黄金の日々
温かな日差しが降り注ぐ、訓練場の中だった。
「——甘い。足腰がまるでなっていないわ、ユイ」
冷徹な声と同時に、強烈な衝撃が腹部を襲う。
呼吸が詰まり、視界がぐにゃりと歪んだ。
木剣を弾き飛ばされたユイの身体は無ざまに砂煙の中を転がり、そのまま地面へと激しく突っ伏した。
「ふぅ……やれやれ。これじゃあ模擬戦の相手にもならないわね」
呆れ果てた溜息をつき、木剣を肩に担ぎ直すのは、リリィ隊副官のライラだ。
洗練された動き、隙のない佇まい。
自分にも他人にも厳しいライラの言葉には、一切の容赦がない。
(苦しい……息が、できない……)
ユイは砂まみれの地面に顔を押し付けたまま、指一本動かすことができずにいた。
情けなさと苦しさで視界がじわじわと滲む。
どこへ行っても足手まといだった。
どれだけ必死に食らいつこうとしても、いつも周りについていけない。
惨めさに押し潰されながらも、呼吸を整えようとしていたその時だった。
ふわり、と。
土と泥の臭いを覆い隠すように、甘く優しい、可憐な花のような香りが辺りを漂った。
「ふふ、大丈夫ですか? ユイ」
鈴を転がすような、柔らかく澄んだ声。
ユイがおそるおそる顔を上げると、目の前に眩しいほどの金色の髪が揺れていた。
可憐な容姿に、大人びた凛とした眼差し。
リリィがユイの目の前でそっと膝を折り、顔を覗き込む。
「少っ……将……っ!?」
「そんなに落ち込まないでください。ライラは手加減が下手ですから。ほら……せっかくの綺麗な顔が台無し、ですよ?」
リリィは優しげな笑みを浮かべると小さな手で、ユイの頬や額についた砂埃を優しく、丁寧に払ってくれた。
細く滑らかな指先から伝わる柔らかな体温。
その温もりが触れた瞬間、ユイの胸の奥で固まっていた苦しみが、すうっと溶けていくのが分かった。
「ひゃいっ!? し、少将、すみませぇん! 私、また不甲斐ないところを……っ!」
跳ね起きるように立ち上がり、情けない声を張り上げながら慌てて礼をとるユイ。
その必死でどこか滑稽な姿を見て、リリィは小さな手で口元をそっと隠し、くすくすと笑った。
「いいんですよ、ユイ。あなたはあなたのペースで、少しずつ強くなっていけば。私はいつまでもあなたを見守っていますからね」
太陽の光を背に受けて微笑む少将。
その姿は、ユイにとって救いそのものだった。
ユイは今年で18歳になる。
目の前で微笑むリリィは、わずか15歳。
歳の差など何の意味もなさないほど、二人の間には絶望的な「才能の壁」が存在していた。
ドイス王国軍の新兵がまず叩き込まれる軍事訓練校。
そこへ入学したリリィは、入校から一ヶ月も経たないうちに「すでにここで教えるべき技術は何一つ存在しない」と教官たちを脱帽させ、特例中の特例として即座に卒業していった。
歴史に名を刻むレベルの、規格外の天才少女。
しかしユイは、才能のなさから何度も落第しかけ、「怪しげな配慮」によって、通常より半年も長い一年半の在籍を経て、ようやく卒業を許されたのだ。
——入学した当初、周囲の期待は高かった。
『ユイちゃんなら、絶対に一瞬で卒業してエリートコースだよね!』
『だって、あのアスタナ家の血筋だろ? 才能がないわけがないじゃないか!』
同期たちは口々にそう持て囃した。
軍内部に絶大な影響力を持つ名家の威光。
誰もがユイを「約束された天才」として持ち上げた。
だが、現実は残酷だった。
日に日に化けの皮が剥がれ、後から入ってきた後輩たちにまで次々と追い抜かれていく。
『……なんだあいつ、口ほどにもないな』
『コネか? 上層部にパイプがあるからって、よくあんな面下げて残っていられるよな』
手のひらを返したような冷ややかな視線、陰湿な囁き声。
押し潰されそうな劣等感と恐怖から身を守るため、ユイはいつしかへらへらとした自虐的な笑みを顔に張り付けるようになった。
『えへへ、すみませぇん! 私、本当にドジで出来損ないで~!』
自分を傷つけられる前に、自分から道化になる。
だが、そんな自分を押し殺したようなへらへらとした態度は、必死に汗を流す他の候補生たちの神経を逆撫でし、より一層の苛立ちを募らせる悪循環を生んでいった。
孤独と自己嫌悪の泥沼に沈んでいたユイ。
そんな彼女が最後に縋るように希望を出したのが、設立されたばかりの「リリィ隊」だった。
そして——リリィだけは違った。
リリィだけは色眼鏡ではなく、等身大の「ユイ」という一人の人間を見てくれた。
ユイがどんな馬鹿らしい失敗をしても、呆れることなく優しくフォローし、泥臭い努力を認めてくれた。
(ああ……あの黄金の日々が、私は大好きだった)
居場所のなかった自分が、初めて息を吸うことを許された場所。
この気高く強い少女についていけば、絶対に間違いない。
彼女の輝く背中を追いかけていれば、自分のような出来損ないでも、いつか誰かの役に立てるかもしれない。
そう、信じて疑わなかったのだ。
あの、ヘッケ平原の地獄が訪れるまでは——。
——バシャッ!!!
