第八話「観測者は特定する」
六月も下旬に差し掛かり、窓の外から吹き込む風には微かに夏の湿気が混じり始めていた。
放課後になると、その広大なフィールドの至る所で部活動の活気が弾ける。グラウンドからはカキーンと野球部の金属バットがボールを弾く快音が響き、体育館からはバスケットボールシューズがキュッキュッと床を擦るスキール音が聞こえてくる。
青春のエネルギーが物理的な振動となって空気を揺らす中、俺は旧校舎三階の薄暗い廊下を重い足取りで歩いていた。
向かう先は、今や俺の放課後の『職場』と化している『人類文化研究部』の部室だ。
ドアプレートには立派な名前が掲げられているが、実態は生徒会役員である白羽凛凪のプライベート空間であり、そして彼女が抱え込んだ生徒会の裏仕事を処理するための空間である。
立て付けの悪いドアを開けると、そこには最近見慣れたの光景が広がっていた。
「今日も遅いわね。讃良木くん。もう少し、早く来れないかしら。」
声の先、長机の奥に鎮座するパイプ椅子には、白羽凛凪が優雅に椅子に座っている。
そして、机の上にはコンビニのビニール袋が置かれており、なぜか静岡名物『安倍川もち』のパックが開かれていた。
きな粉とあんこがたっぷり絡んだ餅を、彼女は一切の表情を崩すことなく、しかし恐るべきハイペースで口へと運んでいる。
「……これでも急いできたんだが。それより、今日は和菓子か。相変わらず見事な食べっぷりだな」
「そう。もっと早く来れると思うけども。現に私がここにいるわけだし。あと、最後の一言は余計よ。」
白羽は悪びれもせず、最後の一つの餅を綺麗に平らげると、指先についたきな粉をハンカチで上品に拭き取った。
教室内で見せる表の姿と、この部室で見せる裏の姿のギャップは、何度見ても清々しいまでの豹変っぷりで気持ちよさすらある。
「月城はどうしたんだ?」
「紗良ちゃんは生徒会室でお留守番。来月の予算会議に向けた資料のホチキス留めをお願いしてあるわ」
白羽はペットボトルの緑茶で喉を潤すと、手元のバインダーから一枚のメモ用紙を引き抜き、俺の前にスッと差し出した。
「ということで、今日は手の空いている讃良木くんに一つお使いを頼みたいの」
「お使い? 俺はデータ入力や雑務要員じゃないのか?」
「正式な部員なのだから、私の命令で何でもするのが、讃良木くんの仕事よ。」
「そんな軍隊みたいな理不尽な部活があってたまるか。」と思わずツッコむ。
「まあ、そんなにむずかしいことじゃないわ。ちょっと、情報処理部の部室に行って、生徒会から貸し出しているポータブルHDDを回収してきてもらうだけだから。その中に以前、使用した学校紹介動画のデータが入っていて、それが必要なのよ。」
情報処理部。
名前こそデジタルで近代的な響きを持っているが、俺の記憶が正しければ、彼らの部室はこの旧校舎の一階、最も日当たりの悪い北側のどん詰まりにあったはずだ。
「……分かった。行ってくる」
ここで反抗しても、結局は彼女の圧倒的な強者オーラの前に屈することになるのは目に見えている。ならば、とっとと終わらせてしまうのが自分のためだ。俺はメモを受け取って部室を後にした。
旧校舎の階段を下りるたびに、窓から差し込む光が弱くなり、空気の温度が少しずつ下がっていくのを感じる。
一階の北側廊下は、まるで深海のように静まり返っていた。外のグラウンドの喧騒すらここには届かない。並んでいる空き教室の扉を通り過ぎ、一番奥にある『情報処理部』のプレートが掛かったドアの前に立つ。
コンコン、と控えめにノックをした。
返事はない。だが、ドアの向こうからは低く唸るような機械音が複数重なって聞こえてくる。デスクトップパソコンの冷却ファンが回る音だろうか。
「失礼します。生徒会からの頼みで、HDDの回収に――」
ドアノブを回して中に入ると、そこは予想通りの空間だった。
遮光カーテンが引かれた薄暗い室内。壁沿いにずらりと並んだデスクトップのモニターが、青白い光を放っている。
キーボードを叩く音やマウスのクリック音だけが聞こえてくるような部屋。
ただ、白羽情報によると、ほぼ帰宅部みたいな形になっているらしく、活動日も限定されており、実際に活動している部員は少ないとのことだった。今日は非活動日とのことで、確かに部屋の中を見渡しても、人がいるように見えないが、何故だか、音だけは聞こえている状況だ。
……心霊的な何かじゃないよな?
