第九話「観測者は憂慮する」
情報処理部の薄暗い部室で、決して知ってはいけない。知りたくもなかった秘密と遭遇してから数日が経過した。
あの日、俺は蒼井のノートパソコンに映し出されていた『彼方ハルカ』の動画編集データを見なかったことにして、逃げるように情報処理部の部室を去った。
頭の中の記憶のフォルダからあの出来事を削除し、物理的にも彼女から距離を置いている。別に元々、親しいわけでもなく、話していたわけでもないんだが。
だが、そんな俺の個人的な意志など関係なく、蒼井にとって、事態は最悪の方向へと転がり始めていた。
発端は、以前投稿していた実写とリンクしたVlog動画だった。
SNSで有名インフルエンサーに拡散されたことで、再生回数が回り始め、動画投稿サイトのアルゴリズムの波に上手く乗ったのだろう。その動画は、数日の間に急激に再生回数を伸ばし、五十万回再生を突破。それに伴い、チャンネル登録者数も目に見えて跳ね上がっていた。
本来であれば、再生回数が回りづらい個人勢のVtuberとしては、飛び上がるほど喜ばしい飛躍の瞬間だろう。
だが、光が強ければ強いほど、そこに生じる影もまた濃くなる。巨大な質量には、厄介な『重力』が必ず発生するのだ。
帰宅して、いつものルーティンを終え、ベッドに寝転がりながらスマホでSNSを巡回していた俺は、とある掲示板のURLが貼り付けられた投稿を見つけて、思わず眉間を揉んだ。
『【特定】彼方ハルカの前世・中の人を考察するスレ Part4』
その投稿に貼られたURLからアクセスし、内容を見ると、以前までPart1の途中で過疎っていたと思われるスレッドが、尋常ではないスピードで更新されているようだ。
俺は嫌な予感を抱きながら、そのスレッドを開き、画面をスクロールした。
『この間のショート動画、背景の窓ガラスの反射見た?』
『見た。画質荒いけど、山の稜線的に西側から見た富士山っぽいよな?』
『つーか、音声に入ってる電車の音、波形を解析したやつがいて、JR身延線の〇〇踏切の音と完全に一致したらしいぞ』
『マジかよ。特定班に変態いるだろ。』
『さらに言うと、夕方に鳴ったチャイムのメロディ。あれ、富士宮市の同報無線だと思う。俺、地元だから分かる。』
そこまでは、俺が数日前に動画を見て推測した内容とほぼ同じだった。
だが、不特定多数の人間が集まるネット民の集合知というものは、時として狂気じみた精度を発揮する。スレッドの書き込みは、さらに踏み込んだ領域へと突入していた。
『過去の雑談配信のアーカイブ全部見直してきた。ハルカちゃん、電車にはあまり乗らないって言ってたぞ。』
『自転車の話になった時も、乗れないからちょっと遠くても、いつも歩いているって。』
「あと、明言はしてないけど、どう考えても、学生っぽいよなぁ。配信、動画投稿頻度も他のVと比べても、かなり低いし。」
『富士宮市在住で、電車も自転車も使わない徒歩通学の学生の可能性が微レ存……?』
『駅近+徒歩通学。この条件を満たす中学・高校って、あの辺だと一つしかなくね?』
『もしかして、このバカみたいにでかい敷地の高校?』
――宮園高校。
ついに、俺たちが通うこの学校の名前が、ハッキリと電子の海に書き込まれてしまった。
「……冗談だろ。」
俺はスマホの画面を見つめたまま、低く呻いた。
顔の見えない有志たちによる、悪意なき特定作業。彼らはただ「推しのことをもっと知りたい」「パズルを解くのが楽しい」という純粋な好奇心だけで、たった数本の動画の端々に落ちていた環境音と過去の些細な発言から、蒼井かなたのリアルを完全に包囲しようとしている。
まだ、オタク達が騒いでいる段階の話だが、このままいけば、学内でも話題になり、特定しようとする輩が出てくるのではないだろうか。
背筋に冷たいものが走る。
もし、彼女の正体が完全に特定され、ネット上に晒されたらどうなるか。
人気Vtuberという特大の質量を抱えている彼女の周囲には、狂信的なファンや、面白半分で叩きに来るアンチ、それを見物したがる野次馬達が発生する。そして、周囲に正体がバレた彼女の学校生活は一瞬にして崩壊し、社会的な死を迎えるだろう。
あの気弱な蒼井のことだ。最悪の場合は……本当に……
「……関係ない。俺には関係のないことだ」
スマホをスリープモードにして、ベッドの上に放り投げて、眠りに入る。
だが、その夜はなかなか寝付くことができなかった。




