第二章
バスは山道をゆっくりと登っていく。
枯れ草の匂いが車内に漂い、暖房のかすかな音だけが響いていた。
信一は、ふと遠い日のことを思い出していた。
あれは、二十年も前のこと――。
東京の雑踏。
夜遅くまで光るネオンサインの下で、信一は工事現場のヘルメットを脱ぎ、汗をぬぐった。
作業着のポケットから出したスマホには、一本の着信履歴が残っていた。
「母さん」
数時間前の発信履歴。出ることも、折り返すこともなかった。
理由なんて、なかった。ただ、忙しさにかまけて放置していただけだった。
翌朝、同僚の「おい、実家から電話だぞ」という声で現場事務所の電話を手に取ったとき、信一の心臓は一瞬止まった。
「親父が倒れた」という声が、受話器の向こうから響いてきた。
信一の心臓が、今でもあの時のように鈍く痛んだ。
あの頃の自分は、何を考えていたのか。
都会の喧騒に紛れ、自分の居場所を必死に探していたつもりだったが、結局は何も得られなかった。
親父が倒れ、村に戻った時には、もう病院のベッドの上だった。
親父の手は冷たく、母は肩を落とし、村の空はあの日も灰色だった。
「なんとなく、か……。」
佐伯は、誰にも聞こえない声で呟いた。
窓の外、冬枯れの田畑の向こうに、あの日と変わらない小さな集落が見えていた。
「佐伯さん、次のバス停で降ろしてください!」
咲の声で、信一はハッと現実に引き戻された。
「ああ……分かった。」
ブレーキをゆっくり踏み込み、バスはカーブの途中で止まった。
咲がノートを胸に抱えて立ち上がると、信一はミラー越しに言った。
「……小田切さん。」
「はい?」
咲が振り向く。
「そんなに気張るな。お前が変えようとしなくても、この村は、なんとかなるもんだ。」
咲は驚いたような顔をして、それから笑った。
「……分かりました。」
ドアが閉まり、バスは再び山道を走り出す。
信一は前を見つめ、ただ無言で、ハンドルを握り締めていた。
エンジンの音が、心臓の鼓動のように、どこか頼もしく響いていた。




