第71話 スペドラの里
地上では温暖な気候であったとしても、空高く舞い上がれば気温も変わる。
ましてや、わずかな明かりとりの小窓しかない石造りの牢の中では、部屋が暖まる理由もなかった。
王都アウレクスの王宮に寄り添う尖塔の最上層。夜の冷気がそのまま保たれ、吐く息は昼夜問わず白い。
息の主はこの塔牢に繋がれた一人の戦士だった。
鎧や鎧下の衣服は奪い取られ、荒い麻でできた粗末な貫頭衣を着せられている。
むき出しの腕や脚は、未だ衰えぬ屈強な筋肉に覆われてはいるが、その表面には生々しい傷が無数に走っていた。
傷は治療もされず放置され、染み出した体液でジュクジュクと濡れている。
戦士は古びた木材で作られた床に座り込み、膝を抱え顔を埋めている。
王国最強と呼ばれたメアウェンも、この過酷な環境に体一つで適応できるほど頑強ではなかった。
(リン……)
あのとき遠目に見えた少女の脚、その前に座り込みうなだれる少年の背中。
大聖祭の護衛を命じられてからメアウェンをずっと悩ませてきた心配が、現実の物となってしまった。
六年ものあいだ、慈しみ、導いてきた愛娘は物言わぬ骸となり、二度とあの花のような笑顔を見ることは叶わない。
そして、もう一人の家族。
(ウィル……君は生きてくれているのか)
霊廟の最奥で意識を失ったメアウェンが目を覚ますと、すでに三人の若者は姿を消していた。
結局あのとき何が起こっていたのかはわからないままだ。
唯一残った目撃者のアルフリクは、ウィルとフローラの罪を訴え続けている。
もちろん、彼ら二人がそんなことをするはずもなく、態度を豹変させた王の姿を見れば、自分たち傭兵騎士団が陰謀の手駒とされたのは一目瞭然だった。
だからと言って、それを覆す証拠は何も無い。
メアウェンの手元に残ったのは、家族を失ったという事実だけであった。
メアウェンの膝を涙が濡らす。
正直、自分がこんなにも涙を流す生き物だとは思いもしなかった。
親しい仲間を失ったこともある。肉親である父母もすでにこの世にはいない。
そのときでも、ここまで悲しみに心を捕らえられることはなかった。
家族。幼い彼らを引き取り、共に笑い、時には叱り、お互い愛し合って生きてきた。
その幸せはメアウェンの元にはもうない。
愛する子供たちはメアウェンの側にはもういない。
本人ももう気づいていた。
自分は弱くなったのではない。弱いから泣くのではない。
戦士として、騎士団長として生きてきた自分が、彼らと出会い、そのとき母という自分が生まれたのだ。
明確な自覚があったわけではない。だが、その心はすでに母となっていたのだということを、こぼれ落ちる涙が証明していた。
メアウェンは顔をあげ、小さな窓からほんの少しうかがえる空を見上げる。
手枷に繋がれた鎖が小さく鳴った。
何もかも諦めたわけではない。側にはおらずとも、家族の一人であるウィルはきっと生きている。
この空と続くどこかに、彼はいる。
転機はかならず訪れる。そのときには何を置いても彼を守るつもりだ。
だが、今は――
重く、重くのしかかる悲しみが、メアウェンの心を縛り付ける。
再びメアウェンは膝に顔を埋めた。
静かな慟哭と鼻をすする音だけが、牢に響いていた。
◇
馬を厩舎に預け、ウィルたちはスペドラの里の広場を歩いていた。
子供たちが何かを投げ、それを木の棒で打ち返している。
何かの遊びなんだろうか。
眺めていたウィルの足元に打ち返された何かが転がってきた。
ウィルは腰をかがめてそれを拾う。見た目ほど軽いものではなかった。
中になにか芯になるようなものがあり、そこに羊毛糸をぐるぐると何重にも巻き付けてある。
