第一章
朝、山の稜線が淡く色づくころ。
佐伯信一は、エンジンの唸りを確かめるようにバスのハンドルを握った。
古びた車体の振動が、彼の掌から体の奥へと響いてくる。
「よし……行くか。」
バスはゆっくりと村の停留所を出発した。
道端には霜が降り、白い息を吐きながら小田切咲が手を振っている。
「おはようございます、佐伯さん!」
「おう。」
短い挨拶の後、咲は座席に座り、ノートを開いた。
彼女は地域おこしのイベント案を考えているようだが、その眉間には深い皺が刻まれている。
「何か悩んでるのか?」
信一はバックミラー越しに咲の表情を覗き込む。
「いえ……。ただ、やっぱり難しいですね。この村で何かを変えるのって。」
「そんなもんだ。」
信一の声は低く、少し掠れていた。
「俺も若い頃、都会に出た時はそう思った。けど、結局戻ってきたんだ。」
「……どうして戻ったんですか?」
信一は一瞬だけ、道路脇に枯れたアジサイの花を見やった。
「親父の看病だ。それが終わったら、なんとなく……な。」
「なんとなく、ですか。」
咲は小さく笑った。
「そうだ。人の人生なんて、結局はなんとなくだ。」
信一は笑みもせずにそう言うと、前を向き直し、バスを走らせた。
山の斜面を縫うように続く道は、今日も冷たい風に吹かれている。
バスの車窓から見える景色は、ただ静かで、寂しくて、それでもどこかあたたかかった。
このバスが止まるたびに、誰かが乗り込み、誰かが降りる。
限界集落の、かすかな命の流れがそこにあった。