「ぐえっ……!?!?!?」
突如として顔面に叩きつけられた、氷のように冷たい水。
息が詰まり、ユイは狂ったように咳き込みながら跳ね起きた。
「はっ……ケホッ! ヒ、ヒッ……!? げほっ、え……!?」
鼻にツンと刺さる汚水の臭い。視界を覆う、暗く湿った石造りの倉庫。
夢の中の温かな太陽の光も、甘い花の香りも、どこにも存在しなかった。
目の前に立っていたのは、腕を組み、底意地の悪い冷笑を浮かべる数人の兵士たち。
「ひでぇ面。水をぶちまけられただけで、死にかけの魚みたいに跳ねてやがるぜ」
「ギャハハ! おいおい、起こしてやったんだから礼くらい言ったらどうだ、七光りちゃん?」
嘲笑う兵士たちの声が、頭の中でカンカンと不快に響く。
ユイは混乱する頭を押さえ、必死に周囲をキョロキョロと見回した。
「あ……れ……? し、少将……? リリィ少将は……!? 私、少将の補佐を……っ!」
まだ夢の余韻から抜け出せず、すがるような声を漏らした、その瞬間。
「——がはっ!?」
背中に凄まじい衝撃が走り、ユイの身体は前方に蹴り飛ばされた。
受け身すら取れず、石畳の床に顔面から激突する。
床に溜まっていた泥水と土が、口の中に容赦なく逆流した。
「いつまで夢を見ている、さっさと起き上ろ!!」
頭上から降り注いだのは、鼓膜を破らんばかりの怒号。
見上げると、そこにはドイス王国軍・ルカク隊の副官であるサジが、血走った目でユイを見下ろしていた。
「リリィ少将だと……? 貴様、まだそんな寝言を抜かしているのか……? あの戦犯の餓鬼は今頃どこぞのドブ川で野垂れ死んでるわ」
「あ……ぐ……っ」
「いいか、今の貴様はルカク中将に拾われたただの雑用係だ! 本来ならあの戦いの敗戦責任をとられてもおかしくないものを、中将のおかげで命拾いしたと理解できんのか?」
サジは蔑みのこもった視線でユイを威圧すると、汚い唾をペッと床に吐き捨てた。
「いつまでも寝惚けてないでさっさと立て! お前は今から第二倉庫の補給品の点検をしてこい。少しは軍の役に立て!」
周囲の兵士たちが、クスクスと意地の悪い笑い声を漏らす。
「ハハッ、さすが副官殿。容赦ねえな」
「本当だよな、名家のアスタナ家で生まれただけのバカ娘がよ」
「リリィ隊にいた時も、少将の威光で威張ってただけだろ? 本物の戦場じゃ何の役にも立たねえ七光りが」
ひそひそと交わされる、棘のような悪口の群れ。
冷たい地面に突っ伏したまま、ユイは泥と砂で汚れた自分の手を見つめていた。
口の中には、吐き気のするような泥と土の味が広がっている。
顔中が冷たい水と汚物でドロドロに汚れ、惨めで、情けなくて、全身が打ちつけられた痛みで激しく震えていた。
(……ああ)
ユイは、静かに悟った。
ここにはもう、温かな日差しもない。
甘い花の香りも、自分を庇ってくれる居場所もない。
そして何より——
——自分の顔についた砂埃を、優しく払ってくれる人は、もうどこにもいないのだ。
「……あ、あは……あははは……っ」
ユイはすっと息を吸うと、弾かれたように床から跳ね起き、泥だらけの顔にペタリと「いつもの笑み」を貼り付けた。
へらへらとした、自分を殺した自虐の笑み。
目に涙を溜め、泥に濡れた前髪を振り乱しながら、ユイは怒鳴り散らすサジと嘲笑う兵士たちに向かって、腰を何度も折り曲げた。
「す、すみませぇん! サジ副官! 私ったら本当にマヌケで……えへへ、寝ぼけちゃってて! 今すぐ、今すぐ第二倉庫へ行きますからぁ!」
「わかったなら早く行け!」
「はいっ! すみません、すみませぇん!!」
何度も頭を下げ、ぺこぺこと小刻みに謝罪を繰り返しながら、ユイは逃げるように薄暗い倉庫へと走っていく。
顔にへばりついた惨めな泥の冷たさを、張り付けた笑みで隠したまま。
(リリィ少将……)
(ーーいつまでも……)
(ーーいつまでも私を見守ってくれるのではなかったのですか……?)
ユイの後に残る水痕。
彼女の問いに答えるものは、誰もいない。