形はすこし歪だったが、玉と言っていいだろう。
子供たちのうちの一人がウィルのもとに走ってきた。
「ボール!」
「ぼおる?」
「それ!」
小さな男の子がウィルの持つ玉を指さす。
「ああ」
ウィルは玉を渡してやった。
「ありがと!」
男の子は玉を受け取ると仲間の元へ走っていく。しかし、途中で立ち止まるとウィルの方を振り返った。
「お兄ちゃんたちもやる?」
「え、何を?」
「ベースボール」
「べえ……?」
初めて聞く言葉にウィルが戸惑っていると、先に行っていたドラヴァルに声をかけられた。
「おい、ウィル! いくぞ」
ドラヴァルのほうをちらりと見たウィルは、男の子に向かって手を降る。
「ごめん、お兄ちゃん行かなきゃいけないんだ。また、今度な」
「そっか。わかった! またね!」
走っていく男の子の後ろ姿を見ながらウィルは歩き出す。
「べーすなんとかって名前なのか」
「何?」
ドラヴァルの後を追うウィルの横にセオルが並んだ。
「たぶん、あの遊びの名前。べーすなんとかって」
「初めて聞く言葉だね。ヴェトスの遊びなのかな」
セオルが後ろを歩くフローラを振り返る。
「私も聞いたことないな。スペドラだけに伝わる遊びなのかも」
「そっか」
前を見ると、大きな建物の前でドラヴァルがウィルたちを待っていた。
ウィル達は少し駆け足でドラヴァルのもとへ向かった。
「子供たちと何か話したのか?」
追いついたウィルにドラヴァルが尋ねてきた。
「え、ああ、なんとかって遊びに誘われて」
「そうかい。まあ、あとで遊んでやんな」
そう言うとドラヴァルは建物の扉を開け中に入っていく。
ウィルたちもそれに続いた。
◇
扉をくぐったセオルは中を見渡す。
建物の中には仕切りがなく、大きな広い部屋になっているようだ。
幾人かの人が車座になり床にあぐらをかいて座っている。
そのほとんどが老人だった。
ドラヴァルが足を踏み出すと木の床がぎいと音をたてる。
「おう、カスティガルの爺さんはいるかい?」
セオルたちを置いて、ドラヴァルが遠慮なく部屋に入っていく。
歩みに合わせて床がぎいぎいと鳴った。
「ドラヴァルか。どすどす歩くな。埃がたつじゃろう」
車座の一番奥に座っていた白髪の老人が苦情を言う。
かなり高齢なのか、腰が曲がり、顔には深い皺が刻まれている。見た目的にもこの中では最年長に思われた。ドラヴァルの言うカスティガル翁だろう。
「ああ、すまねえ」
そう言いながらドラヴァルは車座の中に加わり、どすん、と床に座った。
「まったく、悪童はいつまでたっても悪童じゃな」
「そういうなよ。俺ももういい歳なんだからさ」
他の車座のメンバーは楽しそうに笑っている。
言い合いをしながらも、ドラヴァルと長老たちは仲が良いようだ。
「それで。今日はなんの用じゃ」
「今日は客を連れてきた。爺さんたちに確認したいことがあってよ」
ドラヴァルが入口に立ったままのセオルたちに手招きをする。
「お前ら、そんなとこに立ってねえでこっちこい」
呼ばれたセオルたちは恐る恐る車座に加わると、居心地悪そうに床に腰を下ろした。
「紹介すんぞ。一番向こうに座ってるのがフォヴォレナ族のフローラ。その隣がセオル。こいつは人間だ。んで――」
「ちょっと待て! 人間を連れてきたのか? 捕虜なのか?」
「捕虜じゃねえよ。いいんだよ、こいつは。別になにもしやしねえから」
ドラヴァルは軽口で返していたが、聞いていたセオルの額には脂汗が伝っていた。
フェロナルの里では気を使ってもらったおかげで気にせずに済んだが、本来、人間である自分は彼らにとって仇や敵と捉えられてもおかしくないのだ。
ロマなどにも行ってしまったが、敵地と言ってもいいヴェトス国にいる以上、突然捕縛される可能性も大いにありえる。
