七十一頁目 一難去って
それからは、まあ、平和なもんだった。
姿は見えない、音は聞こえない、匂いはしない、気配はするんだかしないんだか。そんなのが十人以上歩いていても、アシッドスライムは疎か他の魔物も一切襲って来なかった。
たまに『ん? なんかいるか?』みたいな感じで顔を向けてきたり、鼻をくんくんと匂いを嗅ぐようにして動かしたりしていたのはいたが、どれも気のせいと断じたのかすぐに興味を失っていた。
光学迷彩は、言ってみれば自然現象の延長だ。
細かい理論はどうあれ、小学生レベルの自然科学の知識で光の扱いを覚えてしまえるのだから、地球という先進的な文明の世界は凄いと思う。
まあ、オレもつい二週間くらい前にはその文明の中に生きていたんだが。
それにしたって、光の集束、反射、屈折の概要を小学生に理解させる学術レベルは本当に凄まじい。
まあ、それはともかく。
アシッドスライム出現階層である五十一層から六十層までは、誰かの服が溶かされる事も、オレが誰かの裸を見てしまう事もなく、実に平和に攻略出来た。
もちろん攻略だから、宝箱なんかも見つけたし、中身は回収した。
日本でRPGをメインに遊んでいた身としては、分岐路の全攻略は当たり前だし、レアなアイテムを手に入れられるなら、手持ちの適当な消耗品を削ってアイテム欄に追加するのも至極当然だ。
今はインベントリがあるから、何かを削る必要はないんだが。
そうしてやってきた六十一層で、オレ達は実に十層ぶりにお互いの姿を見た。
ちなみに。
ここに来るまでの食事時なんかはどうしたのかと言えば、フェンリルにその場でくるくる回ってもらって、メンバーが円形に並んだかな? というタイミングでインベントリからキャンプセットを取り出して食事にした。
そして、『そういう風にしよう』というのを、最初に腹が減った時にみんなと決めた。
……見切り発車って、怖いよねぇ。
「さて、これで完全にアシッドスライムの脅威からは逃れられたと見ていいのか?」
「……平気。前に六十五層まで行ったSランクパーティの話では、六十一層から先にはあの女の敵スライムは存在しない」
「そりゃ良かった」
本当に良かった。
いやまあ、健全な男子としては、女の子の裸が見られるという事実に喜ぶべきなのだろうが、それはそれ。
確かに女の子の裸は嬉しい。オレだって男だ。別に何も感じない、なんて俗世から解脱したような事を言うつもりはない。むしろ俗世万歳。酒も肉も女も好きだ。それなりに。
ただ、例えばAVであるとか、エロいイラストであるとか漫画であるとか、『そういう目的』の為に存在しているならともかく。
それか、シエスタ達全てが恋人か妻か愛人かという関係性であるならばともかく。
不可抗力とは言っても、裸を見てしまうというのは申し訳なくなってしまう。いや本当に。
だから、そういったラッキースケベ的トラブルの生産者であるアシッドスライムの脅威が今後一切無いというのは、喜ばしい事であって残念な事ではないのだ。
オレはそう、声を大にして言いたい!
「ちなみに、ここから先の階層にはどんなのがいるんだ?」
「……メインになってるのはクライムウルフ。コマンダーウルフもいる」
「単に大きいだけの獣か。他には?」
「他は……あれだな、フィアンマドラコ」
「オーガロードもいますね」
「エンシェントヒュドラもいましたわね。確か、六十三層からでしたか?」
「……そんなとこか?」
「そうですね。クライムウルフとコマンダーウルフの数が多いので、そんなところです」
クライムウルフとコマンダーウルフに関してはあまり心配は要らないか。エンシェントヒュドラもだな。斃した経験がある。
問題は、初めて名前を聞くフィアンマドラコだが……名前から想像するなら『炎の蜥蜴』か、あるいは『炎の蛇』ってところか?
いやはや、まさか異世界に来てまでイタリア語とラテン語を耳にする事になろうとは……。
まあ、それ言ったらクライムウルフやコマンダーウルフはバリバリの英語なんだけども。
「気を付けておく事は?」
「……師匠はコマンダーウルフを斃した事があるから、きっと油断してる」
「……なに?」
「……元々ウルフ種は集団行動が基本。三匹程度は犬と変わらない」
「じゃあ、何か、もっと厄介って事か?」
「……ん。十匹前後は当たり前。クライムウルフは頭も良いから、もっと危険」
「そうか……」
そうは言われても、王都でのコマンダーウルフのイメージが強くて全く危険な感じがしない。
多分サイズはコマンダーウルフより大きいんだろう。それはまあ、それだけで脅威たり得る。
とはいえ、所詮は獣なんじゃないか?
