九十四頁目 魚を食べたくなったのです
「魚が食べたい」
ダンジョンを踏破してから二週間と少しが経った頃、ふと、そんな事を思って、口にした。
魚が食べたい。新鮮な海の幸が。
実家が海沿いの県にあった故に川魚よりは海魚の方が馴染みがあったし、頼もしき鬼灯家の兄姉を頼っては海の幸を送ってもらったりしていたのもあって、オレの口や胃袋は、海の魚を欲していた。
日本人なら、あるいはオレの気持ちも理解出来るのではないだろうか。
ある時、不意に、心に沸き上がるのだ。
『あ、なんか魚喰いてぇな』って。
しかしながら、新鮮な海の幸をいただくにあたって、この異世界では弊害がある。
まず、醤油がない。あるところにはある……んだろうが、少なくともオレは見てない。
それから、山葵も見てない。醤油は……まあ、百歩譲って魚醤あたりで妥協するとしても、やはり山葵がなくては始まらないだろう。
そして何より、米がない。
オレは、主食といえばパンかご飯かと訊かれたら、迷いなくご飯だと答えるご飯党だ。
新鮮な海の幸となれば刺身はもちろん、海鮮丼や寿司だって食べたいと思うのが極東の島国出身者というものだろう。
……まあ、多少偏見入ってるけど。
とにかく、異世界に来てからというものパンや肉ばかりで、食卓に変化が欲しいわけである。
そう考えたのが、つい昨日の事。
「――というわけでシグナート伯爵。ここから行ける港町というのは、どこなのでしょう?」
現在、シグナート伯爵邸。
ダンジョン踏破者に与える褒賞について話が纏まったので是非屋敷に来て欲しいと言われ、やってきた次第である。
随分長いことかかったな、とは思うが、それは言わないのが大人というものだ。
「港町か。……ふむ。ここから行ける、となると、やはりナルビクだろうか」
「ナルビク?」
昔やってたMMORPGに、そんな名前の街があったような……しかも港町で。
「うむ。港町ナルビク……ロガ王国に幾つかある港町の中でも、特に大きな港町だ。……まあ、残念な事に、魚を新鮮なままに輸送する事が叶わないから、依然ナルビクのみで消費されてはいるがね」
「それは……しかし、魔導具などでどうにかならないものなのでしょうか?」
「確か、以前に王城の魔導師グロリア殿が実験をしておられたようだが……。鮮度を保つ保存方法として氷魔法が着目されていはしたのだが、如何せん、流石のグロリア殿でも氷魔法の習得には至らなかったようなのだよ」
ふーむ……なるほど?
まあ、水揚げされたばかりの魚介の鮮度には負けるとは言え、冷凍保存は確かに効果的だ。
着眼点は悪くない。
ただ……やっぱり氷魔法はネックになるわけか。オレやルキナ、キャスタリアなら……今ならばそれはパス出来るんだろうが、グロリアでは難しかったか。
「では、それがパス出来たのなら、ナルビクから魚介を輸送する事は可能なのですか?」
「あるいは、それも可能かも知れない。……まあ、生憎私は魔法はあまり得意ではないので、ホオズキ男爵――ああいや、伯爵が望むような答えは出せないがね」
ははは、と笑いながらシグナート伯爵は言った。
……今、なんて言った?
「……あの、シグナート伯爵? つい今しがた、聞きなれない言葉が聞こえたような気がしたのですが……?」
「む? そうかね?」
「ええ。私が聞き間違えていなければ、今、『ホオズキ伯爵』と言いませんでしたか?」
「……ああ! うむ、そうだ。実は、その話をするために呼んだのだよ」
「はあ……いえ、ダンジョン踏破者への褒賞が決まったからと呼ばれたのは承知しているのですが、しかし……」
一体いつ陞爵されたのだろうか。
仮にこの二週間ちょっとで陞爵が決定したのだとして、何が二段階陞爵に繋がる功績だったのだろう……?
ダンジョン踏破? いやいや、それは別に貴族としての功績じゃない。
十傑衆の打倒? それも違う気がする。それは貴族には関係ないはずだ。
……じゃあ、なんなんだ?
「さしものホオズキ伯爵も些か混乱していると見るが、如何かな?」
「ははは……ええ、まあ、そうですね。冒険者としての私や武人としての私なら、評価される事の一つや二つはありそうなものですが、貴族としてとなると、ちょっと……」
「ふふ。まあ、そうだろうな。いやなに、別段、貴族としての功績が認められたとかではないのだよ」
「……では、何故?」
「うむ。この度のダンジョン踏破において、その褒賞をどうするべきかギルドマスターと協議した結果、ホオズキ伯爵の冒険者ランクをSまで引き上げる事になった」
「……なんとも、実感の湧かない話ですね」
「まあ、そうだろう。そして、同行した私の娘を含めた十傑衆の女性達と、ホオズキ伯爵の部下達をそれぞれAランクまで引き上げる運びとなったわけだ」
……ふむ。まあ、妥当と言えば妥当、なのか?
