059 眠りとなんとやら……
応接間へ戻ると、テーブルの上には湯気の立つティーカップが並べられていた。
その中央には、さっき屋台で買った焼き菓子が皿に盛られている。
「お戻りになられましたか」
ジェームスさんが一礼する。
「お茶をご用意いたしました。こちらのお菓子も、温かいうちにと思いまして」
「ありがとうございます」
席へ戻ると、甘い香りがふわっと鼻をくすぐった。
「カトちゃん、これ買ってきたのか?」
「うん。途中の屋台で。みんなへの手土産」
「せっかくだし、いただきましょうか」
クラリスさんが焼き菓子を1つ手に取る。
「どうぞどうぞ」
俺も1つ取って半分に割ってみる。
まだ温かい生地の間から、赤いジャムがとろりと顔を出した。
「おおっ」
一口食べてみると、表面はふんわりとしていて、中はしっとり。甘いジャムにはほんのり酸味があって、焼きたての生地とよく合う。
「うん、うまい」
「ほんと。美味しいわね」
「どれどれ」
ベッチも1つ取ると、大きな口を開けて丸ごと放り込んだ。
「おっ、これいいな」
横では、マリーさんも焼き菓子を美味しそうに頬張っている。
「ジェームスさんもどうです?」
「ありがとうございます。私は後ほどいただきますので」
「そうですか」
こういうところまできっちりしてるんだよなぁ、この人。
ジェームスさんは一礼すると、部屋の隅へ静かに下がった。
「さて……」
マリーさんがティーカップを置く。
さっきまでの柔らかな表情が、すっと引き締まった。
「オルシテのことだけどねぇ」
自然と全員の視線が集まる。
「診た限り、身体の方に大きな問題はなさそうだよ」
「じゃあ、なんで目を覚まさねぇんだ?」
「そこなんだよねぇ」
マリーさんが考えるように目を伏せる。
「先に言っておくけど、アタシは医術を専門に学んだわけじゃないよ。冒険者をやってた頃に必要になって、独学で覚えた程度さ」
「それでも構わないわ」
クラリスさんが真っ直ぐマリーさんを見る。
「何か心当たりがあるなら教えてちょうだい」
「……そうだねぇ」
マリーさんが小さく息を吐く。
「さっきの話を聞く限り、この子は相当な恐怖を味わったはずだ」
俺たちは黙って続きを待つ。
「人ってのはねぇ、あまりにも強い恐怖を感じたり、心に大きな傷を負ったりすると、それ以上傷つかないように、自分から外との繋がりを閉ざしちまうことがある」
「外との繋がり……」
思わず、その言葉を繰り返した。
「身体はもう起きられる状態なのに、心の方がまだ戻ってこられない。そんな状態なのかもしれないねぇ」
「……」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
まだ10歳の子供だ。
3か月前には黒怪鳥に襲われて死にかけて、今度は一緒にいた冒険者たちに囮として置き去りにされた。
そんな目に立て続けに遭えば、心を閉ざしてしまってもおかしくないのかもしれない。
俺には想像することしかできない。
「もちろん、そうだと決まったわけじゃないよ。ただ、その可能性はあると思う」
「じゃあ……待つしかねぇのか?」
ベッチの低い声に、マリーさんが顔を上げた。
「いや」
「ん?」
「1つ、試してみる価値がありそうなものがある」
その一言に、ベッチが思わず身を乗り出した。
「本当か?」
「ああ。キプチョゲ草って薬草さ」
「キプチョゲ草?」
ベンジョン草やルルイース草なら知ってるけど、そんな名前の薬草は初めて聞いた。少なくとも、これまでギルドの依頼で見かけた覚えはない。
「どんな草なんです?」
「赤い葉をした小さな草だよ。バフル海の海岸線にある断崖に生えてる」
「その草に、オルシテを起こすような効能があるんですか?」
「身体と心を落ち着かせて、深い眠りからの目覚めを促すことがあるのさ」
ベッチの表情に、僅かに希望の色が浮かぶ。
「それなら、試してやりてぇ」
「ええ。少しでも可能性があるなら」