圧倒的な力というか、相手を畏怖させられたなら勝ちだと思うが……頭が良いって事は単なる威圧じゃ効かないかも知れないのか。
「まあ、ここからは完全に身を晒しての行動になるし、十分に気を付けて、なるべく消耗しないように行こう」
「……ん。でも、アシッドスライムがいないだけ気が楽」
「ああ……確かにな……」
アシッドスライムにはもう会わないんだし、多少気楽に行けるのは助かるな。
◆
「うおおおおおっ!?」
アシッドスライムがいないから気が楽。
そんな風に思ってたし、感じてた時期が、確かにオレにもありました。
……誰が即堕ち二コマだ。
「クソ……なんなんだ、あの狼共は!」
「……クライムウルフ。集団行動が基本」
「物には限度ってヤツが……!」
背後から砂煙と轟音をあげて迫り来るのは、およそ五十匹はいるであろう狼の群れ。シエスタが言うには、一切の違いなく全てクライムウルフらしい。
気を付けて進むはずが何故こうなったのかと言えば、単に運が悪かったと言わざるを得ない。
現在、六十三層。
少し前にクライムウルフの六匹くらいの群れに出会ったのが事の始まりだった。
それまで十分にクライムウルフやコマンダーウルフを狩れてたというのもあって、その時も特に迷う事なくクライムウルフを狩りに走った。
順調にクライムウルフを狩って、残り二匹となったところで、そのうちの一匹が遠吠えをした。
オレはこれを、何の事はない、ただ味方や自分を鼓舞するための遠吠えだと断じて残りの二匹も狩ったのだが、今にして思えば、この時に姿を隠すとかしておけば良かったんだ。
それからの展開は、まあ、わざわざ話すような事でもないだろう。
遠吠えを聞いたらしいクライムウルフが徒党を組んで、大体五十匹前後くらいの群れとなって、オレ達の背後から現れた。
クライムウルフはコマンダーウルフよりも大きい。コマンダーウルフは全長が五メートルくらいだったが、それは全長であって全高ではない。高さは……まあ、三メートルはあったろうか。
さて、それを踏まえてクライムウルフだ。
このクライムウルフというウルフ種の最上位に位置するウルフ種は、頭から尻尾の先までを含めて大体七メートルと半分。高さは、四メートルか、それ以上。
地球の何かに例えて言うなら、大型トラックが五十台前後ほど、自分に向かって猛スピードで走ってくると考えて欲しい。
どうだ、絶望感が半端ないだろう?
まあ、これはきっと、トレーラーサイズが来なくて良かった、と胸を撫で下ろすところなんだ。きっとそうに違いない。違っててもオレは胸を撫で下ろすぞ。絶対に。
……ともあれ、斯くしてオレ達のピンチは未だに続いている。
ピンチはチャンス、なんて言葉があるが、あれは克己心というか、どんな逆境でもはね除けてやるっていう幻想を抱いてるだけだ。
ピンチはピンチ。それ以外の何物でもない。
「……師匠、どうする?」
「どうするったって、足を止めたら死ぬだろ?」
「……ん。間違いない」
「じゃあ、足を止めずに攻撃するしかないわけだな」
「しかし、どうするのですか、主?」
「なに、難しい話じゃない。出来れば振り切りたかったが、腐っても犬……いや狼だからな。先にオレ達のスタミナが切れる。だからこそ――ッ!」
走り続けていた足を止めて、背後を振り向き様に腕を振るう。
まずは風魔法で防壁を張る。触った奴の首を風の刃が斬り落とす、接触反応式の防壁だ。
車は急には止まれない。スピードが出てるからな。
それと同じに、クライムウルフ達も突然現れた風の壁に対応出来ず、何匹もが接触し、首を落とされていった。
……逃げなくても、最初からこれをしていれば良かったのでは?
「……なんで思い付かなかったんだ……」
「……どうしたの、あなた? なんだか顔色が悪いけれど」
「アナ……。いや、気にしないでくれ。自分の頭の悪さに嫌気が差してるだけなんだ」
「……あなたは十分に聡明だと思うわよ?」
不思議そうな顔をしながらアナが言う。
違う、違うんだ……。そういう事じゃないんだよ、アナ……。
「……ありがとう、アナ。お前も優しいな」
「……まあ、ね」
少し照れたような顔になったアナの頭を撫でて、クライムウルフの群れに向き直る。
風の壁に当たって命を落としたクライムウルフはかなりいたが、それでも二十匹ちょっとくらいは残っているように見える。
被害が大体半分くらいで済んでいるところを見るに、頭が良いというのは嘘ではなかったらしい。厄介な犬畜生め。
だが、とりあえずこれで当面の安全は確保出来たと考えていいだろう。ここが六十三層で、進行方向からエンシェントヒュドラなんかが姿を現すという可能性に眼を瞑れば、だが。
「とりあえず一段落ってところか……。それにしても、流石は狼。持久力は天下一品だな」
「……師匠。これからどうする?」
「どうするかな……。クライムウルフ達は、オレがあの壁を張ってる以上はこっちには来られないはずだ。だが、まだ二十匹以上残ってる。斃すか……あるいは、逃げるか」
「ライは戦うぞ!」
クライムウルフを斃す方にライカが一票を投じる。ライカの性格を考えれば、まあ、そうなるな。
「私も斃す方に一票を、主。クライムウルフは厄介な相手です。先程までのように逃げられるとは限りません」
「……そうね。それなら斃してしまう方が建設的だわ」
「それに、あれだけの数です。レベルを上げるには丁度良いと思います、マスター」
ライカに続いてユキヤ、アナ、ロゼが斃す方に一票を投じた。うんうん、と頷いているシルヴィやミストスは、多分斃す方に一票を投げるんだろう。
シエスタ、オリヴィエ、キャスタリア、ルキナは何も言わないが、逃げるよりは斃す方が楽だと考えている……のかも知れない。
斯く言うオレも斃す方に一票だ。さっきまでの逃走劇をもう一度と言われると、流石に精神的にクるものがある。スタミナも、そんなには保たないだろう。
「じゃあ、斃す方向で全会一致と見ていいな?」
全員が首肯する。
うん。まあ、それが良いよな。
「よし。じゃあ、狼討伐の始まりだ」
言い終わると同時に風の壁を解除して走り出す。
……それにしても。
ダンジョンで斃した魔物はエルティセル商会で買ってもらうって話だけど、破産したりしないもんかね?
もう随分と……いや、本当に随分とインベントリに溜まっているんだが……大丈夫だよな?
エルティセル商会の予算とトーリットを信じよう。それしか出来ないし。




