賭博黙示録リリィ
夜更けの集会所は、息を呑むような重苦しい緊張感に包まれていた。
窓の外では虫たちが何も知らずにのんきな声を響かせているというのに、室内の空気だけは氷のように冷たく張り詰めている。
テーブルを囲む十人ほどの男たち。
つい数時間前まで酒を酌み交わし、腹を抱えて笑っていたはずの面々からは、すでに完全にアルコールが抜けていた。
誰もが蒼白な顔で、中央の席を見つめている。
そこに座っているのは、この町で「リンちゃん」と呼ばれている少女。
元ドイス国軍最年少少将――リリィだった。
背中まで届く艶やかな金糸の髪はわずかに乱れ、目元には薄い影が落ちている。
いつもなら穏やかに微笑んでいる可憐な顔には、その面影すらない。
リリィは左手の中で、三つの小さなサイコロを――
カチ……。
カチ……。
と静かに擦り合わせていた。
「…………参ります」
凛とした声が響く。
甘えも、迷いも、一切ない。
八百屋の店主がひきつった笑みを浮かべ、おそるおそる片手を挙げた。
「リ、リンちゃん……? あのさ、もうこんな時間だし……今日はこの辺にしない?」
「参ります」
「……聞いてる?」
有無を言わせぬ声だった。
かつて幾万の兵を従え、敵軍を震え上がらせた『不敗の姫騎士』の静かな威圧感が、狭い集会所を満たしてる。
その視線の先にいるのは敵将でも、精鋭騎兵でもない。
三つのサイコロである。
リリィは左手を滑らかに振り上げる。
まるで戦場で必殺の一撃を放つかのような美しい軌道。
そして――。
カラン。
木製のお椀の中に、乾いた音が響いた。
(……どうして、こんなことになってしまったのだろう)
転がるサイコロを見つめながら、男たちは全員、同じことを考えていた。
ほんの少し前の自分たちを、できることなら力いっぱい殴ってやりたい。
なぜ。
どうして。
この少女に。
――チンチロリンなど教えてしまったのか。
◇
――話は、その日の夕方まで遡る。
ライツでは週に一度、住人たちが集まって近況を報告し合う町内会が開かれていた。
とはいえ、お堅い軍事会議などとは程遠い。
「最初のだけ真面目な町内会。その後は楽しい飲み会」というのが、この町のしきたりだった。
白髪交じりの温厚な町長が「最近、東の柵が傷んできたから来週修理しよう」だの「タルマさんのところの牛がまた脱走した」だの、微笑ましい報告を終えると、すぐに賑やかな酒宴が始まった。
リリィも最近ではこの集いに普通に参加するようになっており、部屋の端の席にちょこんと座って、果実水の入った木コップを左手で包み込んでいた。
「ふふ、牛さんは無事に捕まって良かったですね」
「おうよ! リンちゃんも果実水おかわりするか?」
「はい。では、少しだけお願いします」
軍の作戦会議のような、張り詰めた空気はどこにもない。
柵が壊れた。
牛が逃げた。
昨日魚釣りに行った。
誰それの畑のカボチャが今年は大きい。
本当に、どうでもいい話ばかり。
けれど、そのどうでもよさが、リリィにはたまらなく心地よかった。
◇
やがて夜も更け、宴も少しずつおひらきになっていく。
お母さんたちや子供たちが「あんたたち、また夜遅くまで残る気かい? ほどほどにしなよ!」と言い残して帰り、町長も「明日に響かん程度にな」と笑顔で去っていった。
リリィもそろそろ帰ろうと席を立ちかけた時だった。
残った十人ほどの男たちが、ニヤニヤと楽しそうな顔でテーブルの上を片付け、妙な道具を取り出したことに気づいたのだった。
出されたのは、使い込まれた小さな木の椀。
そして、黒い点が打たれた、白い三つの小さなサイコロ。
リリィは首を小さく傾げ、不思議そうに問いかけた。
「……はて。皆さん、何を始めるのですか?」
「おっ、リンちゃん知らないのか?」
「へへ、チンチロリンっていう遊びだよ」
男たちは嬉々として説明した。
リリィは可憐な眉を微かにひそめ、少しだけ警戒するように言葉を重ねる。