一応『ダンジョン踏破パーティ』なわけだし、不思議な話ではないとは思うが。
いやしかし、どうしてそれが陞爵の話と関係してくるんだ? このタイミングで話したって事は、全く関係ないどころか、むしろ陞爵の原因みたいな感じだと思われるが……なんだろ?
「それでな。そうしてランクを上げるのは良かったのだが、ここで待ったをかけたのが国王陛下でな」
「……陛下も話に参加しておられたのですか」
「うむ。それで、ランクを上げるのはまあ良しとして、Sランク冒険者でも爵位が男爵位では、不埒な輩が妙なちょっかいをかけて来ないとも限らないという話になったのだよ」
ああ、なるほど。そう繋がるのか。
アルグスタ王はオレが『勇者』だって知ってるから、その行動を阻害するような事はなるべく起きて欲しくないわけだ。
だから、例えばオレの事をよく知らない貴族が、オレは所詮は名誉男爵だからとちょっかいをかけて最悪囲い込んだり、悪辣な事をしたりしないように、爵位を上げておいそれと手出し出来ないようにしたわけだな。
……でも、それならそれで、オレに一報あっても良くない?
当事者の与り知らぬところで話を進めるのは、ちょっとどうかと思うんだよ。
まあ、貴族方面はあんまり気にせずにやってきたし、今さらだとは思うけど。
「とはいえ、だ。ホオズキ伯爵。恐らく伯爵は、陞爵した事で貴族的責任を負う事になる、と考えているだろう」
「……まあ、そうですね」
「うむ。伯爵ともなれば領地を受け取り、そこを治めながら生活するのが普通だ。それこそ、私とこのローザロッサのようにね」
「そうでしょう。……しかし、そういう言い方をなさるという事は、違うのですね?」
「然り、だ。……これは今のところ、ホオズキ伯爵と親交の深い者にしか明かされてはいないのだが……陛下より、伯爵が今代の勇者である、と通達があった」
周囲を警戒するように視線を巡らせた後、声を潜めてシグナート伯爵は言った。
事ここに至ってはむしろ隠しておく方が難しいと考えて、限定的ではあるがアルグスタ王も踏み切ったんだろう。
『何故セツカ・ホオズキばかりに目をかけるのか』なんて突かれたらたまらないからな。
恐らくエドガーの進言やグロリアの提言もあったんだろうが、よく踏み切ってくれたと喜ぶべきだろう。
「なるほど。ついに、ですか」
「うむ。だが、今までと対応は変えるなとの事だ。勇者だと知って取り入ろうなどと画策すれば、逆に滅ぼされかねないから……とな」
「ははは。余程悪辣でなければ構わないんですがね。それこそ、そうした腹芸が上手くなくては貴族などやってはいられないでしょう?」
「うむ、確かにな。……いやしかし、これで私も一つ安心出来たというものだよ」
「……と、言うと?」
「いやなに、愛する娘が嫁ぐのが一代貴族というのは、父親としては少し……な」
そう言ってお茶目に笑うシグナート伯。
「それこそまだわからないでしょう? シエスタだって多感な時期の女の子ですから、私以外の男を見初めるかも知れませんよ」
「ははは。まあ、その辺りは確かにな。だが、ホオズキ伯爵。私は、正直に言ってしまえば、伯爵にこそ娶って欲しいのだよ」
「それは……。しかし、何故です? シグナート伯爵と話す機会は、今日を含めても片手で数える程しかなかったではないですか」
「うむ。これは私の願望が多分に入っているから、あまり人に話すべき事ではないのだが……」
願望が多分に入っている……?
なんだろう。オレって、そんなにシグナート伯爵に気に入られてるのか?
……でも、なんで?
「ホオズキ伯爵は、私の気に入っていた紅茶を気に入ってくれたようだからな。残念な事に長女と次女の夫は気に入ってくれなかったのだ」
「……それが理由、ですか」
「うむ! あの味のわかる息子と共に茶会をするのが、私の願いなのだよ!」
心底愉しそうに、嬉しそうに笑うシグナート伯爵。
なんというか……ちょっとクセのある人に唾を付けられた感は否めないが、結局はシエスタ次第だからなぁ。
オレ自身は今のところ『そういう相手』は見初めてないし、なるようになるの精神で旅を続けよう。
ケ・セラ・セラ……ってな。
それはさておき、とりあえず次に行く場所は決まったな。
港町ナルビク……どんなところなんだろうな。
ミラさんが来るまでまだ時間はあるし、せいぜいワクワクを高めておこう。