クラリスさんも静かに頷いた。
「ただし、効くと決まったわけじゃないよ」
「それでもいい」
ベッチは迷わず答える。
「何もしないよりはずっといい」
ベッチはそのままマリーさんへ顔を向けた。
「マリー、その草を取りに行ってもらえねぇか?」
「ああ、構わないよ」
マリーさんは迷うことなく頷いた。
「ただし、採って持ち帰ればいいってもんじゃない」
「どういうことだ?」
「キプチョゲ草は、採ってから時間が経つほど薬効が落ちていくんだよ。だから現地ですぐ薬にする必要がある」
「現地で薬に?」
「ああ。アタシは『調薬』のスキルを持ってるから、その場で薬にできる。そうしておけば、数日は効能を保てるよ」
「なるほど」
「カトちゃん」
「ん?」
今度はベッチが俺を見る。
「悪いが、マリーの護衛も兼ねて、一緒に行ってくれねぇか?」
「俺も?」
「ああ。薬草を探したり薬を作ったりしてる間に、何かあったら困るからな」
「でも、俺なんかがついていって、足手まといになりません?」
「アタシもしばらく荒事から離れてるからねぇ。ついてきてくれるなら助かるよ」
「それなら、もちろん」
力になれるっていうなら、断る理由はない。
それに、オルシテが目を覚ましてくれたら俺も嬉しい。
「一緒に行きますよ」
「頼むぞ、カトちゃん」
「任せて」
「それで、バフル海まではどれくらいかかるんです?」
そう聞いたところで、ふと思い出した。
「あっ、そういえば」
俺は背嚢から折り畳んだ地図を取り出し、テーブルの上へ広げた。
冒険者になったばかりの頃、ギルドで30ラグバも出して買った地図だ。
相変わらず、ほとんど何も描かれていない。
中央には大きく草原。その西側に「バフル海」と文字があるくらいだ。
「西っていうと……こっちですかね?」
「……カトちゃん」
「ん?」
「なんだ、このクソ地図。子供の落書きじゃねぇか」
「酷いな! これでも30ラグバしたんだぞ!」
「30ラグバ!?」
クラリスさんが驚いたように地図を覗き込む。
「カトル、この地図どこで買ったの?」
「冒険者ギルドですけど」
「冒険者ギルドで?」
「はい。確か、そばかすのある受付嬢さんから買いました」
クラリスさんが地図を自分の方へ引き寄せてしばらく中身を確かめていると、その表情がだんだん困ったものへ変わっていった。
「……エイミーね」
額へ手を当てて、大きくため息をつく。
「あの子ったら……」
「えっ? 何かまずかったんですか?」
「いいえ、なんでもないわ。ただ、これは売り物として出す前の未完成品よ。今度ちゃんとした地図を渡すわね」
「未完成品!? じゃあ、なんで俺にこれを……」
「……それも含めて、あとで私から話しておくわ」
「わかりました」
なんかクラリスさんの反応からして、単なる手違いじゃなさそうだけど……まぁ、ちゃんとした地図が手に入るならいいか。
そんな微妙な空気を切るように、横からマリーさんの手が伸びた。
「ちょうど切れてるけど……この辺りかねぇ」
マリーさんが、「バフル海」と書かれた文字の先――地図の端辺りを指差す。
「歩きなら2日ってところかねぇ」
「2日かぁ」
往復だけでも4日となれば、それなりの遠出になりそうだ。
「ただ、馬なら1日もあれば海の近くまで着くよ」
「馬……」
思わず顔が引きつった。
「なんだい、その顔」
「いやぁ……俺、馬に乗れないんですよね」
「あら、そうなの?」
クラリスさんが意外そうな顔をする。
「はい。乗ったことなくて」
「へぇー」
マリーさんの口元が、にやっと緩んだ。
「それなら、アタシの後ろに乗っていくかい?」
「えっ?」
「1日中、アタシに抱きついてることになるけどねぇ」
「いやいやいや、それはちょっと……」
「遠慮しなくてもいいんだよ?」
「遠慮します!」
「ふふっ」
絶対楽しんでるでしょ、この人。
さっきも花束のことでからかわれたばっかりだし、完全に俺で遊んでるよね?
