Ep7-1 月隠《つきごもり》(3)
数日後、薄暗く照明を抑えた美術館の展示室にユナの姿があった。
パンツスーツ姿でキャリアウーマンの装いである。床を覆う絨毯が少し高さのあるヒールの足音を消して静謐な空気を演出していた。ユナはアシンメトリーボブの頭を巡らせて展示室の端にある大理石のアーチに目をやると、ガラス越しであることを感じさせない大型の壁面ケースに並ぶ数々の国宝級の美術品に目もくれずに真っすぐに次の部屋へと進んでいく。こちらの展示室にも壁面ケースに様々な器や掛け軸が並ぶが、この部屋の主役は中央の平台に並ぶ茶器だ。
国宝『曜変天目』。
濃紺の地色が鮮やかなサファイヤブルーからコバルトブルーへと移り替わる中に妖艶な紫や煌びやかな黄金色が大小の丸い斑紋となり群れをなすように浮かぶ景色は澄み切った夜空に輝く銀河を想わせる。人工的な顔料で描かれた模様ではなく焼成時の偶然の連鎖が生み出した構造色が織りなす景色は、器という人工物でありながらどこか大自然の物理現象を凝縮したような有機的な美しさを感じさせる。
だが彼女の来訪の目的はこの国宝の鑑賞ではなかった。国宝の美しさに囚われることなく分析するように細部を観察する瞳の奥では、別の感情が渦巻いていた。
物思いにふけるユナの瞳がふとそれる。青味がかった暗い室内照明に彼女の濃藍色の髪がさらりと流れた。
「紫月様、お待たせいたしました。準備が整いましたのでこちらへお越しください」
スーツ姿の比較的若い男が歩み寄り、ユナをエスコートしていく。展示室の上階にある特別室に案内されてテーブルに着くと、すぐに給仕の女性が現れ見事な器に茶を点ててセッティングを行い退席していった。
「こちらは国宝と同じ曜変天目に類する茶器にございます。時代は下って千六百年頃の作と目されおり重要文化財指定はされておりませんが、いずれも見事な景色を持つ名品と評価されております。リラックスして自由なスタイルでお茶と茶器を楽しんでくださいませ」
案内人の男性が退出すると室内はユナひとりになった。
ユナは目の前の茶の入った器をしばらく見つめたあと、バッグから小さなガジェットを取り出した。簡単な操作でガジェットに表示されたインジケーターの色は緑。間違いない。これはロスト・アセットだ。
『掉尾天目』
この茶器で茶を喫すると、使用者が想い描いた「もう一度だけ会話したかった相手」からの最後のメッセージが聞こえる。それは人生の最期に放たれた魂の一言であり、聴く者にとって慰めにも呪いにもなる。
先のレイドでリストアップされていたターゲットの一つだったが、国宝を守る厳重な警備の前に挑戦者は全員敗退し、このロスト・アセットは美術館に残されたままとなった。
ユナは静寂の中でゆっくりと器を傾け薄茶を喫する。苦味の奥に塩味と甘みが繊細に絡み合う味わいが絹のような泡となってのどをくぐりぬけていく。
清々しい余韻が呼び覚ましたかのように、懐かしい声がユナの頭蓋の中に木霊した。
『――家族を守るんだ、ユナ。みんなを救ってくれ――』
目を開く代わりにきゅっと強く瞼を閉じて、温かい声の残響をできるだけ長く脳裏にとどめようとする。
「セドリック兄さん……。みんなは、“家族”は生きているの?」
だがユナの問いに答える声は無く、死者の魂が触れた感覚は泡となって消えていく。
わからない……。
結局、ここ数か月追いかけていたOZのリーダーに関する情報収集はまったくと言っていいほど空振りに終わっていた。
二年ほど前に突如として現れ、瞬く間にランクAのチームにのし上がった新進気鋭のレイダース。多種多様なドローンを駆使し、現場には一切姿を現さない謎の集団。チームメンバーとして知られている名前はリーダーを名乗るリヴィオ唯一人で、その顔どころか後ろ姿さえ目撃されたことがない。あまりに謎めいた素性と天才的なサイバー技術から、世界的なハッカー集団の隠れ蓑だとか実はAIなんじゃないかなどと噂されている。
ただ、レイドの際に繰り出されるドローンの物量は独立系のレイダースチームでは考えにくく、背後に国家レベルのスポンサーがついているのは確実であろうという予測はレイダース界隈の共通認識となっている。
それらのプロファイルにユナの知るリヴィオはぴったり一致する。が、その生死については不明なままだった。
生きているなら、無事でいるなら私に連絡があるはずだ。
同じレイダースとして活動しているなら彼が私の存在に気付かないはずがない。
なら、なぜ?
連絡できない事情があるのだろうか。
まだ“組織”に囚われている?
いえ、あの“組織”に囚われているなら表には出てこれないはず。
やはり別人?
だとしたら、セドリック兄さんのメッセージの意味は?
わからない……。
ユナの思考はぐるぐると同じ場所を巡りつづける。
過去からの残響が、年数を重ね大人になったはずの自分が昔の場所から一歩も動けずにいる事実を否応なく突き付けてくる。
美術館をあとにしたユナの頭上に、新月を過ぎたばかりの白い月が幽鬼のごとく浮かんでいた。
***
ノクターナルの拠点の地下に設けられた訓練場にコンバットスーツ姿の漣が立っていた。高い位置にある制御室にはショーの姿がある。ショーがカフをあげて訓練場のスピーカーを鳴らす。
『セッティング完了。いつでもいいぞ』
漣が軽く手をあげて訓練開始のボタンを叩き込む。銃を構え、訓練場の遮蔽物をたどるようにして素早く進んでいく。いわゆる近接戦闘《CQB》シミュレーターだ。ホログラムで現れる敵を撃ちながら訓練場の端までの踏破時間を測定する。ホログラムにはときおり民間人が含まれており、瞬間的な判断力が評価される。
『ビィ――』
漣が端までたどり着いてボタンを押し込むと訓練場のスピーカーから終了のブザーが鳴った。
「ミスはゼロ、被弾もゼロ。だが射撃判断はコンマ七秒か。やはり落ちている」
『以前に比べれば、だがな。十分に早いよ』
「だが実戦では今までと違う調整が必要になる」
『まあ、そこはリハビリあるのみだな』
「ショー、もう少し付き合ってくれ」
汚れたシューティンググローブを交換しながら漣が声をかける。
『もちろんだ。次、いくぞ』
「よろしく頼む」
漣は傷一つない生身の右手で新品のグローブの封を切った。




