八十六頁目 鍛え直し
「……んぉ?」
アナとゆったりしていたと思えばいつの間にか眠ってしまっていたようで、気付けば、真っ白な空間で目を覚ましていた。
いや、正確には目は覚めていない。
この嫌に現実味のない空間は、明らかに夢のそれだろうと理解できる。
おまけに。
「……母さん」
いるはずのない存在。
実家にいて異世界におらず、しかしおよそ異世界の人間と同じような存在。
鬼灯流総合武術の開祖にして、自称齢千歳を優に超える鬼の女傑、そして何より、自分を一人で育て上げた、鬼灯零華その人がそこに立っていた。
「……………」
しかし、これは母であって母ではない。
飽くまでもこれは夢。
そもそも、母が異世界にいるはずがない。
それなら、この『鬼灯零華』は誰なんだ?
「……儂が誰か、知りたいか」
「……ああ」
そこに立つ『それ』は、母と同じ、骨の髄まで蕩かすような、妖艶で少し淫靡な声で言った。
「儂はな、坊やが思うておる『鬼灯零華』よ」
「…………は?」
「……ふむ、わからんか? 要するにじゃな、儂は坊やがいずれの世界でも最強であると思うておる存在そのもの、という事じゃ」
……うーん、ファンタジー。
「これ、思考を手放すでないわ」
「いや、そんな事言われてもさ……」
「……まあ良いわ。何ゆえ、儂が坊やの夢枕に立っておるのか、簡単に説明してやるから、よぉく聞くのじゃぞ」
「うん」
「返事が軽いのう……。まあ、そう難しい事ではない。坊や……物足りんじゃろう?」
「物足りない……?」
はて。
異世界に来てからというもの、奴隷を拾ったりダークエルフを拾ったり、スタンピードと魔族を相手したり、『最強』達と戦ったり――
「それじゃ、坊や」
「……どれ?」
「その『最強と戦ったり』の部分じゃ。坊やは儂の子じゃから、あの程度では足りておらんじゃろ」
確かに、あれは物足りなかった。
何せ『最強』を集めた集団と聞いていたのに、蓋を開けてみればあの体たらく。
一体どんな傑物と死闘が出来るのかと期待していただけに、かなり裏切られた気分だった。闘技大会という競技の場でなければ、間違いなく殺していただろう。
「うむうむ、そうじゃろうな」
「……それで?」
「うむ。しばらくぶりに、儂が殺してやろうと思うてのう」
「……………」
「なんじゃ、その嫌そうな顔は。儂ら鬼にとって全ては享楽。それは殺し合うとて変わらぬ事よ。故に、坊や――抜け」
それの手にいつの間にか握られていた黄昏色の刃を持つ刀――《鬼灯》――を認めた刹那、ぶわりと全身が総毛立ち、底冷えするような眼と鋭利なまでの殺意がオレに向けられたのを感じた。
その感覚が、目の前にいるのは何一つ間違いなく『鬼灯零華』であると告げている。
久しぶりの感覚だ。
思えば、異世界に来る前はいつもこの殺意と戦っていた。
温い湯に浸かっていた自分を叩き直すには、これはいい機会だろう。出来れば、定期的に欲しいものだが。
「さあ、ゆくぞ、坊や」
それは……いや、母さんはそれだけを言うと、一瞬で視界から消えた。
まるで初めからそこには何もなかったかのような感覚に襲われると同時に、自分の直感を信じて攻撃が来るであろう方向に腕を振る。
直後、ギィン、という金属同士がぶつかる鋭い音が鳴り響き、振り抜いた手には《鬼灯》があり、母さんの《鬼灯》がそれを受け止めていた。
「良い太刀筋じゃな、坊や」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、受け止められて言われるのはちょっとなぁ……」
「くふふふふ。母に刃を通すには、まだまだ年月が足りぬの」
「勘弁してくれ……」
「さあ、久しぶりに母と遊ぼうな、坊や」
「ははは……冗談キツいぜ、母さん……」
心の底から愉しそうに、嬉しそうに笑む母さんとは対照的に、オレの口からは乾いた笑いが漏れていた。
夢の中ならあるいは母さんを下せるのでは、なんて思っていたが、まだその境地には至れないらしい。
「ほれっ」
「ちっ……!」
「こっちじゃ」
「ぐっ……ぅ……!」
「そこっ」
「くそっ……!」
相変わらず、と言うべきだろう。
実家にいた頃と同じように、母さんは事も無げに姿を消しては、女性らしい細腕で、筋骨隆々の男が両手で振ったかのような手応えの刃を繰り出してくる。
それに対して、こちらは防御するしかない。
一撃一撃が途徹もなく重く、鋭くあるそれは、一瞬でも攻撃に転じた瞬間、こちらの命を断ち斬るだろう。
慈悲もなく、容赦もない、我が子ですら斬り殺そうとしてくるその刃は、恐ろしいの一言に尽きる。
「くふふふっ。愉しいのう、坊や」
「それは……くっ……母さんだけだろ!」
調子が上がってきたのか、だんだんと攻撃速度が上がっていく母さん。
確かにオレの中で『最強』と言えば母さんだけど……ちょっと強すぎない?
実家にいた頃はもうちょっと手心っていうか、手加減して貰えてたと思うんだけど。
「なに、どうせ夢じゃからの。少し本気を出しても構わんじゃろ」
「構うわ!」
ちくしょうめ。
こちとら夢の中だって言っても殺されたくはないのに、質が悪い。
「くふふ。坊やも成長しておるようで、母は嬉しいぞ」
「ぐっ……そうかよ!」
どうやら、まだしばらくは夢から覚めれないらしい。
……夢から覚めれないってなんだよ……。
◆
もう、どれだけ斬り結んできただろう。
体感時間では優に五時間を超えている。
それだけの時間、集中力を切らさずに母さんの攻撃を防御出来ているのは、ひとえに、ここが夢の中だからなんだろう。
多分、今のオレでは少し本気を出した母さんの攻撃は三十分も耐えられないだろうし。
……悲しくなってくるな、なんか。
弟子は師匠を超えるもの、なんて言ったりするけど、はてさて何時になる事やら……。
「……うむ。この辺りで止めにしておくかの」
「それは……はぁっ……良かった……」
今のオレを形容するなら、『満身創痍』という言葉こそ相応しいだろう。
それほどまでに攻撃は苛烈なものであったし、むしろ満身創痍程度で済んでいるのが自分でも信じられない。
「坊や。たとえ己に匹敵する相手がいなくとも、たとえ己より強い相手がいなくとも、精進を忘れる事なく、日々を過ごすのじゃよ」
「……わかってる。鍛練は続けてるからな」
「うむ。それを忘れてなければ良い」
「そうかい……」
「そろそろ目覚めると良かろ。覚醒の時もそろそろじゃしな」
「……覚醒?」
「くふふ。なに、いずれ意味はわかる。今はまた、しばしの別れじゃ」
母さんがそう言ってにっこりと笑ったのを最後に、意識は途切れた。