そりゃあ、美人にそんなこと言われて悪い気はしないけどさ。
こちとら妻一筋なんですよ。
「カトちゃん、いいじゃねぇか。乗せてもらえよ」
「ベッチまで乗っかるなよ!」
「1日中抱きつけるんだぞ? ラッキーじゃねぇか」
「そういう問題じゃないって!」
「あなた、カトルで遊ばないの」
「いてっ!?」
クラリスさんが笑顔のまま、ベッチの尻をつねった。
「何すんだよ!」
「別に?」
さっきまで楽しそうに笑っていたベッチが、今度は尻を押さえて顔をしかめている。
「でしたら」
「んっ?」
部屋の隅から、落ち着いた声が聞こえた。
ジェームスさんだ。
「馬車をお出しになってはいかがでしょうか」
「あっ」
その手があったか。
「おっ、それならいいじゃねぇか」
ベッチもすぐに頷く。
「馬車ならカトちゃんも乗れるだろ」
「それなら俺でも大丈夫」
「ちょっと待ちなよ」
マリーさんが片手を上げた。
「アタシ、馬は乗れるけど馬車を操るのは苦手だよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。長い距離を任されるのは勘弁してほしいねぇ」
「それなら、御者をお願いできる人を探したらどう?」
クラリスさんが言った。
「御者か……」
ベッチが腕を組んでしばらく考えていると、何か思いついたのか口元を上げた。
「それなら、心当たりがある」
「冒険者?」
「ああ。馬車も扱えるし、腕も問題ねぇ」
「それなら安心ですね」
「今日中に声をかけてみる。ダメなら他を当たる」
「お願いね」
「おう」
それからもしばらく、持っていく物や道中でのことなんかをみんなで話し合った。
海岸近くでは草原とは出てくるモスキートも違うらしく、その辺りの注意点もベッチとクラリスさんから聞いた。
「それじゃあ、明日の朝に出発でいいかい?」
マリーさんが尋ねる。
「ああ。それでいこう」
ベッチが答える。
「わかったよ」
「マリーさんは今夜どうするんです?」
「ダヴィデ亭に泊まるつもりさ。今から森へ戻って、また朝ここまで来るのも面倒だからねぇ」
「部屋ならたぶん空いてると思いますよ」
「じゃあ、決まりだねぇ」
まさかオルシテの見舞いに来て、明日には海へ向かうことになるとはなぁ。
「寝坊するなよ、マリー」
ベッチが笑う。
「失礼だねぇ。起きるときは起きるよ」
「その言い方、信用できねぇんだよ」
「じゃあカトル、朝になったら起こしに来ておくれよ」
「なんで俺なんですか」
「同じ宿にいるんだから、いいじゃないか」
「まぁ、それなら……」
「ふふっ。頼んだよ」
「はいはい」
話がまとまる頃には、皿にあった焼き菓子もほとんどなくなっていた。
「美味しかったわ。カトル、ありがとう」
「いえいえ。屋台のおじさんに勧められただけですけどね」
「また買ってこいよ」
「なんで俺が買う係になってんの」
「カトちゃんが見つけたんだろ?」
「自分で買いに行けよ」
「ははは!」
ベッチが大きく笑う。
「それじゃ、そろそろ行こうかねぇ」
マリーさんが立ち上がった。
「今日はありがとな、マリー」
ベッチが声を掛ける。
「まだ礼を言うのは早いよ」
「それでもだ。何もわからなかったところに、1つ可能性が見えた」
「……そうかい」
マリーさんは目を細めた。
「カトル様」
「はい?」
出口へ向かおうとしたところで、ジェームスさんに呼び止められた。
「花は先ほど、オルシテ様のお部屋へ飾らせていただきました」
「あっ、ありがとうございます」
