え……?」



世界が、ゆっくりと遅くなる。


自分の鼻先を掠めて、赤黒い血の飛沫が舞い散る。

視界の隅で、何かが空中を綺麗な弧を描いて舞っていた。


白銀の甲冑で守られた、細く華奢な腕。

繊細で美しい指先が、今なお愛用のレイピアの柄を、誇り高く握りしめたままの——。



そう。


それは、リリィ自身の『右腕』だった。


肩口から下のすべてを叩き切られ、宙を舞う右腕。

それが無情にも泥の中に落ち、赤く染まっていく。



「あ……っ……!?」



直後。


人間の許容量を遥かに超えた、絶望的な激痛が襲いかかった。


肩口の断面から、激流のように噴き出す鮮血。

燃え盛る鉄を直接叩きつけられたかのような激痛が、十五歳の少女の全神経を灼き尽くしていく。



「ああああっ

……! ああああああああああっ……!!」


ヘッケ平原の惨劇の空に響き渡ったのは、将官としての威厳など微塵もない、ただの十五歳の少女の凄惨な絶叫だった。



「リリィ少将っ……!?」



副官ライラの、裂けんばかりの悲鳴が重なる。


右腕がない。

どんな敵にも後れは取らないと誓った、自分を立たせていたすべての誇りである右腕が、そこにはもうない。



「少将をお救いしろ! 引け! 撤退だ、全軍退けぇっ!」



部下たちが決死の覚悟で向かい、重傷のリリィを抱え上げる。

ドイス国軍の陣形が完全に崩壊し、絶望の波が押し寄せてくるのが分かる。


意識を失いかけたリリィの視界は真っ赤に染まり、やがて漆黒の闇へと呑み込まれていった。


ドイス国軍の『不敗の姫騎士』。


不敗と謳われた15歳の天才少女の伝説が、そして彼女の国軍での未来が、冷たい泥の中で完全に潰えた瞬間だった。


読んでいただき、ありがとうございます。

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