第63話 逃走のウィル
「ねえ! ウィル早く!」
玄関からリンの叫ぶ声がする。
ウィルは服のボタンを止めていくが、急かされる声に焦ってしまい、互い違いになってしまった。
一度全部外してやり直さなければならない。
こんなときに限って、指は言うことを聞いてくれない。
「もう!」
一刻も早く出発したいリンは足踏みをしながら、その場でくるくると回っていた。
「ふふ。そんなに急がなくても菓子は逃げないぞ」
それを見たメアウェンは優しく笑っている。
「逃げるかもしれないじゃない! この街に来て、メアがあのお菓子を買ってくれるって言ったのに、テロ事件でお店が燃えちゃって! もう半年よ? やっとお店が再開したんだから! 早く行かないとまたいつお店が閉まっちゃうかわからないもの」
「大丈夫だよ。テロリストはもういないんだから」
「それはそうだけど! この半年もの時間が私にとってどれだけ長い時間だったかメアにはわかってるの!?」
「はいはい、そうだな」
メアウェンは苦笑し、二階のウィルの部屋を見上げた。扉を開けて、ウィルが飛び出してくる。
ウィルは階段を駆け下り、息をきらせて玄関までやってきた。
「はあっ、はあっ、お待たせ」
「ウィル、遅い!」
腰に手を当て、咎めるようにリンがウィルを見る。
「ごめんごめん」
「もう、ウィル! 服くらいちゃんとしなさいよ」
ウィルの服のボタンは互い違いになっていた。何度やってもうまくいかず、結局諦めて出てきたのだ。
「だらしないんだから」
リンがウィルの服のボタンを外し、手早く正しい位置に止めていく。
「なんかリンには全部やってもらっちゃってるなあ」
「当然よ。私のほうがお姉さんなんだから。姉は弟の面倒を見るものよ」
すべてのボタンを止め、リンはパンとウィルの胸をはたく。ウィルが見下ろすと、正しい位置に収まったボタンたちが整然と並んでいた。
「ほら、行こ! メアも早く!」
リンの小さな手が、ウィルの手を握る。玄関の扉が開き、午前中の柔らかな光が二人を包み込む。
右手に伝わる感触は、温かく、それでいてむず痒いような、少し恥ずかしいような感覚をウィルに残していた。
その小さな手はもう動かない。
ウィルは抱いていたリンの亡骸を祭壇に横たえた。傍らに膝をつき、静かに目を閉じるリンを眺める。
赤黒い染みがリンのみぞおちに広がり、胸は呼吸を示す上下運動が見られない。もともと白かったリンの肌は青く、陶器のようだ。
ウィルはリンの左手を手にとって両手で握る。かわいらしい小さな手は、ウィルの手を握り返してくることはなかった。
「……リン……」
祈るようにリンの手を額に押し当てる。涙の雫がリンの手を濡らしていった。
「…………」
小さくなったウィルの背中をフローラは見つめていた。
かける言葉が見つからない。
あの時、竜の咆哮の呪縛によって、まったく動くことができなかった。
知識としては知っていた竜の存在を目の当たりにするとは、まさか予想だにせず、間近に見た恐ろしさは想像を絶するものだった。
少しでも対抗できていれば。
ネクサを牽制し、リンを救うことができたかも知れない。後悔がフローラの心に重くのしかかっていた。
フローラは踵を返し、残りの二人の姿を探す。
アルフリクは教皇聖下のもとにいた。しゃがみ込み、何かを調べている。
教皇聖下はネクサに襲われたときから位置も変わらず、姿勢もそのままだ。きっと駄目だろう。
セオルはネクサの亡骸の傍らに佇んでいた。
二人と因縁浅からぬ女は無惨な姿を晒している。本当は生きて捕らえたかったが、あの場はああなるしかなかっただろう。
フローラはウィンステッド商会に来た時、従業員見習いとして、ネクサに優しく教えてもらった記憶がある。偽りの姿だったとはいえ、その存在はフローラがウィンステッド商会に馴染むのに大きな助けとなった。