「とても部屋が明るくなりました」
「それならよかったです」
あの柔らかな色合いなら、白い部屋にもよく合いそうだ。
眠っていても、花の香りくらいはオルシテに届いてくれるといいな。
ベッチたちに見送られ、マリーさんと家を出る。
「それじゃ、ダヴィデ亭まで案内しておくれ」
「了解です」
午後の陽射しが通りを照らす中、俺たちはダヴィデ亭へ向かって歩き出した。
◆◆◆
陽が傾き始めた頃、俺は村の入口でいつものように木箱へ腰を下ろしていた。
今日も村は平和そのものだ。
ただ、ここ最近やたらと地震が多いのだけは気になる。
大した揺れじゃねぇが、俺の直感にどうにも引っかかる。
そんなことを考えながら欠伸をしていると、村の中から見慣れた男がこっちへ歩いてきた。
「よぉ、ウィード」
「……なんだ、ベスター」
わざわざギルドマスター様が門まで何の用だ。
どうせ面倒事だろう。
「お前、馬車は扱えたよな?」
「一応な」
冒険者であちこち回ってた頃には、何度も扱ったことがある。
今さら好んでやりたいとは思わねぇが。
「なんだ。どっか行くのか?」
「ああ。明日の朝から、ちょっと西の海までな」
「なら勝手に行ってこい」
「お前が御者だ」
「断る」
「早ぇよ!」
「面倒くせぇ」
木箱へ深く腰掛け直す。
「他を当たれ」
「そう言うと思ったよ」
ベスターは苦笑いしながら鼻の頭を掻いた。
「オルシテのことは知ってるよな?」
「……ああ」
3か月前の黒怪鳥の襲撃で、ラルムが助けたガキだ。
その後、冒険者どもに囮として置き去りにされて、また酷い目に遭ったらしい。
今は冒険者ギルドが保護している。
「そのオルシテが、ずっと眠ったままでな」
「眠ったまま?」
「ああ。身体の傷は治ってる。だが、何をしても目を覚まさねぇ」
「……」
「今日、マリーに診てもらった。確実じゃねぇが、目を覚ます助けになるかもしれない薬草があるらしい」
「それが西の海にあるってわけか」
「そういうことだ」
ベスターが頷く。
「カトちゃんとマリーに取りに行ってもらう。ただ、馬車を使わねぇと片道だけでかなり時間を食うんだわ」
「……だから俺に御者をやれってか」
「ああ」
厄介な話を持ってきやがった。
……ラルムが助けたガキ。
そいつが今も眠ったまま、か。
「門はどうすんだ」
「代わりは俺が手配する。数日くらいならこっちで回す」
「……手が早ぇな」
「長い付き合いだからな。お前がそこを気にすることくらいわかってる」
「チッ」
気に入らねぇ。
ここまで言われたら、断る理由を探す方が面倒だ。
「朝は何時だ」
そう言うと、ベスターがニヤリと笑った。
「引き受けてくれるのか?」
「勘違いすんな」
「ん?」
「しばらく馬車を扱ってねぇからな。たまには動かしておかねぇと腕が鈍る」
「はいはい」
「……なんだ、その顔」
「別に?」
腹の立つ笑い方をしやがる。
「6時だ。ギルドの前で集合な」
「ああ」
「頼んだぞ、ウィード」
「とっとと帰れ。仕事の邪魔だ」
「はははっ! じゃあな」
笑いながら去っていくベスターの背中を見送り、俺は小さく息を吐いた。
「ったく……面倒くせぇ」
明日は早い。
今日は少しくらい真面目に寝るか。
◆◆◆
「んん……むにゃ……」
窓から差し込む朝の光を顔に感じながら、重たい瞼をゆっくり開く。
「ふわぁ……」
大きな欠伸をしながら、のそのそと上半身を起こした。
窓の外では、昇り始めたばかりの朝日がムルージュ村を照らしている。
「んんっ……」
