賭博堕天録リリィ
惨劇の一夜が明けた翌朝。
小鳥たちが爽やかにさえずる静かな朝。
カラン……カラン……と、何やら不穏な音だけが響き続けていた。
静かなリリィ宅の部屋の中。
普段なら焼きたてのパンの匂いや、朝の光に包まれて穏やかな時間が流れているはずの空間は、いまや完全に「怪しい研究室」と化していた。
机の上には、びっしりと数字が書き込まれた紙の山。
そしてリリィの左手には、薪をナイフで不器用に削って作ったらしい、角の丸い木製のサイコロが三つ。
「四……二……六……」
リリィの瞳は、完全にドイス国軍少将のそれだった。
焦点の定まらない眼光で自作のサイコロを振り、結果を羽ペンで紙に記録していく。
「これで……四百三十七投目ですね」
もちろん、彼女自身はこれを「賭博」だとは微塵も思っていない。
『勝敗を左右する未知の要素における、統計的データの採取』を行っているだけのつもりであった。
そこへ――。
「リンちゃーーん! あそぼー!」
ガタゴトと音を立てて、ルカを筆頭に近所の子供たち三人が元気に部屋に雪崩れ込んでくる。
普段なら「おはようございます、みなさん」と可憐な笑みを浮かべるリリィだが、今日ばかりは視線すら動かさない。
カラン。
「……五」
カラン。
「……三」
「……リンちゃん?」
あまりの無視っぷりに首を傾げた子供たちは、最初こそ「なにしてるの?」と面白がってリリィの周りに集まってきた。
女の子が、ちょっかいを出すようにリリィの柔らかい頬を指でプニッと押してみる。
さらにもう一人の子が、リリィのほっぺを両手でみょーんと引っ張ったり、乱れた金髪に庭で摘んできた黄色い野の花を何本も突き刺したりし始めた。
普通なら「もう、駄目ですよ?」と困り顔になるところだ。
しかし今の生ける軍事演習機・リリィは、一切動じない。
頬を「もちっ」「ぷにっ」と変形させられ、頭を花畑にされながらも、彼女はピクリとも表情を変えず、ただ無心で左手を振り続けた。
カラン。
「……六」
構ってもらえないと悟った子供たちは、やがて諦めてリリィの家で勝手に鬼ごっこやおままごとを始める。
ただ一人、ルカだけが心配そうにリリィの隣に残り、覗き込んできた。
「リンちゃん……大丈夫……? 頭、お花だらけだよ」
「ええ。問題ありません」
「……ずっとサイコロ振ってるよ」
「試行回数が足りないのです」
「何の……?」
「勝つための、です」
真顔で即答するリリィ。
いつもと違う様子のリリィのことを、ルカは純粋に心配するのだった。
◇
「ルカくん。良い機会です、講義をしてあげましょう」
リリィは羽ペンを置くと、真剣な眼差しでルカに向き直った。
「サイコロという存在が公平であるならば、試行を重ねるほど出目の出現率は一定の割合へと収束していくはずです」
「しゅう……そく……?」
「つまり、昨晩の私の歴史的大敗は、単なる『局所的な運の偏り』に過ぎません。試行回数を数百、数千と増やし、投擲の再現性を高めれば、理論上、勝率は一定のラインへと安定するはずなのです」
リリィは「どうです?」と言わんばかりに胸を張る。
要約すると『いっぱい振れば、そのうち勝てるはず』という、典型的な屁理屈であった。
ルカは内容をまったく理解できないまま、ぽかんと首を傾げる。
「えっと……じゃあ、いっぱい投げたら勝てるの?」
「………………そのはずです」
妙な間があった。
声も小さい。
自分でも「本当にそうなのだろうか」という疑念が少しだけ脳裏をよぎったものの、元姫騎士のプライドがそれを一瞬で握りつぶしたのだ。
そこへたまたま家の様子を見に来た大工の親方が入ってくる。
机の上に転がる不格好な木の固まり(お手製のサイコロ)を見て、親方は怪訝そうに眉をひそめた。
