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八十七頁目 新たなる住人


「――っはぁ、はぁ……っ!」


 今度こそ本当に目を覚ましたオレは、自分が汗をびっしょりとかいているのと、まるで長時間の肉体労働の後のように全身の筋肉がパンパンに張っているのを感じた。

 同時に多大な疲労感をも覚え、これ以上は身体を動かしたくないとさえ思ってしまう。


 ただ、それは地球にいた頃から考えても久しぶりの感覚で、懐かしい感覚とそれによって思い起こされる記憶に、思わず笑みが零れた。


「ははっ……。こんなの、何年ぶりだよ……」


 今でこそ鬼灯流道場の師範として教鞭を振るうために、母さんとの鍛練も軽いものになっているが、昔は『これ以上は動けない』というくらいになるまで、母さんと斬り結んでいたものだ。


 鬼灯零華。

 愛すべき母にして、世界中探しても間違いなくこの人だけだと断言出来る、掛け値なしの『最強』の存在。


 そんなのと、地球にいる頃は毎日斬り結んでいたというのだから、自分の精神はどこか壊れてすらいたんじゃないかとさえ思えてくる。

 いや、至って正常だけどね。たぶん。


「はぁ……風呂入るか……」


 だんだんと冷えて乾きつつある汗をかいた身体にちょっとげんなりしながら、オレの上で静かに眠っているアナを起こさないように気を付けながら上体を起こし、姿勢を変えてソファに座る。


 しかし、どうしたもんかな……。

 珍しくアナが甘えてきたから、多分このまま風呂に行って、その間に起きたらちょっとしたパニックになりそうだ。

 アナのそういうシーンは見た事がないが、普通、いたはずの人間が消えていたら、誰だって混乱するだろうし。


「…………あ」


 そういえば、紅葉達がいたじゃないか。

 顔合わせは終わってるし、任せても大丈夫だろ。


「紅葉」

「お呼びでしょうか、刹華様」


 驚いた。刹那の出来事だった。

 まるで最初から、気配を完全に殺してそこに居たかのように、オレの真後ろ、すぐそこに、紅葉の気配が現れた。


 これが鬼人族侍女頭の力か……!

 なるほど、これはなかなか侮れない実力を備えているらしい。


「汗をかいたから風呂に入ってくる。あまり長風呂はしないつもりだが、その間のアナを任せたい。起きて誰もいなかったら、混乱するだろうしな」

「畏まりました。風呂の世話に二人ほど付けましょうか?」

「いや、いい。地下の改装もまだだろうし、自分で出来る事は最低限自分でやるさ」

「ご立派な心構えかと。では、アナ様の事はこの紅葉にお任せください」

「ああ、よろしく頼む」


 アナを起こしてしまわないように気を付けて、ソファからそっと立ち上がり、アナの身体をソファにあずけておく。

 今まで言われた事ないけど、今起きられたらきっと『どこ行くの?』って服を掴まれそうだ。


 最後にアナの髪を軽く撫でて、紅葉と目を合わせて『よろしく頼む』と送ると紅葉は目礼を返してくる。

 アフターフォローも置いたしこれでひと安心という事で、早速風呂に向かう。


 この屋敷の……というか、我が家の風呂は、屋敷を買ってすぐの時とは違い、少し改良してある。

 貯水タンクと魔導具を利用した上下水を浴槽とは別にもう一つ設けて、シャワーと蛇口を地属性魔法によって作成アンド取り付け。

 そして自然魔法を利用して、木製の、温泉にあるような椅子と桶を自作してある。


散切(ざんぎ)り頭は叩いてないが、文明開化の音は聞こえてくるかな」


 願わくば、この浴室もこの世界のワールドスタンダードとなりえる事を。


「……しかし、嫌な汗だな。まとわりつくような汗なんて、いつぶりだ……?」


 そんな事を呟きながら着ている服を脱ぎ、浴室に入る。

 予定外の入浴だから浴槽に湯は張ってないが、まあ、汗を流すくらいならシャワーだけで充分だろう。

 早速蛇口を操作してシャワーヘッドから温水を出し、頭から流していく。

 どうでもいい話ではあるが、個人的にシャワーの温度は四十度近い熱めの温度が好みだ。冬場はもちろんの事、春や夏であっても構わずその温度。厳密には三十九度とかそれくらい。


「……はぁ、気持ちいいな……」


 思わずそんな言葉が漏れる。

 もしこれがアニメとかなら『男のシャワーシーンなんか誰得なんだよ!』と半ばキレているところだが、まあ、それはそれ。


 ともあれ、本格的に湯に浸かるわけでもないので、頭のてっぺんから足の先まで汗を流せたなと思ったところで、シャワーを止めて脱衣場に戻り、常に置いてあるタオルを一つ取って全身の水分を拭き取り、インベントリから適当な服を取り出して着替える。