両腕を上げて伸びをすると、昨日の夜のことを思い出した。
昨日はマリーさんとダヴィデ亭へ戻って、夜はそのまま一緒に夕食を食べた。
そこまではよかった。
問題は、そのあとだ。
あの人、飲むわ飲むわ。
空になったぶどう酒の瓶が次から次へと増えていくのに、どれだけ飲んでも顔色ひとつ変わらない。
俺も途中までは付き合ったけど、マリーさんはずっとケロッとしてたし、あれをザルって言うんだろうな。
……結局、先に潰れたの俺なんだけどね。
「そういえば……」
ベッドから足を下ろしたところで、もう1つ思い出す。
――朝になったら起こしに来ておくれよ。
昨日、ベッチの家でマリーさんに頼まれたんだった。
「起こしに行かないと」
寝坊してみんなを待たせたら悪いしね。
顔を洗って服を整えて、まだ静かな廊下へ出る。
マリーさんの部屋は俺の部屋の斜向かい。
扉の前まで来ると軽くノックした。
コンコン。
「マリーさん、朝ですよー」
返事はない。
もう一度ノックして呼びかけるが、やっぱり反応なし。
「マジで寝てるのかな……」
試しにドアノブへ手を掛ける。
カチャッ。
「……開いた」
鍵、掛けてないの?
いやいや、女の人の部屋だよね?
無用心すぎない?
扉を少しだけ開いて中を覗くと、窓から朝日が差し込む部屋の奥で、マリーさんがシーツを肩まで被って眠っていた。
「寝てるし……」
どうしよう。
勝手に部屋へ入るのは、さすがにまずいよな。
「マリーさーん! 朝ですよー!」
扉の隙間から、さっきより大きな声で呼びかける。
……起きない。
「マリーさーん!」
やっぱり反応なし。
「どうしろってんだよ……」
このまま放っておいて寝坊されても困る。
というか、起こしてって頼まれたし。
「仕方ないか……お邪魔しまーす」
恐る恐る部屋へ入って、ベッドへ歩み寄る。
「マリーさん、朝ですよ」
すぅ……すぅ……
ベッドのそばまで来ると、静かな寝息が聞こえてきた。
めちゃくちゃ気持ちよさそうに寝てるな。
「マリーさん、起きてください」
何度か声を掛けても、まったく起きる気配がない。
ここまで起きないなら、もう揺するしかないよな。
「失礼しますよ」
ベッドの横から手を伸ばして、肩に触れる。
「マリーさん。朝ですって」
軽く揺すった、その瞬間。
「起きてくださ――うおっ!?」
突然伸びてきた手に腕を掴まれて、そのままグイッと引っ張られた。
「うわっ!?」
バランスを崩して前のめりにベッドへ倒れ込む。
顔のすぐ下には、マリーさんの寝顔。
「マ、マリーさん!?」
「んん……」
「起きてるんですか?」
返事はない。
寝てる!
寝たまま俺を引っ張ったの!?
「ちょっ、離してください!」
腕を引き抜こうとしたところで、今度は両腕が背中へ回って、ぎゅっと抱き込まれる。
さらに片脚まで絡んできた。
「ええっ!?」
待って待って!
俺、抱き枕じゃないから!
「マリーさん! やめてくださいって!」
「んー……」
「んー、じゃないですから!」
どうにか抜け出そうと体を捻る。
けれど、寝ているくせにびくともしない。
「というか、なんでこんなに力が強いんだよ!」
右へ。
ダメ。
左へ。
もっとダメ。
腕を外そうとすると、逆に抱き込む力が強くなる。
「ちょっ、ほんとに――」
ずるっ。
「んっ?」
もがいているうちに、マリーさんに掛かっていたシーツがずれ落ちた。
窓から差し込む朝日が健康的な褐色の肌を照らして、豊満な胸があらわになる。
「……えっ?」
「は、裸ぁ!?」
すっぽんぽんじゃん!
