第62話 ネクサの最期
ネクサの胸から吹き上がった血飛沫は高く舞い上がり、ウィルの頬を赤く濡らした。
「あぁっぁぁあぁぁあぁぁあぁあぁああああああ」
血飛沫とともに吐き出されたネクサの喘ぎが響き渡る。
一歩、また一歩と後ずさったネクサは、力尽きたのか片膝を床につきがっくりと肩を落とした。
息を吸い込むことも苦しいのか、荒い呼吸音とともに喉がひゅうひゅうと鳴っている。
「み……みと……認めない……こ……こんな……」
土煙の中から姿を現したウィルが、腰の物入れから魔法縄を取り出す。
「終わりだ、ネクサ。大人しく縄につけ」
「こんな程度の傷ッ! 神化すれば!」
ネクサが絶叫とともに立ち上がり、体を大きく反らす。
「やめろ! それ以上動くと傷が――」
「うああああああああっ!」
傷から流れ出る血が突然渦を巻くようにネクサの周囲に群がり、その体にまとわりつきだした。
「!?」
血液はネクサの体に付着し、赤く染めていく。肌についた血は紋様に吸収され、魔性とも思える赤い輝きを放った。
「神の力をッ!」
ウィルが瞬きした一瞬の隙にネクサの姿が掻き消える。
「どこだ!?」
「ウィル! あそこ!」
リンの叫びに振り向いたウィルが見たのは、祭壇に立ちアウレクスの林檎を鷲掴みにするネクサの姿だった。
「ネクサァッ!」
ウィルとリンは祭壇に駆け寄る。そこに災厄の魔物を倒したフローラ、アルフリク、セオルも合流した。
「こんな所で神化する羽目になるなんてね。あなたたちを始末して、あとでゆっくり神になるつもりだったのに」
左手で林檎を掲げ持ったネクサが大口を開けて、林檎にかぶりついた。
ごりごりと咀嚼し、林檎のかけらを飲み込む。
「ああっ」
ネクサの体から閃光があふれだす。体を折り曲げ、力の奔流にネクサは耐えているようだ。
「やはり――神……の力は……凄まじい……ああッ」
荒れ狂う力がネクサの体内を暴れ回っている。前かがみになったかと思えば、大きく反り返り手足を引きつるように伸ばしている。
「神に……なるというのか」
誰かのつぶやきが聞こえた。
一通り暴れたあと、ネクサはぴたりと動きを止めた。
跪いていた体をゆっくりと持ち上げ、起き上がる。うなだれたネクサが語りだす。
「……たった一欠片の林檎。それだけでこれほどの力が……すべてを受け入れるには時間がかかる。でも――」
頭を持ち上げ、ウィルたちを睨みつける。その胸には先程ウィルにつけられた傷は微塵もない。
「お前たちを殺すには充分よ!」
「ぐっ」
ネクサから強烈な魔力の波動が吹き出す。それはまるで物理的な圧力があるかのごとく、ウィルたちの足を下げさせた。
「今ならこんなこともできるのよ」
軽く上げた右手から、何かが発動する気配がする。それは先程から何度も見た技だった。しかし――
「大きい!?」
現れた闇の門はこれまでのものより遥かに大きなものだった。
漆黒の闇に沈むその中心から、これまで感じたことのない強い圧力が伝わってくる。
「あんなものから一体何がでてくるんだ……」
アルフリクの声には恐怖の感情が混ざっていた。
少しして姿を現したのは巨大な鉤爪だ。見える範囲でもウィルの肩ほどの高さがある。
そこから続いたのは赤い鱗に覆われた筋肉質の指と太い腕。トカゲのものに似ているが規模感がまったく違う。
「あ……まさ……か……」
フローラの怯えた声が聞こえる。
「フローラ、何か知ってるの?」
セオルが尋ねる。
「知ってる、けど、あれが本当にそうなら、今すぐ逃げないと駄目だよ!」
フローラの恐怖にまみれた絶叫と呼応するように、鉤爪の持ち主がその威容を現した。