 まあ、色の好みの面と、オレがオレ自身のオシャレにあまり頓着しないのもあって、相も変わらず上下黒一色なのだが。


「うん、さっぱりしたな」


 パンツとズボンはすぐに穿いたものの、身体に残る熱気を少し冷ます為に、上は着ずに首にタオルをかけて風呂場から出る。


 いやはや、やっぱりまともな風呂に入れるってのは良いもんだな。

 王都での大衆浴場も悪くはなかったが、あれは正直、海水浴場にあるシャワー室みたいな感じだからなぁ。満足感が違うんだ、満足感が。


「あっ……」

「ん?」


 そうして風呂場から半裸のままにリビングまで戻ると、オレがシャワーを浴びている間に来ていたのだろう、眼鏡をかけたデキるキャリアウーマン然とした女性と目が合った。

 今は少し驚いたような表情をしているが、雰囲気は間違いなく『デキる女』のものだ。


「ようこそ。どちら様で?」

「……失礼しました。私は――」

「ああいや、座ったままでいい。いちいち立ったり座ったり、面倒だろ?」


 一人掛けのソファに座っていて、咄嗟に立ち上がろうとした彼女を制止して、そのまま座らせる。

 半裸で話し掛けて先に礼を失してるのはオレの方だからな。最早失礼も何もない。


「こんな格好で悪いな。ちょっと風呂入ってたもんで」

「いえ……」

「それで、あんたは?」

「申し遅れました。私はマリス。シグナート伯爵の紹介を受けて参りました」

「シグナート伯爵……ああ、なるほど。じゃあ、あんたが頼んでたヤツか」


 一瞬、ん? と思ったが、シグナート伯爵に十傑衆打倒の褒美にと要求していたのを思い出した。

 にしても……マリスか。

 魔の力で超強化されたみたいな名前だな。


「まあ、何にしてもよく来てくれた。一応確認しておきたいんだが、うちにはこのアナみたいな亜人やハーフエルフ、ダークエルフに……今日来たばっかりだが鬼人族もいる。それは承知の上でここにいるんだよな?」

「もちろんです。……流石に鬼人族に関しては知りませんでしたが、ホオズキ男爵は人種の違いで差別をしない、というのは聞き及んでいます」

「そうか。ま、それは何よりだ。仕事についても話は通ってると見ていいのか?」

「はい。屋敷の使用人を取り纏める人材を、との事でしたが……」

「ああ。だからまあ、鬼人族を纏めて貰う事になる。鬼人族に関してはオレよりこっちの紅葉のが詳しいから、二人で意見擦り合わせてくれ」

「わかりました」

「畏まりました。よろしくお願いいたします、マリスさん」

「呼び捨てで構いません。ホオズキ男爵もそのように」

「ん、わかった。オレもホオズキ男爵なんて呼ばずに、刹華でいいぞ。様とか付けなくていいからな」


 まあ、鬼人族の面々はそれでも『刹華様』って呼んでくるだろうが、それは気にしない。

 最初からオレを主君だと呼ぶ連中に、どうせ何を言ったところで無駄だ。彼女達は彼女達のポリシーの許に動いているのだから、それをわざわざ否定する必要はない。


「……では、セツカさん、と」


 マリスは少し考えるように口を噤んだあと、そう答えた。

 まあ、様を付けるなって言われたらそうなるよな。


「まあ、そうなるわな。とりあえず仕事は明日から頼む。今日は大体顔合わせになるだろうしな。わからない事は訊いてくれ」

「では、早速一つ……セツカさん、アナさんはいらっしゃいますが、他の方は……?」

「ユキヤはダンジョン、ロゼは闘技場前で腕相撲、ライカとルキナは食べ歩きに行ってる。が、まあ、そろそろ帰ってくるだろ。メシの時間になるしな」


 夢の中で斬り結んでいた時間だけ現実の時間が進んでいるなら、そろそろ夕飯の時間になる。

 ロゼはあれで割と熱くなる節があるから若干不安が残るが、他の三人はまず間違いなくそろそろ帰ってくるはずだ。


「……さて。紅葉、地下の入り口に近いとこにマリスの部屋を作っといてやってくれ。家具とかなんか、入り用なのはあるか?」

「問題ありません、刹華様」

「そうか。そしたら……まあ、今は特にないか。夕飯の準備するから、マリスは手伝ってくれるか? 紅葉は地下に戻って手伝ってやれ」

「畏まりました。それでは」


 またも刹那のうちに気配を消す紅葉。

 なんだろうな……もしかして、鬼人族ってみんなこうなのか?

 頼もしいような、恐ろしいような……。


「じゃ、マリス。夕飯の準備の手伝い、よろしくな」

「は……あの、ええと……いつもセツカさんが作っているのですか?」

「まあな。だからほら、手伝ってくれ。……おっと、服着てないまんまだった」


 屋敷の主が自らご飯を作るという事に少なからず驚いた様子のマリスを横目に、シャツを着て、首にかけていたタオルをソファの背凭れにかけておく。

 ……あ。紅葉に頼んどけば良かったな。タオル、風呂場の篭に置いてきてって。

 まあ、いいか。後で自分で行けば。

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