なんで!?
なんで裸で寝てるのこの人!?
慌てて視線を逸らす。
「マ、マリーさん! 起きて! いろいろまずいですって!」
「すぅ……」
「こんだけ騒いでるのになんで起きないの!?」
どうしよう。
目のやり場がない。
というか、俺はいま裸の女の人に抱きつかれた状態でベッドの上にいる。
誰かに見られたら終わる。
社会的に。
その時――
「カトルー! 朝だよー!」
「……っ!?」
廊下の向こうから聞き慣れた声が響いた。
ティア!?
「や、やばい!」
よりによって今来る!?
「マリーさん! 起きて! お願いだから起きてください!」
必死に肩を揺する。
「んん……」
「そう! そのまま起きて!」
「……すぅー」
「寝るなぁ!」
「カトルー?」
声がどんどん近づいてくる。
「あれ? カトル、部屋にいないの?」
俺の部屋を見たらしい。
そのまま廊下を歩いてくる足音が聞こえる。
「マリーさん! ほんとに起きてって!」
「んー……」
「頼むからぁ!」
ぎゅっ。
「うぷっ!?」
マリーさんの腕にさらに力が入って、顔を胸元へ押し込まれた。
ちょっ!
待って!
息!
息できない!
「むぐっ……! マ、マリーさ……起きて……!」
顔を上げようとしても、まったく動けない。
コツ、コツ、コツ。
足音が部屋の前で止まった。
「マリーさんも起きてるかな?」
やばい。
扉がゆっくりと開く。
「マリーさーん……って」
沈黙。
俺はマリーさんの胸元から必死に顔だけ横へ向ける。
扉の前に立っていたティアと目が合った。
「……」
「……」
ティアの目が見開かれていく。
俺。
ベッド。
裸のマリーさん。
そして抱きつかれている俺。
うん。
どう見てもアウトだね。
「ふごっ! ふごごごっ……!」
違う!
これは違うんだ、ティア!
必死に訴えるけど、胸元に顔を押し込まれたままじゃまともな言葉にならない。
ティアは目の前の光景を見たまま、完全に固まっている。
すると、その後ろからエイプリルさんが顔を覗かせた。
「あら? ティアちゃん、どうしました?」
部屋の中を見たエイプリルさんは「あらあら……」と呟くと、すぐにティアの肩に手を置いた。
「ティアちゃん、見ちゃダメですよ」
「ふごごごっ……!」
違うんですエイプリルさん!
これは事故なんです!
そう言いたいのに、やっぱり何一つ伝わらない。
「カトル……」
ティアの肩がぷるぷる震えている。
まずい。
絶対話を聞いてくれないやつだ。
ちょうどマリーさんの腕が緩んで、俺は慌てて顔を上げる。
「ティア、これは……!」
パァン!
「あべしっ!?」
頬が一気に熱くなる。
「カトル、最低!」
「いや、だから違うって!」
「もう知らない!」
「ちょっ、待って!」
バタン!