鱗に覆われた全身は赤く艷やかに光り、力強い四肢は置いただけで床石を踏み砕いた。長いくちばしのような口吻にはウィルの足ほどの長さの鋭く大きな牙がびっしりと並んでいる。
頭の高さはウィルの三人分よりも高く、大きな翼と太く長い尾を最後に引き出した。
「やっぱり、あれは竜……」
フローラが口にしたその名は神話に語られる魔物の名であった。ウンブリオン神の反乱の際に呼び込まれた魔物のなかで最も危険とみなされた怪物。
神話に語られるところには、現れた三体の竜によって、多くのヴェトスが殺され、討伐には多大な犠牲を支払わなければならなかった。
その痕跡は今も大陸の西に巨大な湾として見られるという。
「それって……」
「神話に出てくる魔物だよ! 逃げなきゃ駄目! あんなのに勝てっこない!」
「しかし……逃げることが叶うのか……」
アルフリクの握りしめられた拳が震えている。それはウィルたちも同じだった。
ほとんどの生き物はその姿を見ただけで、動けなくなってしまうだろう。圧倒的な力、そして殺気、本能で感じ取ってしまうそれらが、気力をも失わせてしまう。
竜が一歩踏み出すだけで、床は砕け、地面が震えた。振るわれた太い尾が壁や天井にぶつかる。天井がガラガラと音を立てて崩れ、外の光が差し込んだ。
舞い上がる土煙の中、悪魔のような双眼が怪しく光る。
その目がウィルたちを認めると、竜は首をもたげ、大きく息を吸い込んだ。
目一杯吸い込まれた空気が、大きく開けた口から大音声の咆哮としてウィルたちに叩きつけられる。
竜の咆哮。魔力を含んだ咆哮によって、獲物の精神に干渉し、その魂をも砕くと言われる、神話でも頻繁に記述されている竜の大技だ。
「う……あ……」
真正面から浴びたウィルたちの体は、その場に縛り付けられた。指先一つ動かすことができないのは、魔力による強制ではなく、咆哮によって気力を根こそぎ削がれてしまったためだ。
「だからと言って、そちらにばかり気を取られているから」
不意にウィルの耳元で囁く声がした。耳に吹きかかる吐息と殺気。
引き伸ばされた時間の中で、ウィルは無人の祭壇を見た。先程までそこにいたはずのネクサがいない。
そして察した。ネクサが自分の背後に居ることを。不可視の剣の鋭い切っ先が自分の心臓の真裏に突きつけられていることを。
――間に合わない。
体は動かず、魔力を集中する時間もない。目まぐるしく駆け巡ったウィルの思考は、答えを導き出すことが出来なかった。
「さようなら」
そのあと訪れた衝撃はウィルの予想とは異なるものだった。
弾き飛ばされた体が床に打ち付けられる。痛みによって体の自由を取り戻したウィルが、振り向き目にしたのは、不可視の剣に貫かれた、リンの姿だった。
「あら」
ネクサは目論見とは異なる結果に驚きの言葉を残し、不可視の剣を引き抜く。
支えを失ったリンの体がどう、と地面に倒れた。
「リンッ!」
立ち上がったウィルがリンのもとに駆け寄る。リンの周りには流れ出した血液が湖のように広がっていた。
ウィルは血の海からリンを抱き起こす。
「リン! しっかりしろ! リンッ!」
リンの白い肌は血の気が引き、青くなっている。その美しい瞳はすでに光を失っていた。
「リン!」
「ウィ……ル」
「リン、今助けてやる! ポーションをかければこんな傷――」
「勝っ……て……」
「リン!」
「きっ……と、ま……」
リンの唇はもう動くことはなかった。
「順番が変わっただけよ! お前も一緒に逝きなさい!」
跪いたままリンを抱きしめ、動きを止めたウィルにネクサが不可視の剣を振り上げる。
『竜が!』