そんな非現実的なことを考えながら、部屋の奥へと進んでいくと、その音の正体が現れた。
部屋のずっと奥。一番端の席に、ポツンと丸まった小さな背中が一つ。
少し大きめの紺色の指定カーディガンを羽織り、パソコンに張り付くようにして作業をしている女子生徒。
肩まで切り揃えられた青みがかったショートボブの髪に、不健康そうなほど白い肌。クラスではいつも下を向いていて、自分から誰かに話しかけることなど決してない、空気のように目立たない存在。
同じ二年二組の蒼井かなた。
彼女は備え付けのデスクトップパソコンではなく、わざわざ持ち込んだ私物のノートパソコンを開き、大きな密閉型のヘッドホンを耳に当てて画面を凝視していた。
何かに極度に集中しているらしく、俺が部室に入って近づいていく足音にも全く気づいていない。
ただ、HDDの場所を一から自分で探すとなると、労力がかかるだろう。ここは声をかけてみるか。
「あ、あの……蒼井、だよな?」
俺が背後から声をかけた瞬間だった。
「ヒッ…ヒィッ!?」
ビクゥッ! と、彼女の肩が文字通り跳ね上がった。
まるで天敵の肉食獣に遭遇した小動物のような、尋常ではない怯え方だ。蒼井は慌てて大きめのヘッドホンを外し、椅子ごと振り返って俺を見上げた。
「あ、あ、ハイッ! あ、蒼井ですっ……! な、なんで、讃良木くんが……っ」
顔面は蒼白になり、声は震えて、高くなっており、完全にパニックを起こして、瞳が泳ぎまくっている。
「悪い、驚かせるつもりはなかったんだ。生徒会から頼まれて来たんだが。貸し出してるっていうポータブルHDD、どこにあるか分かるか?」
俺が極力プレッシャーを与えないよう、淡々と事務的なトーンで尋ねると、蒼井はビクビクしながら部屋の中央にある長机を指差した。
「え、あ、えっと……生徒会のHDD……それなら、そこの、机の上の、黒いやつ、です……」
「これか。ありがとう」
俺は長机の上に置かれていた手のひらサイズの黒いHDDを手に取った。
用件は済んだ。あとはこれを白羽のところに持ち帰るだけだ。
そう思い、最後に「ありがとう」と一声かけようと、ふと彼女の方へ視線を戻した。
その瞬間だった。
彼女の背後に開かれたままになっている、私物のノートパソコンの画面。
俺の視界の端に、そのディスプレイの情報がハッキリと映り込んでしまったのだ。
複雑なタイムラインが何層にも重なった、プロ仕様の動画編集ソフトのインターフェース。細かく切り刻まれた音声波形と、カラフルなテロップのプレビュー群。
そして何よりも、画面の中央に配置されたプレビューウインドウの中で、明るく笑っている一つのキャラクター。
青い髪に猫耳をつけ、星型のヘアピンをあしらった、二次元の美少女アバター。
それは、昨晩、俺が自室のベッドの上で視聴したばっかりの超人気Vtuber『彼方ハルカ』そのものだった。
「……マジかよ」
その一瞬の視覚情報が頭をフリーズさせ、部屋中の冷却ファンの低い唸り音だけが、やけに鼓膜に響いてくる。
我に返り、即座に視線をパソコンではなく、蒼井の目に移し、画面を見たことに気づかれないように「ありがとう」と声をかける。
「どうも」と伏せ目がちに受け答えする蒼井を見て、気づかれていないことを確信し、足早に部室を去ることにした。
人類文化研究部の部室へ戻りながら、先ほど画面に映っていたものを思い返す。
あれは、完成された動画の再生画面ではない。アバターの表情差分やモーションの制御、そして音声のリップシンクを行うための、明らかに『中の人』あるいは『運営・編集側』しか持ち得ない生データだった。
彼方ハルカは、企業Vtuberではなく、個人Vtuberである。それに、配信のみではなく、企画物の動画も多く出しており、編集も凝っているようだった。
そう考えると、あのデータは中の人しか持ち得ないのではないかと考えられる。
極めつけは、先ほど俺に驚いて声を上げた時の、彼女の悲鳴。普段の大人しい声では分からなかったが、パニックになって上擦ったその声の響きは、配信でリスナーに向けて叫んでいる『彼方ハルカ』のハイトーンボイス似ていたような気がする。
すべてのパズルのピースが、脳内でカチリと音を立てて組み合わさった。
間違いないだろう。
いつも教室の隅で息を潜めている、目立たないクラスメイトの蒼井かなたこそが、数十万人の登録者を抱える大人気Vtuber『彼方ハルカ』の正体なのだ。
そして今、俺は、彼女の学校生活――いや、インターネット上の命運をも左右しかねない最大の秘密を、真っ向から目撃してしまったのだ。
……おいおい、冗談じゃないぞ。
白羽の倉庫裏での爆食いに続き、今度は人気Vtuberの正体特定という異常事態の発生。
特にVtuberにとって、リアル特定は絶対的なタブーであり、社会的な死を意味する。
もしこの情報が電子の海に一滴でも漏れれば、たちまち炎上という名の巨大な重力が発生し、彼女を地の底まで引きずり込むだろう。
そして、その秘密を知ってしまった俺自身が、この事に関わろうとするなら、彼女と同じような結末が待っているに違いない。
絶対に関わってはいけない。
あそこで「お前、もしかして……」などと探りを入れるのは、三流のラブコメ主人公のやることだ。
俺はもうこれ以上、他人の青春や秘密には一切干渉しない。誰かを助けようとして、自分までもが苦しい思いをするのは、二度とごめんだ。
俺はただの『観測者』だ。観測者は、舞台の上の悲劇にも喜劇にも、決して手を差し伸べない。
きっと、それが平穏を求めるための唯一の正解なのだ。
旧校舎の薄暗い階段を上りながら、俺は固く誓い、白羽の待つ人類文化研究部の部室へと急ぐ。
しかし、個人の決意など、青春の持つ巨大な重力の前では無力に等しいのである。
電子の海に放たれた情報は、すでに連鎖反応を起こし始めており、彼女を、俺を、そして、学校全体までを巻き込む特大の騒動がすぐそこまで迫っているということを、この時の俺はまだ正確には理解していなかったのだ。