カスティガルと老人たちがセオルのことをじっと見ていた。
視線が値踏みするように上下に動く。
「まあ、そいつはええじゃろ」
お許しがもらえたようだ。なんとなく侮られたような気もしたが、一旦それは脇においておく。
「んで、こいつがウィル。ヴェトスだがどこの部族の者かはわからねえ。小せえころから旅をしていて、それ以前はおぼえてねえんだ」
ドラヴァルがウィルの名を口にしたとき、場の空気が少し変わったような気がした。
なんとなく覚えがあるような雰囲気だが、いつ感じたものかセオルは思い出せない。
「ウィル」
ドラヴァルがウィルに向かって手を差し出す。
「え」
「剣だよ、剣。お前の剣を貸せ」
言われたウィルが慌てて剣を腰からはずし、鞘ごとドラヴァルに手渡した。
「こいつを見てくれ」
ドラヴァルが近くにいた老人にウィルの剣を渡す。
剣は老人から老人へ手渡され、カスティガルの元へたどり着いた。
カスティガルは受け取った剣を念入りに確かめる。
「これは、近衛の剣……じゃな」
「ああ、そいつはウィルの父親の形見だそうだ。ウィル、お前の父の名は?」
「父さんの名は、タレン」
「なんじゃと!」
カスティガルが大声を張り上げる。
他の老人たちも驚きの表情を浮かべ、口々に何かを言っていた。
「それだけじゃねえ。こいつは族長家の力を使うそうだ」
「なんと……」
長老が呆けたように口を開ける。
「俺の言いたいことがわかるだろう、爺さん」
薄笑いを浮かべるドラヴァルの言葉がカスティガルを現実に引き戻す。
「いや、まだじゃ! この目で見るまでは信じられん! お主、その族長家の力、今この場で儂らに見せてみよ」
興奮しているのか、腰を浮かし立ち上がりかけているカスティガルがウィルに向かって指を指す。
言われたウィルは戸惑いの表情を浮かべていた。
皆の視線を一身に集め、どうしていいかわからない様子だ。
「ウィル」
セオルはウィルに頷きかける。となりでフローラも拳を握りしめ頷いていた。
「そう言えば俺もまだ実際に目にしたわけじゃねえな。ウィル、やってみろよ。その歳ならさすがにもう紋様は扱えるんだろ?」
ウィルがドラヴァル、フローラ、セオルと順に見ていく。その表情が徐々に決意のものに変わると、ウィルは車座の中に一歩踏み出した。
ウィルが魔力の集中を始める。体内の魔力が高まり、周囲の魔力も吸い寄せ巻き込んでいった。
強い力がウィルの中に感じられると同時に、体に淡く光る紋様が現れる。
「おお……」
誰かの漏らす声が聞こえた。
次の瞬間、ウィルの背部から六本の触手がたち現れる。
ゆらゆらと蠢く触手がウィルを守護するように周りを睥睨している。
老人たちは身を乗り出し、ウィルの姿に釘付けになっていた。
「そ、そんなことが……」
カスティガルがつぶやいた。
ウィルは集中を解き、魔力を拡散させる。触手たちは霞のように消え、紋様も見えなくなった。
「なんということじゃ……」
カスティガルが床に手をつき、地面を睨むように見つめている。
「いや、そのことはあとでよい。これは……間違いない。ドラヴァルよ、よく連れてきてくれた」
「な?」
ドラヴァルがニヤニヤと笑っている。
セオルはなんのことかわからず、不可解な顔をしていた。
突然、老人たちが背筋を伸ばし、両手を床につける。
そして、全員同じ速度で深々と頭をさげた。
「よくお戻りくださいました」
カスティガルの声が響く。
「儂らはこのときをずっと待っておりました。ウィル様」
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