ティアは頬を膨らませたまま、勢いよく部屋を飛び出していった。
痛む頬を押さえながら、閉じた扉を見る。
「俺……何も悪くなくない?」
俺は頬にくっきりと真っ赤なもみじマークを残したまま、食堂で朝食を食べていた。
「ほらほら、いつまでもそんな顔してないで」
向かいに座るマリーさんへ、じとっとした目を向ける。
この人は何事もなかったかのような顔で朝食を食べている。
「俺、何も悪くないのに……」
「悪かったって言ってるじゃないか」
「謝って済むことと済まないことがあります」
頬がまだじんじんする。
ティアはあのあと、そのまま朝練へ行ってしまったらしい。
結局、ちゃんと説明する暇すらなかった。
「まぁまぁ。あとでアタシからも説明しておくよ」
「絶対ですよ」
「ああ」
ほんとにわかってるのかな、この人。
「それより、なんで裸だったんですか!?」
「ああ。アタシ、寝るときはいつもああなんだよ」
「いつも!?」
「服を着て寝ると落ち着かなくてねぇ」
「そういう問題じゃなくて! 起こせって言うなら、せめて服くらい着ててくださいよ!」
「次からそうするよ」
「絶対ですよ!」
マリーさんは軽く頷いた。
その口元が微妙に笑っている。
……絶対反省してない。
「でも、よかったんだろ?」
「何がです?」
「アタシの胸さ」
思わず視線を逸らす。
「よ、良くないですよ!」
「あらっ? 良くなかったのかい?」
さっきまで楽しそうにしていたマリーさんが、急にほんの少し傷ついたような顔をする。
えっ?
もしかして、本当に傷ついた?
「いや、良くないわけではなくて……」
「へぇ?」
「よかったというか……って、いやいや! 何言ってんだ俺!」
「ぷっ……あははははっ!」
マリーさんが吹き出した。
「あんた、本当にからかい甲斐があるねぇ!」
「またかよ!」
楽しそうに笑うマリーさんを見ながら、大きくため息をつく。
本当にこの人は……
絶対、俺のことをからかって楽しんでるよね?
準備を終えた俺たちは、冒険者ギルドの前に来ていた。
「おっ、来たな」
「おはよう、カトル」
ギルドの前で、ベッチとクラリスさんが待っている。
その横には、俺の知っている馬よりひと回り大きな6本脚の馬と、布の幌が掛かった小さめの馬車があった。
御者台には、見慣れた門番さんが面倒くさそうに座っていた。
「……ウィードさん?」
「よぉ」
「昨日ベッチが言ってた御者って……」
「俺だ」
「馬車も扱えたんですね」
「冒険者やってた頃に何度もな」
「へぇー」
門の前で寝てる姿ばっかり見てるから、なんか意外だ。
「おい、カトちゃん」
ベッチが俺の顔を覗き込む。
「その頬どうした? 見事な手形ついてんぞ」
「あら、本当」
クラリスさんまで目を丸くする。
「これはですね……」
「いやぁ、今朝ちょっと面白いことがあってねぇ」
「マリーさん!」
「今朝、起こしに来てもらったらねぇ――」
「言わなくていいですから!」
慌てて遮ると、ベッチが楽しそうに笑った。
「なんだよ。気になるじゃねぇか」
「気にしなくていい!」
「カトちゃん、朝から何やってんだ?」
「だから何もやってないって!」
「……くだらねぇ」
ウィードさんが呆れたように息を吐く。
「行くならさっさと乗れ」
「はいはい!」
「あっ、そうだ。カトル」
「ん?」
クラリスさんが思い出したように、1枚の地図を差し出してきた。
「昨日言ってた新しい地図よ」
「あっ、ありがとうございます」
受け取った地図を背嚢へしまう。
これ以上ここにいたら、マリーさんが何を言い出すかわからない。
俺とマリーさんが馬車へ乗り込む。
「じゃあ、頼んだぞウィード」
「ああ」
「気をつけてね」
「行ってきます」
「任せときな」
クラリスさんへ手を振り返したところで、後ろからベッチの声が飛んでくる。
「カトちゃん! 帰ってきたらその手形の理由、ちゃんと聞かせろよー!」
「まだ言うか!」
「あはははは!」
「もういいから、さっさと行きましょう!」
「はいはい」
ウィードさんが手綱を動かすと、6本の脚が地面を蹴って、馬車がゆっくりと動き始めた。
車輪を鳴らしながら朝のムルージュ村を進み、ふと後ろを振り返ると、ベッチとクラリスさんがまだこちらへ手を振っている。
その姿が少しずつ遠ざかっていくのを眺めながら、俺たちはキプチョゲ草を求めてバフル海へ向かった。
次回は11月6日8時20分投稿です。
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