「……リンちゃん、それ自分で作ったのか?」
「はい。完璧な検証を行うため、自作いたしました」
親方はサイコロを一つ手にとってつまみ上げ、光にかざして深いため息をついた。
「これ、角の削れ方バラバラじゃねえか」
「…………」
「どんなに振ってもこれだと出目が偏っちまう」
沈黙。
部屋の中から、すっと全ての音が消え去った。
今朝から四百回以上、必死にメモを取り続けた統計データが無意味になった瞬間であった。
リリィは数秒間、微動だにせず固まっていたが、やがて静かに立ち上がると、ノミとナイフを握り直す。
「……では、削りの条件を厳密に整えて、もう一度最初から検証します」
「もうやめようよ……」
ルカの必死の訴えも、今の彼女の耳には届かないのだった。
◇
一週間後。
週に一度のライツ町内会。
先週の「夜の惨劇」のトラウマから、男たちはリリィと目が合うたびに、どこか気まずそうに視線を逸らしていた。
だが、リリィは至って普通だった。
金髪を綺麗に整え、花のような微笑みを浮かべて端の席に座っている。
「皆さん、こんばんは」
「お、おう! こんばんは、リンちゃん!」
男たちは胸をなでおろす。
いつものリンちゃんだと、誰もが安堵して楽しく酒を酌み交わしたのだった。
宴が終わり、町長たちが帰り始めた、まさにその時。
リリィの妙に重みのある静かな声が響き渡った。
――ところで皆さん。本日は、チンチロリンをなさらないのですか?
男たちの動きが、一斉に固まった。
逃げられない空気に飲み込まれ、男たちは冷や汗を流しながら渋々お椀とサイコロを出した。
「……じゃあ一回だけだぞ?」
再戦に臨むリリィは、前回とまるで違っていた。
姿勢。
投擲の高さ。
手首のスナップ。
お椀の中央を狙う完璧な集中力。
一週間の血の滲むような研究成果が、今ここに結集する。
カラン!
出目――ヒフミ(即負け)。
「…………はて?」
男たちが笑う。
「全然ダメじゃんリンちゃん!」
「投げる格好だけは凄かったぞ!!」
さらに二戦目、三戦目と振り続けるも、普通に負け続けるリリィ。
「……これは、想定外ですね。観測結果が理論値に収束しません……」
「観測結果だとか理論値とか、難しいこと言うねぇ」
リリィは懐から研究ノートを取り出し、真顔でメモを取り始めた。
その狂気的な姿に、男たちの笑い声が引きつったものへと変わっていく。
(リンちゃん……本気でハマってる……!!)
少女は底なし沼に肩までドップリ浸かっていることに、気づいていない。
◇
それからの数週間、ライツの夜は惨劇の連続だった。
【三週目】歴史的大敗。
「はて……今回は、確率の偏りが大きい日のようですね」
【四週目】ボロ負け。
「なるほど。サイコロの材質に問題がある可能性を否定できません」
【五週目】全敗。
「椀の底の形状および滑らかさも、検討課題に含めるべきでしょうか」
男たちの顔は、週を追うごとに青ざめていった。
リリィは決して大量の金を失っているわけではない。
賭けているのは銅貨数枚や、手作りの野菜、パン一食分程度。
問題は金額ではない。
勝てないこと。それだけだった。
そして、ついに運命の六週目の夜。
宴が終わった瞬間、男たちが一斉にガタッと立ち上がった。
「あ、あー! 今日はもう帰るか!」
「俺も女房が待ってるしな!」
「明日は朝から畑仕事が忙しいんだ!」
露骨な逃走を図る男たち。
その背中に、部屋の隅から氷のように静かな声が突き刺さった。
「皆さん」
男たちの足が金縛りにあったかのように止まる。
振り返ると、リリィが可憐に微笑んでいた。
ただし、瞳の奥は一ミリも笑っていなかった。
「どこに行くのですか?」
「あ、明日はちょっと用事があるから……なんて……」