「……賭博、なのですか?」
「そんな大層なもんじゃないよ!」と、パン屋の店主が豪快に笑い飛ばす。
「見ての通り、銅貨数枚とか、パン一つ、酒一杯賭けるくらいのちょっとしたお遊びさ。ほら、ルールは簡単だ」
男たちが実演してみせる。
椀の中にサイコロを三つ投げ入れ、出た目の組み合わせで役を作り、強さを競う。
かつて数多の複雑な陣形や戦術理論を修めてきたリリィにとって、その基本ルールを理解するのは簡単だった。
「なるほど。三つのサイコロを振り、その出目の組み合わせによって勝敗を決するのですね」
「そうそう! 流石リンちゃん、飲み込みが早いな!」
「どうだい? リンちゃんも一回やってみるか?」
八百屋の店主が軽い気持ちで誘いかける。
リリィは少しだけ思案するように顎に左手を当てると、可憐に微笑んだ。
「……では、せっかくですので。お勉強させてください」
この時のリリィは、まだ誰もが知る「いつもの可愛いリンちゃん」だったのだ。
◇
「では……参ります」
リリィはサイコロを左手に握りしめる。
背筋をピンと伸ばし、まるで敵陣へレイピアを突き立てる直前のような、洗練された綺麗な姿勢で椀を見据える。
男たちがどっと沸いた。
「ハハハ! そんな気合い入れるもんじゃねえよ!」
「もっと気楽にポイッと投げな!」
カラン、と軽やかな音が鳴る。
出目は一、二、三。
「あっ、ヒフミだ! リンちゃんの負けだね!」
「……はて?」
リリィはぽかんとお椀を見つめた。
負けたこと自体よりも、「自分の意図した通りに出目が出なかった」ことに首を傾げている。
「もう一回だ、リンちゃん!」
「……はい。では、もう一度」
二戦目。
リリィは投擲の瞬間、左手首の角度を微修正した。
だが——結果は「シゴロ」を出した相手の勝ち。
「…………」
三戦目。相手の勝利。
リリィの瞳から、完全に甘さが消え去った。
冷徹で冴え渡る、元少将の戦術眼が、最悪の方向へと覚醒を始めていた。
「……おかしいですね」
「何が?」
「先ほどより手首の投擲角度を三度高くし、初速を二割遅くしたのですが」
「ワッハッハ! リンちゃん面白いこと言うねぇ!」
男たちはまだ笑っていた。
けれど、リリィの頭の中では元少将として培った戦術思考が、どうしようもなく間違った方向へ全力疾走を始めていた。
(手首の角度……椀の内壁に当たる第一打の角度……跳ね返り……力加減……。今の投擲では、第一のサイコロが椀の縁に滑り、回転が死にました)
「次は、二寸ほど投擲位置を下げます」
「……リンちゃん?」
当然、そんな計算で確率が支配できるはずもなく、四戦目もあっけなく負ける。
「……なるほど。空気抵抗と、このテーブルの微小な傾き……」
「か、傾き……?」
振り直す。また負ける。
回数を重ねるごとに、「リンちゃん」の柔らかさが削ぎ落とされ、鋭利な刃物のような表情へと変わっていく。
◇
何度も不格好に負け続けるリリィを見かねて、パン屋の親父が苦笑しながらフォローを入れた。
「まあまあ、そんな目くじら立てない立てない。結局さ、こういうのは『運』なんだから!」
ピク……と、リリィの手が止まった。
「……運、ですか?」
「そうそう! どれだけ狙って上手に振ったって、出目なんてどうにもならないからね。 天に任せるしかないんだよ!」
——それが、決定的な引き金だった。
剣技であれば、血の滲むような努力で自身を高めることができた。
戦局であれば、冷徹な分析と配置で不利を覆すことができた。
だけど——この三つの小さなサイコロは、彼女の努力も、鍛錬も、天性の戦術眼も、すべてを等しく嘲笑い、気まぐれな「確率」の中に突っ放してくる。
不敗の姫騎士の、妙なスイッチが完全に押し込まれた瞬間だった。
「……そうですか」
リリィは静かに、お椀の中からサイコロを拾い上げた。
その瞳には、戦場でも滅多に見せなかった妙な闘志が宿っていた。
