町の英雄
瞼を開けた時、視界に広がったのは清潔感のある白い天井だった。
ツンと鼻を突く薬と消毒液の匂い。
窓から差し込む朝の光が、静かな部屋を優しく照らしていた。
「……ん……っ……」
目を覚ましたリン——リリィは、ヘッケ平原での敗北の後に迎えた絶望的な覚醒とは、まったく異なる感覚の中にいた。
あの時は、なぜ自分が白い部屋にいるのかすら分からず、底なしの絶望の中に沈んでいた。
だが、今回は違った。
どうして自分がここで横たわっているのか、意識を失う直前の記憶がはっきりと頭の中に残っていた。
(……そうです……私は……山賊たちを……)
町を襲った山賊の頭目を退治し、残りの手下たちを追い払ったこと。
そして、激戦のあとに見上げた、どこまでも澄み切った満天の星空。
息を呑むほど美しかったあの夜空が、意識を失う前に焼き付いた最後の光景だった。
あれからどれほどの時間が経過したかはわからない。
しかし未だに全身の筋肉が激しく痛み、失われた右腕の根元が燃えるように熱く疼いていた。
限界を超えて左腕一本でレイピアを振り抜いた代償だった。
(……はて……体中が痛みますね……)
痛みに顔を小さく顰めながら、リリィは体を起こそうと布団をめくろうとした。
——その時だった。
ベッドのすぐ脇から、かすかな寝息が聞こえていることに気づく。
(……え……?)
おそるおそる視線を落とすと、そこには予期せぬ光景が広がっていた。
ベッド脇の床に敷かれた毛布の上で、ひとりの少年——ルカが小さく身を丸め、気持ちよさそうにスースーと寝息を立てていたのだ。
艶やかな髪をした、十歳の少年。
まだあどけなさの残る顔立ちには、深い眠りの色が浮かんでいる。
何度か町の中で見かけたことがあるような、ないような。
そしてなぜか、毛布から伸びたルカの片手はベッドの上に置かれたリリィの左手へと伸び、その人差し指をしっかりと握っていた。
驚きで目を見開くリリィの目の前で、起きたことに気づいた他の子供たちがぽろぽろと小さな歓声を上げた。
「あっ! リンちゃんが起きた!」
「本当だ! リンちゃんだーっ!」
「おはよう! リンちゃん!」
「……っ!?」
部屋の隅に置かれていた丸椅子や床にちょこんと座っていた三人の子供たちが、目を輝かせて一斉にベッドの周りへと駆け寄ってきたのだ。
あまりの突然の出来事に、リリィの思考が途絶える。
山賊たち相手に威風堂々と戦っていたのに、目の前の光景に動揺が隠せない。
その騒がしさに、ベッド脇で眠っていたルカも瞼をこすりながら、うっすらと目を開けた。
「……んぅ……リンちゃん……?」
寝ぼけ眼のルカは、一度緩みかけた手にもう一度力を込め、ぎゅっとリリィの左手の人差し指を握りしめる。
まだ子供らしい手のひらから伝わる、柔らかくあたたかな体温。
指を固く握られたまま、周囲を無邪気な子供たちの笑顔に囲まれ、リリィは完全に硬直してしまった。
「あ……あの……みなさん……?」
どう対応していいのか分からず、誰かに助けを求めるように視線が虚空を泳ぐ。
空洞になった右袖を痛々しく結んだまま、唯一残された左手までルカに捉えられ、動くに動けない。
(……はて……困りましたね……)
胸の中で、いつもの口癖がぽつりと零れ落ちる。
混乱しながらベッドの上で呆然と固まっているリリィ。
すると部屋の扉がギギギと重い音を立てて開いた。
「これこれ、お前たち。リンちゃんはまだ怪我人なんだから、あまり騒ぎ立てるんじゃないよ」
白衣を着た老医師が、苦笑いを浮かべながら部屋に入ってきた。
手には薬草の湯気が立つ煎じ薬の木椀が握られている。
「先生……。これは一体……? どうして子供たちが……?」
助けを求めるように尋ねるリリィ。
老医師は優しい眼差しで目元を細め、トレイを脇の小机に置いた。
「ふふ、どうしてって……君が目を覚ますのを、この子たちがずっとここで待っていたんだよ。昨日からずっとね」
「待っていた……? 私を、ですか……?」
「そうさ。君は今や、このライツの町の立派な英雄なんだからね。……特に、この子にとってはね」
老医師は、未だにリリィの左指を離すまいと握りしめているルカの頭を、優しく撫でた。
「その子の父親は、あの夜山賊に襲われそうになった八百屋の店主だよ。君が命懸けで父親を救ってくれたことを知ってから、ずっと君の側を離れようとしなくてな。夜になっても帰ろうとしないものだから、仕方なくそこに毛布を敷いてやったんだ」
「私……は……ただ……」
