Ep7-19 有明コロシアム(2)
いつの間にかアリーナに降り立ったユナさんを細身の男が優しく抱き留めてなだめるように髪を撫でる。青白い肌が非現実的に見えて、ユナさんはそこにいるのに男はそこにはいないような印象を受ける。
近づいちゃだめだ、そいつは敵だ。理性が鳴らす警鐘を俺は口にすることができずにいた。二人の間に確かな絆を感じて金縛りにあったように見守るしかなかった。
「君たち二人を先に逃がそうとして『施設』の警備システムにいたずらを仕掛けたまではよかったんだけどね。連中にオリバーたちが捕まってしまって、降参しないとひどいことをするぞって脅すものだから仕方なく戻ることになってさ」
ユナと男の間の会話は遠すぎて俺には聞こえなかった。
「連中がボクたちに銃を向けるとは想定していなかった。彼らにとっては殺すにはもったいないほどに金がかかった存在だったからね。だけど脱出がうまくいきすぎちゃったみたいだ。あのあと連中はボクたちを完全に拘束してね。もう一度抜け出すまでにずいぶんと時間がかかっちゃったんだよ。ボクの力不足と読みの甘さのせいだ。ごめん」
ユナさんが首を振る。アシンメトリーボブの髪が月明かりにさらさらと舞う。
「みんなは無事なの?」
「ああ。まあ、無事といえば無事かな。ちょっと厄介な状況になっているんだけどね」
ユナさんの心配そうな顔に向かって男が安心させるように言った。
「心配しなくても『組織』は完全に消滅したよ。実をいうと最終的にはボクが組織を掌握してね、必要な資産を接収した後は『施設』とか人員とか、要らないものは全部消去したんだ。きれいさっぱりね。だからユナは安心していいよ。君はもう自由なんだ」
「なら、なんで今になって私に接触してきたの?」
「みんなを完全に開放するにはちょっとした技術的な問題があったんだ。それを解消する手段が最近ようやく手に入ったのさ。それで最後のピースを手に入れるためにユナの協力が必要になったんだよ。一緒に来てくれるかい?」
「あなたは今も、オリバーやペトラたちのために行動しているのね?」
「ああ、もちろんそうさ。愚かな人類どもに損なわれた家族をそのままになんかしておけるもんか」
「愚かな人類って……リヴィオ、あなたはまだそんなことを言っているの?」
「事実だろう?知能が低すぎてボクがせっかくいい方法を教えてやっても利点が理解できずに無視するような連中だよ?最近では自分の尻もぬぐえずに地球をダメにしようとしているじゃないか。せめて優秀な僕らの言葉を受け入れて指示に従うなら残してやってもいいけれど、ボクたちの提案が理解できないんじゃ生きている価値など乳牛ほどしかないだろ?」
「あなたまさか……」
青ざめるユナさんに男は明るく笑いかける。
「別にボクは人類を根絶やしにしようと企んだりしないよ。そんなことをしなくても連中は自分たちを殺すのに夢中だからね。ほうっておけば勝手に滅びるだろうし。それに、その過程はエンタメとしては傑作だからね。ボクは画面の外から眺めるだけさ。ただ、ボクたちの家族を救うために数千万人ほど犠牲になってもらうかもしれないけどね」
「だめよ、リヴィオ。それはダメ。他人を犠牲していいわけない。そんな方法で家族を助けてもセドリック兄さんは喜ばないわ」
「さあ、どうかな。それはセドリックに聞いてみないとわからないんじゃないかい?」
「兄さんは死んだのよ。どうやって……はっ、まさか」
恐ろしい予測に男を突き放すようにして身を離したユナさんが口元に手をやる。
男は両手を広げる芝居がかった仕草で言った。
「ボクたちが最近手に入れた『オルフェウスの鍵盤』は死者の声を呼び覚ます力を持っている。この力を正しく扱えば、死者蘇生さえも可能さ。人類には出来なくてもボクたちには出来る」
男の目が怪しく光る。
「ユナ、協力してくれるよね。そして一緒にセドリックに確認しようじゃないか。ボクたちが間違っていたかどうかを」
「それは……でも……そのために誰かを犠牲にするのは……間違い……」
うつむき、グッと唇をかみしめてユナさんが再び顔をあげる。
「できないわ。そんなことを認めたら、私は二度とノクターナルに戻れなくなる。みんなには会いたいけれど、それでも今の居場所はここなのよ」
悲しく、手放しがたい過去の家族への思いと、今を支え合う仲間との絆。比較できない大きなものをあえて天秤に乗せてユナさんが決意を語る。
「ボクがこんなに頼んでも?」
男がわざとらしく困った表情を作ってユナさんに問いかける。
ぐらつく気持ちを振り切るように軽く頭を振ってユナさんが答える。
「ええ」
「もう一度セドリックに会えるとしても?」
今度は先ほどの倍近く逡巡したかのような時間がかかったが、再度ユナさんは首を振った。
「……ええ」
じっとユナさんの表情を探るように見つめていた男が身を起こして、ふむ、と小さく息をついた。
「そっか。ならしょうがない。ユナの心のよりどころをひとつ消すことにしよう」
あっさりと、お菓子が嫌ならケーキにしよう、というような口調で男がこぼす。
一瞬、理解を越えてフリーズしていた脳が急速に回転を始める。
「何をする気だ!」
離れた観客席から大声で問いかける。
男はちらりとこちらを見てそっけなく言った。
「君には二度も術式の取得に協力してもらったからね。面白そうな特技も持っているようだし、君には手を出さないよ。あと、あの怖そうな女子にもね」
「リヴィオ、あなた、何を考えているの?」
「別に」
男は肩をすくめてあっさりとした口調で続ける。
「プランBさ。準備は整っている。今頃あっちはちょうどいい感じゃないかな?」
「……はっ、リーダーに何をしたの?」
「何もしてないさ。今はまだ、ね」
くすくすと笑いながら男がユナから離れてアリーナの真中へ移動する。
「ユナ、あとで迎えにいくよ」
まっすぐに立って余裕のポーズを決める男の姿が頭頂部から崩れて消えていく。
ユナさんが声にならない悲鳴を上げて思わず駆け寄る。
霧のように消えていくリヴィオの姿を空しくかき集める動作を止めて、ユナさんは霧が去っていく天井を見上げた。
コロシアムの可動式天井がいつの間にか全開になっており、満月がのぞいている。
だが、少し様子がおかしい。
雲一つない漆黒の空に銀盆を置いたようにまばゆく輝いていた満月がわずかにぼやけて見えた。まん丸だった月の左下にまるで薄墨を落としたかのように、その一部が陰り始めていた。