「では……もう一度、お願いします」
「う、うん……?」
男たちは、彼女から漂う尋常ではない威圧感に、思わず生唾を呑み込んだ。
◇
負ける。
「もう一度です」
負ける。
「……もう一度」
負ける。
「……もう一度お願いします」
また負ける。
最初は賑やかだった集会所から、徐々に笑い声が消えていく。
「リンちゃん……これで最後な?」
「はい」
十分後。
「もう一度です」
「……最後って言ったよね?」
「先ほどの勝負における最後です」
「そんな小さい子供みたいなことを……」
さらにしばらくして。
一人の男が、そっと椅子から腰を上げた。
「じゃ、じゃあ俺……ちょっと便所に……」
リリィの顔がゆっくりとそちらへ向く。
まるで獲物を逃がさない獰猛な動物の視線。
「な、何……?」
リリィはにこりともせず尋ねた。
「……戻ってくるのですよね?」
男の額から汗が一筋流れ落ちた。
「……はい」
「なら、良かったです」
「…………」
その後もカラン、カラン、と無機質な音が静かな集会所に響き続けた。
最初は面白がっていた男たちも、一人、また一人と生気を吸い取られ、ただただ状況に身を任せている。
テーブルの上の蝋燭が短くなり、溶けた蝋がドロドロと滴り落ちていった。
「り、リンちゃん……もう二十回以上やってるぞ……? 銅貨もなくなっちゃったし……」
「では、明日持参します」
「持ってこなくていいから!!」
「投げ方のデータが足りません。最低でもあと百回は振らなければ、出目の傾向を掴めません」
「何言ってるのか全然分からないよ!」
八百屋の店主が泣きそうな声を上げるが、リリィの左手は止まらない。
負けるたびに、彼女の集中力は極限まで研ぎ澄まされていく。
(負け……また負け……。ですが、出目の統計に微かな偏りを感じます……。諦めてはなりません……! 勝利への解は、必ずこの確率の暗雲の中に存在するはずです……!)
すでに勝負の勝ち負けではなく、「運という理不尽を攻略する」という狂気に取り憑かれていた。
◇
重々しい木枠の窓の向こうが、うっすらと白み始めていた。
爽やかな朝の訪れを告げるように、小鳥たちの涼やかなさえずりが聞こえてくる。
集会所の中は、まさに敗残兵たちの地獄絵図。
男たちは徹夜の疲労と、少女から放たれる凄まじいプレッシャーによって魂を抜かれ、ボロボロになって床に突っ伏していた。
そして、中央に座るリリィ。
乱れた金髪、薄い目元の影。
朝日を背に受けながら、怪しい光を瞳に宿し、じっと机の上に置かれているサイコロを見ていた。
収支は——一晩通して、リリィの歴史的大敗だった。
すっかり懐は寂しくなり、貸し借りをつける紙には、不吉な数字がズラリと並んでいる。
朝の光の中で正気に戻った男たちは、あまりの惨状に強烈な罪悪感と恐怖を覚えた。
「り、リンちゃん……まあ、あのさ……ただの遊びだから……」
「そうそう! お金なんて払わなくていいからね!」
「気にすんなよ? ほら、朝だしおうち帰りな!」
男たちは逃げるように立ち上がると、互いに肩を支え合いながら脱兎の勢いで集会所から飛び出していった。
「じゃ、じゃあ俺たち仕事あるから!」
「またな、リンちゃん! 気をつけて帰れよ!」
嵐のように男たちが去り、静まり返る部屋。
開け放たれた扉から、澄んだ朝風が吹き込み、リリィの乱れた金糸の髪を優しく揺らした。
ぽつりと、一人残されたリリィ。
机の上のサイコロから視線を外せずにいる。
「…………」
静かに、左手をぎゅっと固く握りしめる。
敗北を知り、屈辱に震え、だがその奥底で新たな闘志を燃え上がらせる『不敗の姫騎士』の瞳。
リリィは朝日に向かって、静かに誓うのだった。
「……次は、絶対に勝ちます」
その目に光はない。
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