八百屋の店主が泣きそうになりながら答える。
リリィは少しだけ間を置くと、冷徹な少将の顔で静かに言い放った。
「勝ち逃げは、感心しませんね」
「ひぃぃぃぃぃっっ!?」
男たちは逃げられず、渋々とテーブルへと引き戻されるのだった。
◇
深夜二時。
ボサボサの金髪、深い隈。瞳だけは異様に冴えていた。
既に大きく負けている。だが、彼女の中ではまだ「確率が収束されていないだけ」だった。
十人の男立ちは、生きた心地のしない顔でテーブルを囲んでいる。
逃走は許されない。
「…………参ります」
リリィが静かに左手を振り上げ、サイコロをお椀に投げ、カランと転がった瞬間――
バンッ!!! と、集会所の重い扉が叩き壊さんばかりの勢いで開け放たれた。
「お前らぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」
入ってきたのは、顔を真っ赤にした般若のような形相の町長。
「ひぇぇぇぇぇっ!? ちょうちょう!?」
男たちが悲鳴を上げる。
「お前ら! リンちゃんに何を教えとるんだぁぁぁっ!」
「ち、違うんだ町長! 俺たちだってこんな事になるとは思わなかったんだよ!」
「最初は一回だけの軽いお遊びのつもりだったんだ!!」
冤罪を主張して泣き叫ぶ男たち。
そんな大混乱の中、リリィだけが冷静にサイコロを握りしめたまま、町長に告げた。
「町長さん。邪魔をしないでください。現在、確率が収束に向かう非常に重要な局面なのです」
「何も重要じゃない!! こんなことしてないで帰りなさい!!」
町長はお椀とサイコロをガシッと取り上げると、リリィの背中をぐいぐい押して集会所から追い出す。
こうして、地獄のチンチロリンは強制終了させられたのだった。
◇
翌朝。
ライツの町の広場にある大きな掲示板の前に、大勢の町民が集まっていた。
張り出されていたのは、町長の達筆な字で書かれた一枚の貼り紙。
『当面の間、ライツ町内におけるチンチロリンを禁止する』
さらに、その下には真っ赤な大文字でこう追記されていた。
『特に、リンちゃんにサイコロを絶対渡さないこと!』
町民たちは「ま、まあそうなるよな……」「リンちゃん、最近目がバキバキだったしな……」と、深く納得してうなずき合っていた。
ただ一人、その掲示板の前で、拳を握りしめて危険な顔をしている少女を除いては。
「……横暴です」
不満を全身から溢れさせるリリィは、心配そうについてきたルカを伴って、そのまま町長宅へと突撃した。
「町長さん! これは民の娯楽を奪う横暴です!」
「却下」
「まだ何も申し上げておりません!」
「チンチロの話でしょ。却下」
「……はて。なぜお分かりに?」
首を傾げるリリィの背後で、ルカが引っ張るように服の裾をキュッと掴んだ。
「もう帰ろう……」
通りかかった町の人たちも、遠巻きに声をかけてくる。
「リンちゃん、今回は町長が正しいよ」
「異議なし! もう諦めなさい、ね?」
「リンちゃん、もう諦めて家に帰りな」
温かい町の人々からの、満場一致の「ダメ出し」。
「……くっ!ここまでですか……!」
完全なる四面楚歌。
かつてどんな死地もその知略と剣技で突破してきた天才少女・リリィ。
だが、「運」という理不尽と「町民全員からのストップ」という二重の壁だけは、いくらリリィでも突破することが出来なかった。
――帰り道。
坂道を歩きながら、リリィは広場の掲示板をもう一度だけ恨めしそうに振り返った。
そして、不服そうに頬をかすかにふくらませると、ぽつりと呟く。
「……やっぱり、横暴です」
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