憎むべき仇ではあるが、今の無惨な姿には少し心が痛んだ。
「セオル」
フローラはセオルに近づき声をかける。竜の炎の息で溶けた床を踏まないよう、慎重に避ける。
セオルはしゃがみ込み、ネクサの懐から何かを取り出していた。
「それは」
光あふれる神化の秘宝、アウレクスの林檎。
林檎から放たれる光がセオルの顔を照らしている。
「彼女が持っていてはいけない物だ」
セオルの顔にも翳りが見えた。フローラよりも長い時間をセオルはネクサと共有していたのだ。仲も良かったと聞いている。しかし、それは偽りの姿であり、彼女の企みによって両親と叔父を奪われている。
今、セオルの中でたくさんの想いが駆け巡っているはずだ。フローラには何をしてやることもできない。
「祭壇に戻そう」
林檎を持ったセオルが祭壇に向かう。後を追うフローラは振り返り、ネクサの亡骸を見る。亡骸は静かに横たわっていた。
フローラたちの背後で何かが開く音がした。壁の一部が開き鎧姿の一団が部屋に入ってくる。
「お前たち! 無事だったか!」
一団の中から赤い髪の女戦士が飛び出してくる。メアウェンだ。
「団長!」
「セオル、フローラ、無事で良かった。二人だけか? ウィルとリンは?」
「あ……」
フローラの口から音が漏れる。
その表情を見たメアウェンは、彼らの背後、祭壇のようになっている場所に人影を見つける。
座り込むウィルの背中、そしてその前に横たわる少女。
「ま……そんな……」
メアウェンの顔は、最悪の事態を察したことがはっきりと現れていた。
「陛下! 教皇聖下が……」
近衛騎士の声が室内に響き渡る。
国王と騎士たちが教皇の亡骸へ向かっていった。
「なんと……」
事切れている教皇の前で、国王は驚きの声を漏らした。
傍らに立つ聖騎士、アルフリクに問いただす。
「アルフリクよ。何があったのだ。なぜ教皇聖下が身罷られた」
聞いた国王は室内を見回す。崩れた天井、まだ熱く熱を持った床、重なり合うように倒れた大量の何者かの焼死体、首のない巨大な怪物。部屋の中程には首を失った人間の遺体、さらにうずくまるように倒れた聖職者もいる。
何かの騒動があったのは明らかだ。
「それは……」
アルフリクは視線を落とし、教皇の亡骸を見つめる。教皇の半ば開いた目は虚空を見つめ、生気を感じることはなかった。
『お前は用意した策通りに動けば良い。そうすればお前の望みは叶えてやれる』
『私の兄はカエレン! 隊長、私はあなたに聞きたいことがたくさんある。生きて帰って必ず聞かせてほしい。兄の最期を』
『父上、私のことは心配しないでください。私とて父の子。地位がなくとも、この身を立ててみせます。他家に入ったとしても、うまくやってみせます。だから、父上、私のために無理はなさらないでください!』
『その時、こう言えばよいのだ。それだけで良い。それだけでお前もお前の息子も救われる』
「聖下は……魔族に……魔族の手にかかって、命を落とされました! あの少年と少女! 彼らが聖下を手にかけたのです!」
アルフリクの突き出した指は、フローラと、祭壇に居るウィルを指し示していた。
「多くの死体は災厄の魔物たち! あの二人が喚び出したものです! 私と聖下、司教、そしてあそこに倒れる聖騎士はなんとか対抗しようと戦いましたが、奮戦虚しく、私以外の三人は……」
「ばかな! ウィルたちがそのようなことをするはずがない! 一体どんな理由でそのような――」
「だまれ! メアウェン!」
反論しようとしたメアウェンの言葉を遮るように、国王の一喝が響く。
「そうか。あの二人がやったのか。やはり、魔族は魔族。我ら人間とは異なる邪悪な者であるな」
国王アーブリスⅡ世は、憎しみのこもった目でウィルたちを睨めつける。