ルーセリエンの叫びにネクサが振り返る。見ると竜の口に真っ赤な炎が湛えられていた。
「ちっ」
ネクサは影渡でその場を離れる。次の瞬間、竜の口から白く輝く炎が吐き出された。
超高温の炎はプラズマと化し、一本の太い柱のようになってウィルたちに襲いかかる。
白く輝く炎の息はウィルとリンに直撃し、二人を包みこんだ。
熱線が床を溶かし、ドロドロの溶岩となる。その熱量に周囲は陽炎のように景色が歪んだ。
「ふふ。手間が省けたわね!」
ネクサの声が高らかに響き渡る。
長く、一瞬の間の熱線の照射は、あとに何も残さず、ウィルとリンを骨の髄まで焼き尽くしたはずだった。
しかし、熱線が通り過ぎたその跡に――
「なんだ、あれは」
驚いたネクサが目にしたのは、大きな白い繭であった。
繭はゆっくりとほどけ、その正体を顕にする。
一対の純白の翼が広がり、はらり、はらり、と羽毛がこぼれ落ちた。
立ち上がったウィルがその視線を神話の魔物に据え付ける。
腕に抱いたリンの遺体を落とさぬためか、ゆっくりとした歩調で竜に向かっていく。
輝く翼とウィルの体から溢れ出る神気は、竜の体に絡みつき、その精神に侵食していった。
畏怖。竜が生まれて初めて覚えたその感覚は、その巨体を縛り付け、動くことを許さなかった。
ウィルの翼が無造作に跳ね上げられる。
その軌跡は竜の首に一筋の線を走らせ、そこから切断された竜の頭が高く宙を舞った。
どごん、と鈍い音を立て、落下した竜の頭が石床を砕く。頭を失った体は崩折れていった。
「ば、ばかな」
目の前の光景が信じられないネクサは、こちらを振り向いたウィルと目が合う。
光を湛えたウィルの瞳は、怒りとも悲しみとも言えぬ感情にあふれていた。
「し、神話の魔物だぞ……それを一撃で!」
ネクサは両手に溢れる魔力を集結させる。神の力によって大量に集められた魔力が魔砲となって、その掌から撃ち放たれた。
虹色の光条がウィルに向かってひた走る。しかし、数百の人を一度に殺せる威力を持った魔砲はウィルを包みこんだ翼によって、あっさりと防がれた。
「え……えぇぇぇい!」
影渡を発動したネクサが、ウィルの背後に回り込む。
渾身の力をこめて突き立てた不可視の剣は、輝く翼を貫けず弾かれてしまった。
「そ、そんな……」
勢いよく振るわれた翼が、唖然とするネクサを強く打ち付ける。
大きく飛ばされたネクサは石床に叩きつけられた。
「ぐ……」
痛みに喘ぐネクサは、起き上がりウィルを見る。
ウィルはゆっくりとこちらに向かって歩いてきていた。
――勝てない。
林檎一欠片分の力ではあの少年の翼を打ち破ることはできない。
逃げるしかない。逃げて残りの力を取り込んだ上でなければ、やつを倒すことは出来ない。
部屋の隅、天井が崩れて光が差し込む場所をチラリと確認する。あそこから外に出られるはずだ。ここからなら、影渡を二、三回発動すればたどり着ける。
影渡の速さなら追いつかれないはずだ。
「ぐぷっ」
ネクサの腹から何かが生えていた。血に塗れたそれは槍の穂先のように見えた。
「逃さないぞ」
背後からセオルの声がした。竜が死んだことによって呪縛から解かれたらしい。
「セ……オル……」
吐き出した言葉が消えた頃にはすでに目の前にウィルが立っていた。
静かな視線がネクサを見ている。
翼が無造作に振られる。ネクサの首にドンという衝撃が走った。
意識を失う前にネクサが最期に見たのは、神々しく輝く、一対の白い翼を宙から見下ろす光景だった。
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