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ぼっち観測者は青春の重力に抗えない  作者: 宮下ひとみ
第一章「電子の海の引力と名もなき観測者」
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第十話「観測者は葛藤する」

 それから数日が経ち、表面上は何も変わらない日々が続いているように思えた。


 いつも通りに校門から校内へ入り、中央並木通りを抜けて校舎内へ。だが、そこでどこか普段とは違う空気が流れていることに気がつく。


 すれ違う生徒たちの多くが、スマホの画面を見せ合いながらヒソヒソと話し込んでいるのだ。


「ねえ、見た? Xで回ってきたやつ」


「見た見た! 彼方ハルカってVtuberが、うちの学校にいるかもってやつでしょ?」


 情報をシャットダウンしようとしても、会話の内容が勝手に頭の中へ入り込んでくる。


 最初は一部のネットオタク層の間だけで囁かれていた噂だったのだろう。だが、SNSの拡散力は病的なまでに早い。


 噂はいまや全校生徒の知るところとなり、クラスの中心にいるような陽キャグループすらもその話題に飛びついているようだ。


 二年二組の教室のドアを開けると、その喧騒はさらにひどいものになっていた。


「マジで誰なの!? 一年? それとも三年?」


「絶対可愛いっしょ! 帰りのホームルームが終わったら、それっぽい女子を探してみようぜ!」


「ワンチャン、俺の隣の席の大人しい子だったりしてー!」


「いやいや、お前んとこの席の奴はないわー! ギャハハ!」


 教室の前方で、クラスの男子たちが下世話な笑い声を上げている。


 誰も悪気はないのだろう。「有名人が身近にいるかもしれない」という単なるお祭り騒ぎだ。


 だが、その無責任な熱狂こそが、当事者にとっては鋭い刃となる。


 俺は自分の席に向かいながら、教室の隅、中央側の最後方の席に視線を向けた。


 そこには、いつも以上に小さく身を縮め、うずくまるように机に突っ伏している蒼井かなたの姿があった。


 今日の彼女の様子は、誰の目から見ても明らかに異常だった。


 透き通るような白い肌は幽鬼のように蒼白で、よりいっそう不健康そうに見える。机の下で隠すように握りしめられたスマホを持つ手は、小刻みに、しかし止めどなく震え続けていた。


 呼吸も浅く、時折「ヒュッ」と引き攣ったような音を漏らしている。


「蒼井ちゃん、大丈夫? なんか顔色悪いよ?」


 近くの席の女子が異変に気づき、心配そうに声をかけた。


「……っ!?」


 驚いたように身体を跳ねさせ、蒼井は怯えた目でその女子を見上げた。


「あ、う、ううん……大丈夫だよ。ちょっと、寝不足なだけで……」


 声は完全に上擦っており、今にも泣き出しそうだ。精神的に限界が近いのは明白だろう。


 無理もない。高校生の少女が、ネット上の何万人という不特定多数の人間と、目の前のクラスメイトたちから、じわじわと自分のリアルを包囲されていく恐怖。


 それは、目に見えない無数の手で首を絞められ、逃げ場のない密室に閉じ込められているような感覚に違いない。


 俺は自分の席に座り、カバンを机の横に掛けた。

 視線を前方の黒板に向け、できるだけ彼女を視界に入れないようにする。


 正体を知っているからといって、助ける義理はない。


 中途半端に干渉したところで事態が好転する保証などどこにもないし、むしろ擁護した人物まで特定班のターゲットにされ、無傷では済まなくなるリスクの方が高いのだ。


 ふと、東京の学校に通っていた中学生時代の苦い記憶が、黒く濁った波のように脳裏に蘇ってくる。


「君のせいだから。君が勝手なことしなければ、全部丸く収まったのに」


 救ったと思った相手から投げつけられたのは感謝の言葉ではなく、今なお、俺を蝕み続ける呪詛の言葉だった。


 あの時の言葉は、時間が経って固まったガムのように心へへばりつき、どうしても剥がれ落ちてくれない。

 

 だから、俺は観測者になったのだ。


 重力には逆らわない。他人の問題には首を突っ込まない。ただ安全圏から、このバカげた青春の喜劇と悲劇を眺めているだけでいい。


 それでいいはずなのだ。


 だが、俺の目はどうしても、震え続ける彼女の小さな背中を視界の端で捉えてしまっていた。


 ギリッ、と奥歯を噛み締める。


 教室に充満する無責任な熱狂と、一人の少女を押し潰そうとしている見えない巨大な重力。


 その光景が、かつて捨てたはずの俺の『ひねくれた正義感』を、どうしようもなく苛立たせていた。

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