「陛……下!?」
事態についていけないメアウェンは言葉を失う。
「ヘレワード! やつらを捕らえよ!」
「し、しかし陛下、彼らは傭兵騎士団の団員。メアウェンの部下です。それに彼一人の証言では――」
「だまれ! 余の言うことが聞けんのか! やつらは教皇殺しの容疑者、大罪人だ! それに、調べなど捕らえた後でやれば良い。行け!」
戸惑いながらも動き出そうとした近衛騎士たちに、メアウェンが立ちはだかる。
「お待ちください! 彼らはそのようなことをする者ではありません。私は彼らが小さな時から面倒を見てきました。教皇聖下を手にかけるなど、彼らにはそんな理由は――」
「そうか、メアウェン。やつらを育てたのはそなただったな。そなたにも調べを受けてもらうぞ。そこで大人しくしておれ!」
大人たちが激しく言い争う後ろで、フローラは状況を飲み込めないでいた。
教皇を殺したのはネクサだ。アルフリクもそれは見ていたはずだ。なのに、なぜ私たちが殺したことになるのか。
混乱しているフローラの横にいたセオルが、小声で話しかけてくる。
「(ここから逃げよう)」
セオルは物入れから取り出したあるものを、気づかれないよう手に隠してフローラに見せる。
それは、セオルとフローラが協力して開発した魔法具、魔法街の親方に作ってもらった音弾だった。
「(たぶん、僕たちははめられたんだ。国王陛下は反教皇派とグルだった。最初から教皇様を殺して、僕たちに罪をなすりつける計画だったんだ)」
そう言うと、セオルは自分の耳を指し示す。そこには音弾とともに開発した、静寂の耳飾りが光っていた。フローラももちろん自分の耳に装着している。
フローラは振り返り、ウィルを見る。この騒ぎの中でもウィルは意に介さず、リンの亡骸を見つめていた。
「(ウィルは担げばいい)」
「(メアウェン団長は!?)」
「(メアさんなら大丈夫だよ。アルドさんたちもいる。自分たちで切り抜けてくれるよ)」
セオルは静寂の耳飾りを起動する。頷いたフローラも耳飾りを起動し、自分の分の音弾を取り出した。
二人でタイミングをあわせ、起動した音弾を投げつける。
炸裂した音弾はその中に封じられた音爆魔法を発動する。大音量が発生し、その場にいる者たちの鼓膜を打った。荒れ狂う音波が壁や天井に跳ね返り、その威力を何倍にも増幅させる。
音が収まった頃には、部屋で立っているのはセオルとフローラだけになっていた。
セオルが静寂の耳飾りを止める。
「ウィルの元へ!」
フローラとセオルは祭壇に駆け寄る。ウィルはリンに覆いかぶさるように倒れていた。
セオルがウィルの体を担ぎ上げる。
「リンは?」
フローラは踵を返したセオルの背中に声をかける。
「リンは連れていけない。エルフはきちんとした弔いをしないといけないだろう? フェイさんにまかせよう」
セオルはウィルを担ぎ直すと、天井が崩れた区画に走っていく。
追いかけるフローラは、振り返り倒れている騎士たちを見る。白銀の聖騎士の鎧を着た男は教皇の遺体の前に突っ伏していた。
兄カエレンを手に掛けた男。そして最後の最後に自分たちを裏切った男。怒りの感情がフローラの心を駆け巡る。
「フローラ!」
天井から差し込む光の中でセオルが呼んでいる。
今はこの感情を解放するときではなかった。
「私は……あなたを絶対に許さない!」
宣言したフローラはセオルと合流し、自己強化魔法を使って天井の穴から出ていった。
本話で第二部 神の残影は終了です。
次回からはまた閑話を挟み、第三部へ進みます。
逃亡者となったウィルたちはどうなるのか。引き続き、ウィルたちにお付き合いよろしくお願いします。
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