「リンちゃん、かっこよかった!」
「ぼくたちのために、わるい山賊をやっつけたんだよね!」
「ねえ、リンちゃん! 腕は痛くないの? だいじょうぶ?」
子供たちが、尊敬と憧れに満ちたキラキラとした瞳でリリィを見上げてくる。
不純物の微塵もない、あまりにも純粋で無垢な眩しい視線の群れ。
かつてドイス国軍にいた頃、周囲から向けられていたのは「不敗の象徴」としての崇拝か、敗北した後の「役立たずの戦犯」。
こんな風に、軍人ではなく一人の人間として純粋な好意と憧れを向けられたことなど、これまでの人生で一度としてなかった。
「あ……えと……その……」
「大丈夫、です……。お気遣いありがとうございます……」
戸惑いを隠せず、顔を真っ赤に染めてモジモジと縮こまるリリィ。
左指を握るルカの体温が、じんと胸の奥深くまで染み渡っていく。
これが、最果ての町ライツで目を覚ましてからの、彼女の新しい『最初の記憶』となったのだった。
◇◇◇
それから、少しの月日が流れた。
ライツに暖かな季節の風が穏やかに吹き抜けていく。
「——よし、これくらいで大丈夫ですね」
山裾にある自宅で、リリィは左手ひとつで布袋の紐を固く結び直した。
町へと買い出しに出かける準備だ。
あの日、山賊の襲来から町を守り抜いて以来、彼女の生活は劇的な変化を遂げていた。
以前なら、買い物は一週間に一度。
黒いフードを深く被り、人通りの少ない時間を選んで必要なものだけを買って帰っていた。
人々の瞳が恐ろしかった。
だけど今は、フードすら被っていない。
金色の髪を風に揺らしながら、リリィは軽い足取りで山道を下っていく。
一週間に一度だった買い物は、気づけば三日に一度になり、二日に一度になり……。
今となっては、「今日は天気がいいから」「少しお散歩がてらに」と、気が向けば毎日でも町へと足を運ぶようになっていた。
町の入り口に差し掛かると、真っ先に目に入ったのは、賑やかな市場の風景だった。
「あ! リンちゃん! 今日も来てくれたのかい!」
露店の奥から声をかけてきたのは、あの日リリィが命を救った八百屋の店主だった。
店主は採れたての瑞々しいリンゴを片手に、満面の笑みで駆け寄ってくる。
「ちょうど今朝、上物の果物が入ったんだ! 持っていきな!」
「あ、ありがとうございます。ですが、今日はお野菜を買いに……」
リリィが丁寧にお礼を言いながら財布を出そうとすると、どこからともなく大勢の町人たちが集まってきた。
「リンちゃん! うちの焼き立てのパンも持って行ってよ!」
「こっちの干し肉も持っていきなさい! スープにすると美味しいよ!」
「じゃあ俺は荷物を運ぶよ!」
「いいや、俺が運ぶ! お前は引っ込んでな!」
「え……? あ、あの……!?」
集まってきた町人たちが、我先にとリリィの抱えていた布袋や、買い求めた品々を手分けして持ち上げようと手を伸ばしてくる。
かつては、片手で重い荷物を抱えてよろめく彼女に、声をかけようとする者は少なかった。
殻に閉じこもっていたリリィを気味が悪いと感じてしまい、手を差し伸べることができずにいた。
だが、今は違う。
「私、自分で持てますから……! みなさん、そんなに無理をなさらないでください!」
「何を言ってるんだい! 町の英雄さんにそんな苦労させられるかい!」
「そうだよ! みんなリンちゃんを助けたいんだから!」
笑顔で荷物を分かち合い、楽しそうに歩き出す町人たち。
その輪の中には、あの日診療所で会ったルカもいて、当たり前のようにリリィの手を握っている。
温かな笑い声と、溢れんばかりの純粋な好意。
「もう……みなさんったら……」
リリィは困ったように眉を下げ、小さな溜息をついた。
右腕は、もう戻らない。
かつて持っていた誇り高き地位も、名誉も、ドイス国軍での未来も、すべてヘッケ平原の泥の中に置いてきてしまった。
だけど——。
空洞になった右袖を風になびかせながら、町人たちの温かな笑顔に囲まれて歩く帰り道。
左手から伝わるルカの手の温もりを感じながら、リリィの胸の奥から、じんわりとあたたかい感情が込み上げてくる。
(……はて……。本当に……幸せですね……)
かつて自分を苛んでいた虚無の口癖は、いまや満ち足りた幸福の言葉へと変わっていた。
困り顔のリリィの微笑みは太陽の光よりも眩しく、花のように可憐で穏やかな——等身大の少女の素朴な笑顔だった。
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